第27話 ーー誰か、助けてくれ……
「はぁ……はぁ……たすけっ……助けてくれ!」
鼻水や涙を恥を捨て垂れ流しながら、その男は必死に走っていた。ただ前へ前へとそれだけを考えてがむしゃらに走っているせいか、その走り方はお世辞にも綺麗とは言えない。
満足に足元さえ見えないような状況で、何度も転びそうになりながら、時には無様に転びながら、それでも立ち上がり逃げ続けている。
俺は、それを後ろから追いかけていた。
「ヒッ!」
男はチラリと背後の俺を見て短く悲鳴をあげる。
あの人とは今までに何度か話したことがある。優しい男だった。三〇代という若さで妻と子供を魔物に殺され、この街に移住してきた。そんな不幸な人生を送ってきたというのに彼はいつでも明るかった。俺を見かけると笑顔で挨拶してくれたものだ。その明るい顔に全面の信頼を表しながら。
だが今彼の俺を見る顔にそんなの微塵も感じない。そこにあるのはただ恐怖のみ。笑顔に溢れていたあの顔を恐怖に引きつらせ、喉が潰れるかのような声で助けを請うのだ。
「チッ……」
思わず俺は舌打ちをした。一応いつも殺すときは周りに人がこなさそうな場所にしている。だがもう住宅街に入ってしまって、叫びながら逃げているのだ。早めに捕まえないと誰かが来るかもしれない。
諦めるなんて選択肢ははなから存在しない。俺のしていることを彼は知ってしまっているのだ。俺の中に殺す以外の考えは存在しなかった。
そもそもが俺の不注意が原因なのだ。
あの二ヶ月前のサラさんの出来事から、ずっと悩んでいた。いつも殺す寸前にためらいができてしまっていた。今まではそれでも殺せていたのだが、今回に限って最初の一発を外してしまった。そして、そのまま逃げられた。
(もうそろそろ決めないとな……)
ここまで鬼ごっこしてきたが、もう余裕が無くなってきている。体力的な話ではない。体力で彼に負けるわけがない。
それではなく、もうそろそろ衛兵のパトロールルートに入ってしまっている。いや、下手したらもう誰か聞きつけてこちらに向かっているかもしれない。だからこれ以上時間をかけるわけにはいかなかった。
(ま、最悪その衛兵も殺せばいい)
そんな考えが自然に浮かんでしまうほど、俺の頭は自分にかけている暗示のようなものに侵されている。心の深いところまで悪の仮面で覆ってしまっていた。
彼と俺は今細い裏路地を走っている。彼は右へ左へと曲がっていて、正直うっとおしい。さらに時々そこらに立てかけてあるものを倒して時間を稼ごうとするものだから、苛立ちがたまってきてしまっていた。
石でできた塀や壁に二人の足音が反響する。それが俺に焦燥感を抱かせていた。
「終わらせるか」
ポツリとそう呟き、走りながらスピードを落とすことなく地面に落ちていた石を手に取った。石といってもソコソコの大きさはある。生きている人間に向かって投げつけるには、危険と十分に言えるくらいの大きさだ。
といっても最終的に殺すのだからその辺りは問題はない。自分の中でそう結論づけ、なんのためらいもなく醜く走り続ける彼の背中に向かって投げつけた。
俺の全力で振り下ろした腕から飛んでいった石は夜の空気の中突き進みーー
「ーーガッ!」
後頭部に直撃した。
我ながら見事。吸い込まれるような投石だった。
彼はそのまま糸の切れた人形のように倒れる。運良くそのまま意識を失ってくれたらしい。正直意識があると殺すときもうるさくて、気分がいいものではないのだ。
俺はそのまま彼の元に歩いていく。
「……やっぱり意識はないな」
うつ伏せで倒れていた彼をひっくり返し、仰向けにする。
どちらかといえば筋肉質な体だ。適度に引き締まっている。そこそこ運動もできたのだろう。そうでなければもう少し早く捕まえることができただろうに。
人選を間違えたと、心の中で舌打ちをした。
「なんにしろ、これで終わりだ。すまんな。俺たちのために死んでくれ」
いつのまにか、殺す前に言うようになったこのセリフ。誰に言うわけでもなく呟いて、彼の体に剣を突き立てた。そこからどくどくと緋色の命が溢れ出す。
また一段と体が重くなった気がした。
「ふぅ……」
一仕事を終え、疲労感がどっと俺の体に押し寄せる。今回はやけに走ったため、いつもより体がだるかった。
なんとなく空を見上げた。綺麗な夜空だ。満遍なく藍色の空に散りばめられた幾千もの星々が輝いてこれでもかと自己主張している。統一性のない光だというのに、どうしてか美しさを感じてしまう。
