第30話 チェックメイト

「……じゃあ、私報告書書いてくるっス」

「ああ」


 もはや実際に質量を持ちそうなほど重い空気を引き連れて、俺たちは兵舎に戻って来ていた。

 太陽は真上から俺たちを見下ろしている。まだそんなに暑くはないとはいえ、数時間日の下で歩き続けたせいか軽く汗をかいたメアは、それだけ言って逃げるように去っていった。


「いや、思ったよりもきついなこれは……」


 想像以上の空気の重さから解放され、思わず息が漏れる。

 俺たちにとっての大きな転機になったあの裏路地を抜け、そのあとはいつものパトロールのようにそこらを歩き回った。俺とアイラの精神的、そして身体的な距離は路地裏を歩いていた時から一切縮まることはなかった。ぎこちないながらも確かに存在していた会話もついに消えてしまっている。俺が促したとはいえ、あまりにも俺たちの関係の突然の変化に、俺自身きちんと適応できているかといわれれば微妙なところだった。



「ほんと……何があるかわからないな」


 人生には何があるかわからない。誰もが一度は聞いたことがあるフレーズだ。まさに今の状況に的を得ていた。

 まだ一日と経っていないのだ。わずか半日足らずで俺とメアの関係は正反対のものになってしまった。

 人生を達観できるほど歳を重ねているわけではないが、たまに人生のスピードについていけなくなる。

 まさに今がその状況だった。


「……行くか」


 ここにいても仕方がない。さっさと戻ろう。


 重い足を引きずって、この時間帯にしてはやけに人がいない訓練場を横切り、執務室へと戻った。




「ただいま戻りました」


 いつも通りそれだけを口にして扉を開けた。当然ながらメアはいない。だが意外なことにジルさんはそこにいた。両手を後ろで組み、こちらに背を向けて窓から外を眺めている。仕事を終えたあとは大体自分の椅子でだらけているあのジルさんが、一心に外を見つめている。そんないつもとは違うジルさんにちょっとしたハテナを頭に浮かべながら、俺は扉を閉めた。


「ジルさんいたんですね。対策室での用は終わったんですか?」


 木のきしむ音とともに椅子に腰を下ろす。数時間ぶっ通しで歩き続けていたせいか、疲労感がドッと押し寄せた。


「……ああ。用事はもう終わらせた。準備もした。覚悟はとっくにできている。あとは……お前だけだ、ユルト」

「ジルさん……?」


 俺の名を呼び振り返ったジルさんは、いつもと違う表情をしていた。気だるげなんてとんでもない。今まで俺に対して向けたことのない表情だ。彼は真顔だった。だがさっき見たメアの無機質なものとは全然違う。まっすぐとこちらを見つめる彼の灰色の目の奥に、轟々と燃える炎が見えた気がした。

 なんだこれは。何が起こっている。予想だにしなかった出来事に、思考の速度が意思に反してどんどん早くなる。

 俺に対しては見たことがないが、その表情は確かに見たことのあるものだった。まるで、ーー


(ーーサラさんに向けていたような……)


 それはとても変なジルさんだな、なんてもので流せるものじゃない。何か胸にしこりの様なものが残っている様な、なにか取り返しのつかないものの方へ歩いていっているかの様な感覚が拭えない。


 ……そう。有り体に言って嫌な予感が。


 だがそんな動揺を俺は無理やり体の中に押し込めた。なんとなく、そうしないといけない気がしたのだ。


「俺……ですか?」


 わけがわからないと言った風に俺は首を傾げてみせる。実際何が何だかわからないのは事実だし、身に覚えも……ないからだ。

 彼は表情を崩すことなく淡々と口を動かした。


「ユルト。お前、確か妹さんーーアイラちゃんだったっけか。そいつが病気っつってたよな」

「ええまあ、言いましたね」


 嫌な予感がまた一つ胸の中で膨らんだ。


「その病気ってーー」


 彼の言葉を待つことなく、俺は体に力を入れていた。


「もしかしてーー」


 彼の口から一文字一文字言葉が出るたびに、頭が切り替わっていく。彼の言葉を耳半分で聴きながら、作戦を組み立てる。いつでも動ける様に、体の状態も切り替わっていった。


「ーー蝕鬼病か?」


 その言葉が耳に入った瞬間には、俺はもう動き出していた。

 メアの時はまだ今の所実力は俺の方が上だったから脅すという選択肢があった。だがこの人は別だ。この人を脅すなんてできるわけがない。仮にできたとしてもこの人のことだ、自分の命と引き換えにでも周りに言うだろう。

