第31話 ーーだから……もうやめよう
ギィと蝶番が鳴るのを耳にしながら、やけに軽く感じる家の扉を開けた。
考えての行動じゃない。いつもの動きに則した条件反射に近い。兵舎を出てからはそんな感じだ。自分自身で命令しているわけじゃないのに、頭が行かねばと考えているのか、いつもの行動を体が再生しているだけなのか、思ったよりも早く家に着くことになった。それがいいこととは言い難いが。
ほぼ毎日帰ってくるときには自然と口から出てきた「ただいま」も出ることはなく、無言で玄関を通り、アイラがいるはずのリビングへ体は動く。
どうするべきかまだ決めかねているというのに。いや、取るべき行動はわかっているが、その心の準備だとか覚悟ができていないのに。そんな俺を待つことなく体はどんどん先に進んでいく。
そしてついに、左右非対称の妹の元にたどり着いてしまった。彼女は今こちらに背を向け、背後にいる俺に気づくことなく鼻歌なんて歌いながら洗濯物をたたんでいた。まだ昼間という本来なら俺は帰ってこない時間だ。
「……アイラ」
「うわっ!」
俺の口から出る言葉は俺の予想以上に弱々しい。吹けば消えてしまいそうな、そんな頼りない声だった。そんな声でも彼女の耳には届いたようだ。ビクリと肩を震わせ、恐る恐るといった調子で振り返り俺を見て、ホッと安心のため息を漏らした。
「びっくりしたぁ……なんだお兄ちゃんか。帰ってきたなら一言言ってくれればいいのに。珍しいね? こんな時間に帰ってくるなんて」
アイラは半分カラカラと俺に軽く笑いかけた。だが俺は何も返せずにただ黙るだけでいてしまう。
アイラは反応のない俺を不思議に思ったのか、俺の顔をジロジロと眺めた。そして、どこか納得したように悲しい微笑を浮かべた。
「なにか……あったんだね」
「……いや、そんなことはーー」
そんなことはないと言いかけて、口を閉ざした。今更、そんな下手な嘘をつく必要もないと思ったのだ。顔を見てそう察することができるほど、ひどい顔をしているのだろう俺は。それに、俺がアイラの嘘を見破るのが得意なのと同じように、アイラも俺の嘘を見破ることは下手ではないのだ。
だが、どう言うべきかわからず、なかなか俺の口は開いてくれない。喉から言葉が出てきてくれない。
昼間のメアのように、パクパクとみっともなく口を動かすことしかできなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。私ね? お兄ちゃんが思っているよりずっとお兄ちゃんのこと見てるんだよ?」
途中だった洗濯物をたたむのを中断してこちらを向き姿勢を正す。そして待ちきれないというように、彼女は突然口を開いた。俺を悟らせるように、母親が子供に優しく言い聞かせるようにーーと言っても俺はされたことはないがーー彼女は語る。
その言葉の意図がわからず、俺は何も返せなかった。
ユラユラ揺れる黒と赤の瞳をじっと見つめるしかできない。
「だからお兄ちゃんが辛い時はなんとなくわかる。でもお兄ちゃんは一度も私を頼ってくれなかった。なんで? 私は頼りない?」
「そんなことーー」
「あるから、私には言わないんでしょ?」
俺の否定も遮って彼女は言い切った。そこまで強くいうということは、彼女の中で確信していることであるということで、的外れというわけでもなかった。
俺が秘密にする最大の理由はアイラを傷つけないためだ。だがそれは傷つきやすいか弱い少女だと、頼りない少女だと思っているということではないか?