「早く……これも解決しないとな」
『妹のためなんて言っても、結局それはあなたのエゴよ』
あのときサラさんに言われた言葉が頭の中で反響するように鳴り響いた。
まさかこれほどまでに苦しめられるとは思わなかったのだ。
これが自分勝手なエゴだなんて最初からわかっているのに、なぜかそれに傷ついて、悩んでしまう。そしてそんな自分に嫌気がさして、また自己嫌悪する。その繰り返し。いい加減にしないと本当に取り返しのつかない失敗をしそうだ。
「……っ! もうか……」
チクリと無機質な俺の心に罪悪感が芽生える。もうそろそろ切れそうなのだ。早くしないと仮面が取れる。今回は時間をかけすぎた。それに、ここ最近切れるまでの時間が早くなってきている気がする。
これもサラさんの言葉のせいなのだろうか。
(……そんなのどちらでもいい。とにかく、早くこいつを持って帰らないと)
再び湧き上がりそうになった疑問を頭を振って打ち消し、死体に手をかける。
突然ではあるが、俺がこの殺しをするにあたって気をつけていることはいくつかある。バレないようにする、なんで初歩的なことは置いておいて、一番殺している最中に気をつけているのは音だ。行なっている時間もあって、小さな音でも良く響く。足音から、ちょっとした息遣いまで。
足音に気づいて衛兵に見つかるのを防いだことだって何度もある。
だから耳に全ーーまでとはいかずともかなりの神経を集中させている。
さて、当然そんなことをしているからかなりの思考の範囲を使ってしまう。だからサラさんの言葉に意識の一部を奪われている今は、前よりも上手く働いていないというわけだ。
だからこそ、俺は気づくことができなかった。
「……だれっスか?」
すぐそこに近づいてきていた正義を察知することができなかった。
そんな言葉と同時に背後から光が照らされる。俺の足元から影がゆるりと伸びた。
俺はここでとんでもない失態を犯してしまった。
「……ユルト先……輩?」
思わず振り返ってしまったのだ。
当然のことながらさっきの光は彼女の持っている光源からのものなわけで、彼女の方を向いてしまった俺の顔は、こんな夜の中でもよく見えるようになってしまっている。
驚きからか、アホみたいな顔をした彼女が印象的だった。
一瞬で全ての思考が吹き飛んで、頭が真っ白になった。だがそれも一瞬で修正する。
どうする? 頭の中でそれだけがグルグルと暴れまわっていた。
(殺すか)
当たり前のように、それが当然とばかりにそんな考えが頭に浮かんだ。
彼女は悪鬼隊と言っても俺より下だ。ある程度苦戦するかもしれないが、負けることはない。それに、知ってしまったんだ。生きたままにしておくわけにはいかないのだ。だから、殺すしかない。
だがなぜだろうか。体が動いてくれない。剣の柄を俺の手が握ってくれないのだ。
(……お前か)
切れかけということもあるのだろう。正義の俺がやけに体内で暴れまわる。やめろ、それだけはしてはいけないと、俺に訴えかけてくる。
(これは無理かもな)
あくまで冷静に、そう感じた。ここでやるのは得策じゃない。体がうまく動いてくれないこの状況で戦えば、下手をしたら俺が負ける可能性だってある。
だが早急にどうにかするつもりがある。このままにしておくわけがない。
(だがそれは、俺の仕事じゃない)
こんな仮面を被った俺のやることじゃないのだ。無様に正義にしがみつく俺の仕事なのだ。だから、ここは引くことにしよう。
振り返ってからそう結論づけるまで、一秒とかからなかった。
俺は慌てて後ろを向いた。そして本来するはずだったように死体を担ぎ、歩き出す。
「ま、待ってください!」
だが当然ながら、メアはそんなことさせてくれない。だが問答無用で捕まえに来ないというのは、メア自身も迷っているということだろうか。
メアもまだまだ甘いと、内心ほくそ笑む。
いや、甘いのは俺もだろうか。思わず足が止まってしまっているのだから。
「先輩……なんですか?」
あまりの動揺からか、あの夜のようにいつもの話し方は解けてしまっていた。その声はわかりやすく震えている。
(ダメじゃないかメア。そんなに動揺を表に出していたら、敵に付け込まれる)
俺は振り返ることなく、返事もしない。
「あなたは! 先輩なんーー」
「何を言ってるんだ?」
ーー人違い、だろ?