 どうやって知ったかなんて関係ない。この人を殺さねば。そんな使命感にも似た感情だけが俺の脳内を支配していた。、

 腰の剣を抜き体勢を低くして走り出す。走り出す瞬間に近くにあった分厚めの本を一冊手につかんで。

 執務室は特別大きいわけじゃない。彼の元にたどり着くのに三秒とかからないだろう。

 俺は本を彼の顔に向かって投げつけた。当然ながら彼はそれを左手を顔の前にやり防いだ。俺は彼の視線と俺の間に彼の腕がくる様に軌道を修正。

 これで少しは反応を遅らせることができるし、彼自身の腕のせいで俺のことが見えにくくなるはずだ。そして、実際にそうなっている。

 この隙にと、さらに加速し彼に詰め寄る。

 彼の目の前、俺の攻撃範囲に彼が入った時には、まだ彼の目は俺を捉えていない。俺は彼と俺の間にあった机を乗り越える。多少、というかかなり無理やりな姿勢になってしまうが、殺せれば問題ないと乗り越えながら無理やり剣を振るおうとした。


(いける!)


 そう確信し、自然と口角が上がる。俺は彼の命を奪うべく、今まで俺が殺したやつらの仲間に彼も入れるべく、剣を振り下ろーー


「ぬるい」


 そんなつぶやきとともに、上からの衝撃。それはとてもじゃないが不安定な体勢で耐えれるようなものじゃなかった。その衝撃は俺の左肩にあたり、止まることなく前進し続け俺の体は机に押し付けられる。だが、それでも止まらない。そのまま前進。机を破壊しーー


「ガハッ!」


 ドカンと、俺の体は床に叩きつけられた。文字通り、床にだ。机は中心から真っ二つ。ガラガラとジルさんの机に置いてあったいろんなものが落ちてくる。叩きつけられ地面に這いつくばる俺と残骸と化した机がその衝撃の強さを物語っていた。


 這いつくばったまま上を見るとと、彼は俺がいたであろう空間にジルさんの手があった。その形は手刀。あれにやられたらしい。


(あれでこの威力……!?)


 そう言えばそうだった。ジルさんが身の丈にも近い刀を軽々と触れるのはその力の大きさ故だ。それにしても強すぎだとは思うが、少しは納得ができた。


「お前今、いけるなんて思っただろ」

「?」


 ジルさんはそこから追撃をしてこなかった。じっと無様に這いつくばる俺を見つめたまま、ただ口を動かすだけ。

 それを疑問に思いながらも痛む身体を起こし、彼から距離をとった。


「お前今、れるなんて馬鹿なことを考えただろ。何年も俺と一緒にいるお前ならわかるはずだ。俺がこと程度でやられると? 俺がさっきみたいな小細工でどうにかなると?」

「それは……」

「舐めているにも程があるぞーーユルト!!」

「っ!」


 あたりの空気すら揺れていると錯覚するほど大きな雷の様な声。その彼の発する怒気に、覇気に、殺気に、俺は気圧されて思わず一歩二歩と後ずさる。だが、ここは執務室。何度も言うがそこまで広くはない。すぐに背中に壁の感触を感じた。


