第32話 吐露
自分が変われば世界は違って見えるものだと、俺は改めて街を歩き回って初めて気づいた。
時刻は夕暮れ時。俺は街中を行くあてもなく歩き回っていた。
パトロールから帰りジルさんと話したのが昼頃。そしてアイラと話したのがそれから一時間後で、その後からずっと歩き回っているから三、四時間歩き続けたことになる。今日はよく歩く日だ。いつもの倍近く歩いているかもしれない。
アイラと話した後、俺は少し歩いてくると言って家を出た。その時アイラは心配そうな顔をしていたが、心配ないと頭を撫でてやると安心したように笑いかけてくる。
実際心配はなかった。まだ時間にはなっていないのだ。衛兵とあったところで何かあるわけでもない。それに本当にただ歩いているだけなのだ。俺がよく訪れていたところを順番に回った。市場、街の中心部、公園、そして殺人に使っていた工事現場など。言ってみれば聖地巡礼のようなものだ。この場合聖地ではなく思い出の場所だが。
その場所を訪れると、いろいろと思い出が思い浮かんでくる。
ここによくアイラと買い物に来たな。ここではよくメアと休憩していたものだ。ここではたくさんの罪なき人を殺した。仮にも俺が生まれ育った街だ。少なくない日々をここで過ごした。いろんなことが次々と頭の中を駆け巡る。それらをもう必要ないと殺していった。未練を、後悔を断ち切るために。
するとどうだろうか。体が軽くなったような気がした。自分の背負っていたものがなくなって気楽になった気がした。そして、世界から色が消えていった。もちろん本当に消えたわけじゃない。だが気づけばそう感じるほどこの世界は空虚なものに成り下がっていた。俺の世界の背景にもなり得ない、そんな無意味なものになっていた。
俺はそれを悲しいとは思わない。むしろ喜ばしいことだと思っている。その空虚さこそ、俺が変われたという証であり、証明であるから。前の俺ならその場所その場所で過去を振り返っては自分の決意を迷い、苦しんでいただろう。だが悪の俺のたった一本の芯は少しも揺らぐことはなかった。
「これなら……守りきれる」
今ならなんだってできる気がして、思わずそうこぼした。
守るだなんて主人公のようなセリフがおかしくて、思わず俺は笑ってしまった。
全く似合わない。主人公になるには俺の雰囲気や行いはあまりにも残虐非道すぎる。
少ししてもうあらかた街を回り尽くした頃になって、あたりはだんだんと光を失っていく。さっきまで空にぽっかり浮かんでいた太陽は顔を隠し始め、代わりに辺りを薄暗く青い夜が多い始めた。
もうそろそろ夜だ。約束の時間だ。ジルさんは今頃衛兵を集めて部隊を編成しているだろう。もう帰らねばと幾度となく歩いてきた帰り道を辿った。
俺が歩くのに続くように、道の両脇の家々の明かりが次々と灯されていく。そんな風景ももはや見慣れたものだった。だがそれでさえもう今日で見るのは最後だ。今日俺が生き残ろうが、死のうがこの街にはいられない。
覚悟はできた。だからあとは実行するだけだと、意気揚々と最近ではなかったくらいの力強い足取りで石畳を足の裏で鳴らした。
その時、後ろの方でかすかに音がした。足音に、人の呼吸音。それだけならなんてことはない。何も思うことなく、俺は歩き続けるだけだった。
だがそれは俺の聞き覚えのあるもので、彼女はなぜこんなにもタイミングが悪いのかと思わず深くため息をついてしまう。それはだんだんと大きくなる。俺が歩いていて、彼女は走っているのだから当たり前だ。ここで逃げるように走り出すのも何か違うような気がして、だからと言ってこのまま歩き続けでもそのうち追いつかれるだけだと、俺はあえて足を止めた。
その足音はさらに大きくなる。形ある後悔が近づいて来ているのがよくわかった。