ドス黒い声が不気味に路地裏に響く。地の底から何かが這い上がってくるかのように、メアにそう言った。
ありったけの殺意を、敵意を、拒絶を、真っ黒な何かを込めて。
「人……違い?」
力のこもっていない声でメアはただただ復唱する。
「ああ、人違いだ」
それだけ言って俺は再び歩き出した。突き放すようにそう言った。
俺はゆっくりと歩を進めた。なぜだか彼女は追って来ないと確信していたのだ。なんの根拠もないが、あの状況で彼女が追って来れるとは到底思えない。
なんだかんだ彼女は甘いし、青い。身内に情けをかける。だから身内である俺が殺人犯だなんて、自分の中では否定したいことなんだろう。
その事実にほくそ笑みながら、帰路をゆっくりと辿っていった。
やはりというべきか、俺の予想通りメアは追って来なかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
家に着いてすぐ、俺は死体を放り投げ地面に膝をつき手をついた。床が血で汚れるだろうが、そんなの知ったことじゃない。
まずい。軽い過呼吸のようなものになってしまっている。帰る途中に暗示のようなものは解けた。だが道端でへたり込むわけにはいかない。なんとか家までは耐えたわけだがーー
「もう、限界だ」
今までも殺人の後切れた瞬間に波のように罪悪感が襲いかかってきていた。それに覆われ、眠れない夜を過ごす。もはや軽い日課のようになってしまった俺の日常の一部。
だが今日のはそんなのと比べ物にもならない。いつもの罪悪感に加え、やってしまったという焦り、もう終わりだという絶望が蛇のように俺の体に絡みつく。その重さに俺は立ち上がれずにいた。
「くそ……くそ!」
寝ているはずのアイラのことも気にせず、俺はそう叫びながら地面に拳を叩きつける。何度も何度も何度も何度も。拳が痛み、血が滲み出しても気にせず叩きつける続けた。
ここまでうまくやってきたつもりだった。バレずに、アイラの変異も進行させずに、悪鬼隊の職務も全うしつつ、悪としても働きつつ。俺の状態さえ無視してしまえば、全てがうまく回っていたのだ。
だというのにーー
「全て……崩れてしまった……」
この三年で積み上げたもの全てが。時間で言えばそれほどでもないが、その密度はとんでもないものなのだ。まさに俺の血と汗と涙の結晶だったのだ。
項垂れてしまうほどの悔しさに思わず額を地面に擦り付ける。
「ああぁぁぁあああああ!!!」
喉が焼き切れんばかりの声で、俺は叫ぶ。この行き場のない感情をどこかにぶつけないと、どうにかなってしまいそうだったから。アイラが起きてしまうかもしれないなんてことは、少しも考えることができなかった。
何が悪かった?
サラさんを助けたこと? こんな状態で食料調達なんてしていたこと? それともーーアイラを助けようとしたこと?
『結局それはあなたのエゴなのよ』
こんな時にまで、彼女の声は頭で響き渡る。
『妹さんもかわいそうね』
『ただの殺人者の言い訳よ』
『妹さんが幸せになることを祈ってるわ』
『ーー本当の意味でね』
「うるさい! うるさいんだよ!」
いつも以上にサラさんの言葉が響き渡り、絶望に打ち付けられた俺に追い打ちをかける。
俺はそれを振り払うように暴れまわった。玄関に置いてあった花瓶が落ちて割れた。思い切り降った腕が棚か何かにあたり、バキッと嫌な音がした。無駄だと、自分でわかっているのにそれでも俺はやめられない。
いつまでも頭に響き渡るそれから逃げるように地面に跪き、両手で耳をふさいだ。明日からどうしようか。メアをどうすればいいんだろうか。そんな疑問が頭に浮かんでも、考えるほどの余裕はない。
「もう……誰か、助けてくれ……」
小さく漏れ出したその一言は、夜の空気に消えていった。
俺は限界だったのだ。だから、気づくことができるはずもないのだ。
まさか、アイラが見ているだなんて。
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