「……しかし、この様子だと本当らしいな」


 さっきの雰囲気は突然消え、気の抜けた様にため息をついて、彼は口を動かした。その声はひどくゆっくりとしていて、この一触触発の空気には似合わない。


 なぜわかったのか。そんな疑問はもはや彼に投げかけることなく答えは分かりきっていた。


 やはりあの夜に殺しておくべきだったと、脅しなんて生ぬるいものにするべきじゃなかったと、今更すぎる後悔にひどく顔が歪むのを感じた。


「そんな顔をするな。メアは言ってない」

「は?」


 俺の心を読んだ様なセリフに、俺は思わずそんな間抜けな声を出してしまう。


「やっぱりあいつも知ってたか。朝のあいつを見る限りもしかしたら……って感じだったが」


 俺は後ろめたさから苦虫を噛み潰した様な表情になってしまう。メアが知っていることを彼に確信させるということはつまり、メアがこのことを隠していたと伝える様なものだ。下手したら有罪。俺のせいでメアが犯罪者になってしまうかもしれない。

 今更何をいっているんだと、自分でも嫌になる。


 だがそんな不安をジルさんは、「大丈夫だ。あいつには何もしない」と軽くいって吹き飛ばした。


「なら……なんで」

「わかったのかってか?」


 当たり前の疑問だった。


「俺が殺人鬼ーーお前の殺人について疑問に思ったのは、死体をどうしているのかだった」


 ジルさんは自分の椅子に腰掛けてーー机は壊れてしまったが、椅子はなんとか無事だったーー昔のことを思い出す様に遠くを見つめて語り出す。

 俺もこれ以上何かをしても無駄だろうと腰を下ろした。だが諦めたわけじゃない。剣は決して手放さなかった。


「埋めたのか? なんて思って大捜索もした。街の中、外とあらゆる場所を掘り起こしたが、何も見つからない。燃やすにしても一般家庭にあるものじゃ見つからずになんて不可能だ」


 大捜索のことは覚えている。一ヶ月間に渡り全衛兵総出で街の中はもちろん外の森、人の家の庭までを掘り起こしたのだ。俺自身あの時はそんなことをしても無駄なのにと、めんどくさく感じていたのを覚えている。


「そこでも思い出したのは、昔俺が殺した一人の蝕鬼病患者だった。彼は変異箇所がわかりにくい場所だったからな。バレるのに時間がかかった。そいつが時々言ってたんだ。うまそうだ……いい匂いだって、行き交う街の人々を見ながらな」

「それが……なんだっていうんですか」


 アイラと全く同じ状態の人。それが思わず俺のトラウマを刺激して、思わず口を挟んでしまった。

 だがそんなのを無視してジルさんは続ける。


「だから俺は思ったんだよ。もしかして犯人は隠している蝕鬼病患者に死体を食わせているんじゃないかって。ま、といってもそれだけで全く捜査は進まなかったが」


 彼は昔の不甲斐なさを思い出してか、吐き捨てるように笑った。


「そのまま一年たち、ついに変化が訪れた。サラだ」

「っ!」


 なぜ彼女の名が? 俺のこととなんの関係が? 予想だにしなかった人の登場に、動揺が走った。


「彼女のことを見張っている時、お前はあまりにも弱りすぎていた。それが俺には不自然に見えてな」

「……何が不自然なんですか? 無害な女性を殺すんだ。心が痛むに決まってるじゃないですか」


 実際アイラのこともそうだが、そのことでも十分に心は痛んでいた。


「ユルト。俺はな、お前はどちらかと言うと俺よりの人間だと思っている。自分の信じるもののためなら、なんなってできる。なんだって切り捨てられる。そんな人間だと思ってる」

「……」


 なんだかんだ初めて聞くジルさんの俺に対する評価。そんなわけと笑い飛ばそうと思ったが、思いの外その通りで何も言えずにただ彼を見つめるだけになってしまう。

 確かに俺はアイラのためならなんでもできるし、なんだって切り捨てられる。そう考えるとなるほど、俺はジルさんよりの人間だ。


「自分でも何を言ってるんだと笑いそうにその時はなったが、俺はお前が殺人犯だと予想を立てた。直感に近い。だが俺は自分の直感は信じるほうだ。だから俺は確認のためにちょっとしたことをした」

「ちょっとしたこと……?」

「本当に些細なことだ。別に何もなければそれでいいと思っていた。ーーサラの処刑の前日、地下牢の鍵を開けそこに潜んでいた」

「ッッ!!!」


 俺の頭に電撃が走るような思いだった。確かにあの時は彼女を助けることでいっぱいいっぱいだったが、鍵は開いていた。日中出る時、確かにジルさんは閉めていた。その時はなのになぜなんて気にもしなかった。