そしてそれは俺の真後ろまで来て消えた。はぁはぁと苦しそうな息遣い。それもだんだんと小さくなり、やがて消えた。
そこまでいって俺はようやく振り返る。どちらにせよいつかは向き合うつもひだった彼女を見つめて、口を開いた。
「何の用だーーメア」
少し激しめの運動をしたせいか顔を少し赤くした
「やっと見つけたっスよ、先輩」
「それで、何の用だ」
白々しいにも程があると、思わず自分で笑いそうになった。メアがここまで走って来ているなら、ジルさんから話は聞いていると予想はつくのに。
だがそんな俺の態度を気にもせず、彼女はただまっすぐに俺を見つめていた。午前の彼女とは雲泥の差だ。
「隊長から聞いたっス。ユルト先輩のこと」
「そうか。それでどうするつもりだ? こんなところまで追いかけて来て。今朝はあれだけビビってたくせに、ジルさんも味方だとわかった途端にこれか?」
メアはバツが悪そうに顔を逸らした。
彼女は今朝俺に怯えていた。そして俺の脅しに屈した。だと言うのにジルさんも知っているとわかった瞬間、そして彼女に味方が増えたとわかった瞬間こんな行動に走るのは手のひら返しが過ぎる。
メアもそれは重々承知しているようだった。
「それはーー」
「それと、その先輩っていうのはやめろ。お前の先輩の俺はもういない。悪鬼隊の俺は死んだんだよ」
「っ!」
俺に追いついた時の真剣な表情はどこへいったのやら。彼女はさらに顔を歪ませる。
言い訳を言おうとしたのかはわからないが、何かを言おうとしたのを遮られたからではないだろう。明らかに彼女は今の俺の言葉に傷ついていた。
メアは引かれていた手を失った子供のような瞳で俺を見つめた。だが俺は再び手を伸ばすことはしない。それをメアも察したらしい。無理やり表面に出かかっていた感情を内に押し込んで、俺に追いついた時のような表情を顔に貼り付けた。
「ーーユルトさんは……どうするっスか?」
ーーユルトさん
彼女が最終的に選んだ俺の呼称はなんてことのない他人行儀なもので、それがかえって俺とメアの間の幅を際立たせる。そんな距離感に俺は妙な心地よさを感じていた。
そうだ。これでいい。これが今の俺とメアの最適な距離感だと、自分に言い聞かせて。
メアは俺の中でもかなり深部に入り込んだ人間だ。だからこそうっかりと元の俺に戻ってしまうのがどうしようもなく怖い。また近づかれたら剥がれてしまいそうで恐ろしい。
だからこれ以上近づかせないために距離を取るのだ。
「どうするもなにも、お前は前の俺と短い付き合いじゃない。聞かなくてもわかるだろ?」
「……」
前のという言葉を強調して、俺は彼女にニヒルな笑みを貼り付けて首を傾げた。
彼女の中でも予想はついていたのだろう。やっぱり……と彼女は俯いた。表情は影でよく見えない。
「やっぱり……ジルさんの提案を受けないんですね。妹さんを守るんスね」
「ああ、当たり前だ」
「そうっスか……。ユルトさんってシスコンっスもんね……」
ハハハ……と乾いた笑いをメアは漏らす。
「でもユルトさん。考えてみてくださいっス」
そういって彼女は顔を上げた。その顔は笑っていた。取り繕おうとして失敗している、出来損ないの笑み。だからとても歪で、哀れに思ってしまう。
「討伐に何人参加するか知ってるっスか? 約八十人っスよ八十人」
「八十人……」
予想以上の人数だった。せいぜい二十人くらいかと俺は予想していた。一感染者のためにかける人数にしては多過ぎる。
「完全に変異していない人は、肉体的にも精神的にも不安定でうまく動けないから本来は十人も要らないっス。なのに八十人も参加するんスよ? その理由、わかるっスか?」
下手したら普通の十倍以上の人数をかける理由。感染者が俺だったらまだわかる。だが感染者はアイラだ。ジルさんはアイラのことも知っている。何度か会ったこともある。だからアイラが原因ではない。となるとーー