図星を突かれ、顔を逸らしてしまった。
「私はそんなに弱くないよ。守られるだけはもう嫌なの」
だが逸らした俺の顔は再び戻された。頬には左右で違う感触。左には硬い、右には柔らかな感触がした。
「だからさ、教えて? 何もできないかもしれない。でも、私にも一緒に背負わせて?」
顔を近づけて俺を見る眼差しは強い。その強さが覚悟の強さを表しているようで。
これではもう何も言えないではないか。
「……参った。わかった。ちゃんと言うよ」
ついつい笑みがこぼれる。いつのまにか成長した子供を見たような、そんな微笑ましさを感じた。そんなことを感じるような余裕はないはずなのに、心なし気持ちが軽くなった気がする。
よしと、満足そうにアイラは笑った。
「実はーー」
俺は、昨日の夜メアにバレたこと、彼女を脅したこと、ジルさんにもバレていたこと、ジルさんに言われたことを包み隠さず話した。もちろんアイラを殺せと言われたと言うこともだ。
自分を殺せと命令されたと聞くのはそういい気分ではないだろうに、俺のことを思ってかアイラは表情を崩すことなく真剣に最後まで聞いていた。
さっきまでの葛藤はなんだったのだろうか。そう思うほど今まで出てこなかった言葉はスラスラと口から溢れてくるようだった。
「……そっか。ついに、バレちゃったんだ……」
アイラが思った以上に深刻だったのか、そう呟く彼女の声にさっきまでの鋭さはなくなっていた。だが決して戦意喪失したわけではなさそうだ。その黒赤の双眸には確かに光が灯っていた。
「あぁ……だが安心しろ。お前は何があっても俺が逃してやる」
「……」
俺のとる行動はもう決まっていた。ジルさんに殺せと言われた時からすでに決まっていたのだ。ただ、いきなり言われて動揺していただけで。ちょっとした雑念が俺の真意を覆い隠していただけで。俺の中の最終的な答えはもう決まっていた。
この程度でアイラを殺すという選択肢を選ぶくらい意思が弱かったら、俺は何年も仮だとしても悪をやれていない。
それはアイラだってわかっているはずだ。だからさっきのはそれを口にしただけだった。アイラはなんの疑いもなく頷くと思っていた。だが予想に反して彼女は何かを考えるように目を伏せるだけだった。
「ーーううん」
長くはない沈黙の末、彼女は首を横に振った。何かを諦めたかのように力なく。
その瞳は確かな覚悟を持って、柔らかくこちらを見つめていた。
「お兄ちゃん。私を殺して?」
そして、奇しくも希望を見出したあの日と同じことを言うのだ。
そこに込められた意味があの日と同じなら簡単に否定できただろう。だが全く違うのだ。正反対なのだ。絶望に打ちのめされ半ば自暴自棄になって言ったあの時とは違う。今の彼女は自分の意思でそう発言していた。
「もうお兄ちゃんが私のせいで傷つくのを見るのは嫌なの。私一人の命でお兄ちゃんが助かるなら……安いものだよ」
あの日俺がアイラにしたように彼女はそう俺に言い聞かせる。
アイラはこう言っているが、論破というか他にもこの道以外を選べない理由を説明はできるのだ。
まず第一にジルさんが本当に見逃す保証がない。ああ言っていたが彼の正義への入れ込みはもはや狂気と呼べるほどに深いのだ。
それにこれは俺のことだが、もし許してもらえたとしても俺が耐えられないだろう。少なくともメア、ジルさん、対策室の人々を含め少数の衛兵にもう知られているのだ。その中で何もなかったように過ごすなんて、気が狂いそうだ。それに、妹を自分の手で殺したという罪悪感にも……。
だが彼女を説得するのに、そんなことじゃダメな気がした。
それに彼女は気づいているだろうか。さあと催促するように腕を広げる体が、カタカタと小さく震えているのを。迫ってきた死に怯え、恐怖で表情が歪んでいるのを。
自分の意思なのは確かかもしれない。だがとてもじゃないが、本心から望んでいるようには見えなかった。