 しかもその場にいたと言うことは、俺がその時話したことを聞いてることでーー


「全く嫌になったさ。盗み聞きだが、全てあそこで聞かせてもらった。まさかお前だったなんてなーーユルト」


 彼はそこで改めて言葉に殺気を持たせた。


「ならなぜ……すぐに俺に言わなかったんですか……」

「上が頑固でな。俺が言っても、まさかユルトに限って……なんて言って納得しない。だからお前の家に見張りをつけた。……半分ハンニバルのお前の妹が視認されるのに、二ヶ月もかかったよ」


 確かにアイラは外には出ない。が、洗濯物を干す時など、窓に近づかないといけない時は少なからずある。窓から中を見えないように常にしておくわけにもいかなかった。それでは怪しすぎる。

 そこをまんまと見られてしまったのだ。


「ならどうします? 今ここで、俺を殺しますか? ジルさんなら簡単でしょう」

「ああ……と言いたいところだが、どうやら俺にもまだまだ甘いところがあるらしい。どうしても、体と動きが鈍ってしまう」


 これはあまりにも大きな衝撃を、俺に与えた。

 あのジルさんが、悪を切るのをためらう?サラさんのような女性でさえなんの躊躇いもなく殺したあのジルさんが?

 ジルさんは、「ほんと、嫌になっちまうよな……」なんて軽く笑いながら呟いた。


「だから、お前にチャンスをやる。これを達成できたら、今までの罪は全て見逃してやる」

「は!?」


 彼は俺に指をさし、堂々と言い切った。彼がこう言うんだ。それば事実なんだろう。だからこそ、驚かずにはいられない。


「そんな……そんなの嘘でしょう。あなたが見逃すはずがない!」

「この情報は知ってるやつはまだあまりいない。俺で口封じが聞く範囲だ。それに俺はな、お前を息子のように感じてたんだよ。

だから……察しろユルト」


 悲しそうに彼はそう言った。そんな彼に俺は何も言えない。素直に息子のように思ってくれていたことは嬉しいし、彼にとってもこの上ない覚悟だと思うから。


「……それで、何をすれば?」


 だが、そう簡単に見逃すはずもないのだ。仮にも彼は悪鬼隊隊長。そんな都合のいい話があるわけがない。


「ああ、それはーー」


 ーー妹を殺すことだ。



「…………は?」


 それはあまりにも想像もしなかったことで、思わず間抜けな声が漏れた。

 ……いや、想像はしていたんだろう。それが嫌で必死に目を背けていただけで。


「期限は今日の夜までだ。それまでに妹の首を持ってきたら、交渉成立」


 彼が交渉について何やら言っているが、頭に入ってこない。まさに耳から入っても頭を素通りしている状態だった。


「それまでにできなかったら……こちらから妹の討伐隊をお前の家に寄越す」


 俺が殺すだと? アイラを殺す?

 アイラ。俺の妹で、一番大事なもの。

 それをこの手でーーコロス?


「わかったら、もう出ていけ」


 俺は呆然とした頭で、出ていけとそれだけをなんとか認識できた。その信号に身を任せ、トボトボと扉へと歩いていく。


「それと……逃げようなんて考えるなよ。事情は伏せてあるが、街の出入り口にはかなりの警備を置いてある。もし逃げようとしたなら、俺はもう躊躇わない」


 去ろうとする背後からそんな言葉が飛んでくる。それを俺は他人事のように聞きながら、バタンと後ろ手で扉を閉めた。



「ハハ……」


 ついつい乾いた笑いが漏れる。

 これはもう詰みチェックメイトじゃないか。どちらにしろ、アイラは死んでしまうじゃないか。

 あまりにも早い速度で崩れていく日常に俺の頭は置いていかれる。


「ほんと……ついていけない」


 人生は何があるかわからない。その言葉の重さが背中にのしかかる。


 まったく最近は人生のスピードについていけないことばかりだと、そんなことを考えながら異次元のように感じる兵舎の廊下を一人で歩いた。

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