「俺対策か……?」
自然とそんな言葉が口から漏れた。
メアがジルさんから話を聞いたのは俺が出ていった後、つまり数時間前だ。その時から八十人と決まっていたということは、ジルさんはもしかしたら俺が承諾しないとわかっていたのかもしれない。
「そうっス。いくらユルトさんでも数には敵わない。だから……無理なんスよ」
悲しげな瞳を俺に向け、彼女はそう言い切った。予想じゃない。メアはそう断言した。
それは俺だって少しは思っていることだ。だが目をそらしてきた。俺ならやれると自分自身を鼓舞して。
突きつけられたそれは、思ったよりもすんなりと俺の心に入ってきた。
「ユルトさんが死ねば、妹さんも殺される。ユルトさんが隊長の案に乗ろうが乗らまいが、妹さんは死ぬっス。それなら……どちらにしろ死んでしまうなら……先輩だけでも生き残ってもいいじゃないっスか」
ひどく乾いた、軽い調子の声だった。弱々しく、軽すぎて吹かれて消えてしまいそうな、そんな声。だが不思議と耳にはしっかりと入ってくる。
心臓に突き刺さるような言葉じゃない。どちらかといえばじんわりと染み込んでくるような、そんな感覚。
だが俺の考えは変わらない。変わるはずがないのだ。
「……それでも俺はやる。もう俺のせいでアイラが傷つくのを見るは……いやなんだよ」
メアは諦めたように軽く笑って、俯いた。
そしてボソボソと小さな、だがそれでいてはっきりと聞こえる声で言葉を紡ぐ。
「ユルトさん……わかってるっスか? 死ぬかもしれないんスよ?」
「ああ、わかってる」
「死んだら……何も残らないんスよ?」
「……わかってる」
その言葉を聞いて、メアの方がブルリと震えた気がした。
「なんで……」
今までにないほど小さな声。だがそれでも声が震えているのがよくわかった。
「わかってない! あなたは何もわかっていない!」
顔を上げ、彼女は叫んだ。その顔にはいつもの彼女なんて見る影もない、今まで見たこともないくらいに必死な表情だった。ただそこにあるのは鬼気迫る、人の感情がそのまま表に出たような、そんな表情だった。
「死んでもいい? 自分が死んでも妹が助かったら満足? 悲劇の主人公ぶるのはやめてください! 第一あなたが戦えば妹は助かると本気で思ってんですか? そんなわけないでしょう! あなたが戦おうと戦わなくても妹は死んでしまいます! あなたがしようとしていることに何も意味はない! ただの無駄死にです!」
あの夜と同じように、そこにいつもの口調はない。なんだかんだいつ何時でも失わなかった冷静さなんてあるわけがない。なりふり構わず自分の感情をそのまま俺にぶつけてくる。
「それに……あなたはなにもわかってない! 置いていかれる人間の気持ちをまるで考えていない! あなたのそれは妹のためなんかじゃない! ただの自己満足です! 妹さんの気持ちもーー私の気持ちも一切考えていない!! あなたに置いてかれるくらいなら私はーー」
その怒りにも近い感情を俺は反論することなく全身で受け止めた。
反論なんて、できるはずもなかった。それは全て少なからず間違ってはいないことなのだ。
「そう、そうですよ。なんであなたは私を脅したんですか? なんで殺さなかったんですか? 私に情が移ったから? 一人置いてかれて、残される苦しみを味わうくらいならーー」
「やめろ」
なんとなくその先に続く言葉が予想できて、その言葉を口にして欲しくなくて、ついつい口を挟んでしまった。
だがたかが俺の一言で、溢れ出たメアの感情の激流を今更どうにかできるわけもなかった。
「私はあなたに殺された方がマシだった!!」
「やめろ!」
二人の叫びが重なり、沈黙が降りる。