そして半分の顔をさらに歪ませた。漆黒の瞳が徐々に潤いを帯びる。それは俺に殺されると思ってのことだろうか。その表情が俺の心を押しつぶそうとする。
一歩近づいた。するとさらに体を震わせる。
それは我慢の表れで、覚悟の表れでもあった。自分の感情を押しつぶしてでも俺を助けようというアイラの覚悟。もちろん、嬉しいに決まっている。だがそれをして欲しいかと言われるともちろん否だった。
アイラが襲われた時と同じだ。俺を思ってくれている喜び、俺が本当に殺すと思っている哀しみ、そんな顔をさせてしまっている罪悪感など、いろんな感情が俺の中で暴れまわり耐えきれずに彼女を抱きしめた。
「俺は……何があっても、何をしてでもお前を助けると決めたんだ。それはできない」
「おに、ちゃん」
きつく、きつく抱きしめた。彼女の命を確かめるように。アイラも恐る恐るといった様子で俺の背中に手を回す。固い感触と軟らかい感触。相反する二つの感触を背中に感じた。
「本心からそう望んでいるなら、俺はそれを尊重する。何よりもアイラの幸せが第一なんだ。俺のことは二の次でお前を殺してやる。だけど、それはお前の本心じゃないだろ? なあ、聞かせてくれお前の本心を。アイラは心の底から、何を望んでいるんだ?」
俺は彼女の耳元でそう囁いた。彼女を覆っている理性の殻を突き破るように。
アイラの体の振動が俺にも伝わってくるようだった。
「わたし、は……」
彼女の嗚咽が耳に入る。肩に湿った感触を感じた。今までせき止めたものが溢れ出しそうな、そんな調子で彼女は言葉を漏らす。
「わたしが、本当に望んでるのは……」
思えば彼女の本心を聞くのは初めてかもしれないと、今更ながら気づいた。三年前殺してと俺にいった時も、半ば押し切るような形で落ち着かせていて、本当はどう思っているのか聞かなかった。
だから俺は初めて漏らす彼女の本心を全身全霊で受け止めようと思った。
アイラの声はだんだんとはっきりしたものではなくなり、嗚咽が混じり始めた。体の震えも大きくなり、肩に感じる湿り気も増えた。彼女が泣いているのはよくわかった。
アイラにとってもずっと隠してきた本心を晒すのは大変なことに違いなかった。
「わたしは……生きたい」
小さなヒビから漏れ出した水のように、ポツリと彼女はそう言った。
「生きて、お兄ちゃんと過ごしたい。朝ごはん食べて、二人でのんびり一日を過ごして。特別なことなんてなくていい! ただ平穏に過ごしていたかった!」
一度漏れ出したものは止まらない。ついに彼女は強く俺を抱きしめ、顔を俺に押し付けて泣き出した。俺はよく頑張ったと、彼女の白混じりの赤髪を優しく撫でてやる。
過去に意識を巡らせると、今まで一度も弱音を吐かなかったなと、ふと頭に浮かんだ。不安もあっただろう。恐怖もあっただろう。罪悪感だってあったに違いない。それを溜め込んで溜め込んで、今日今初めて吐き出すことができた。耐えきれなくなったのか止まらず泣き続ける彼女をより強く抱きしめた。
「それは、俺だって一緒だ。だけどこのままじゃそれは叶わない。だから俺は戦うんだよ。だから俺は……お前の敵を殺さないといけない」
もうアイラは泣きじゃくっていて、彼女の耳に入っていないかもしれない。だが俺は自分に言い聞かせる意味も込めてそう言った。
アイラの敵を殺す。要するに衛兵を殺す。ジルさんを殺す。
それは生半可な覚悟じゃダメなことだ。
「だから……もうやめよう」
仮面をかぶるのはやめよう。
自己暗示に逃げるのはもうやめよう。
仮の悪だからと逃げ道を作るのはもうやめよう。
悪の仮面を作り出すのは、もうやめよう。
俺は正真正銘の悪になる。
正義の俺は、悪鬼隊の俺はもう死んだ。
今この時からいないのだ。
たった今から俺は悪だ。
妹を守るためならかつての仲間を殺すのさえ厭わないと、妹を助けるためなら
パキリと、どこかで何かが割れるような音がした気がした。
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