ああダメだ。異常な彼女に当てられたのか、俺の過去が悲鳴をあげる。俺の世界が失った色を取り戻し始める。
だめだだめだと首を振り、また色を振り払った。
メアは全てを出し尽くしたように俯いたままなにも言わなくなった。俺もなにも言わない。ただただ無意味に時間だけがすぎていく。そうのんびりしている暇もない。そうわかっているのに、俺もメアもお互いにお互いの言葉を待っている。そんな状態だった。
「なんで……なんでそこまでするんだ?」
俺はそんな本当に些細な疑問を、この空間に投げ入れる。
本当に単純な疑問だった。なぜこんなに気にかけてくれるのか全くわからないのだ。俺は彼女を脅したはずだ。殺すと、そう言ったはずだ。なのに彼女は俺を救おうとしている。
自分を脅したやつを助けることができるだろうか。自分を殺すと言ったやつを助けることができるだろうか。
そんな疑問が切って捨ててしまえばいいようなメアとの関係を縛り付けていた。
「なんでですかねぇ……」
メアは力なく笑った。さっきのような無理やりなものではなく、本当に自然な、思わず見入ってしまいそうな美しい笑顔。だというのに今にも泣きそうな、何かを諦めたような表情だった。
「好き……だからですかね」
メアは、そうポツリと雫のように呟いた。
「なんとなく自覚はしていましたが、自分でもここまでとは思いませんでした。いざとなったら切り捨てれる程度だと思ってました」
なぜだろうか。特にこれといった驚きや動揺はなく、驚くほどすんなりと胸の中に収まった。
彼女は弱々しく今にも消えてしまいそうな顔で笑う。キラリと、彼女の頬で太陽の光を反射して何かが光った気がした。
「でも……無理だった。自分の信条を曲げてでもあなたを助けたいと、そう思うほどにあなたを好きになってしまった。ーー愛してしまったんですよ、ユルトさん」
「っ!」
光っていたのは彼女の涙だった。メアとは数年間仕事中はほぼ一緒にいたといっても過言ではないほど同じ時間を過ごしたが、泣いたところは一度も見たことがなかった。だから俺には彼女が泣いたという事実は相当驚くべきことだった。
だがその涙はあまりにも綺麗で、あまりにも高尚なものに感じて、思わず俺は顔を逸らした。
「何も……言ってくれないんですね」
メアは悲しそうに顔に影をさした。
何も答えない。答えれるわけがない。俺にはそんな資格も何もないんだから。
また逃げ出した。悪になった俺はアイラのことはよく見えるようになった。だが、アイラしか見ることができなくなってしまったと、俺は実感してしまった。
何か言わねば。そんなことが頭に浮かんだ。
「メア。俺はーー」
「ユルトさん。早く帰ったらどうっスか? 時間も少ないんスよね?」
気がつけば、いつもの彼女に戻っていた。いっそ不自然すぎると感じるほどに平常どおりだ。
メアは涙の跡を頬に描きながら、いつもの感情の乏しい表情で俺にそう告げる。
前で組まれた腕は細かく震えていた。
「……じゃあな」
それだけをいって俺は歩き出す。彼女は何も言わなかった。さようならも、お疲れ様も、いつもなら口から出る言葉が今日は何も出てこない。
これといって罪悪感を感じているわけじゃない。悲しい気持ちにも、暗い気持ちにもなっていない。俺はもう悪に成り下がったんだ。この程度で気持ちが沈むことなんてありえないのだ。
ーーだと、いうのに。
後ろから微かに聞こえるすすり泣くような声を、俺はどうしてこんなにもはっきりと聞くことができるのだろうか。
どうして、こんなにも心が痛むのだろうか。
そんなことを考えている暇はないと、頭に浮かんだ疑問を打ち消すように自分の両頬を叩いた。
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