第24話 芯の強さ
次の日の目覚めは言うまでもなく最悪なものだった。俺を構成する全てが目覚めを拒絶しているような、そんな感覚がした。だというのに窓から差し込む柔らかい朝日が俺の体に降り注ぎ、微睡みの中でふわふわ浮かんでいた意識を無理やり浮上させようとする。俺はたまらずその光から逸らすように体を丸めた。
ギィィと、ゆっくりとドアを開ける音がした。
「お兄ちゃん……行かなくていいの?」
声のした方には、少し空いたドアの隙間から顔を出したアイラがいた。アイラの接近に気がつかないとは、思ったより寝ぼけていたらしい。顔を動かして時計を見ると、もう七時。いつもなら朝飯を食べ終わり、身支度をしている時間だ。それなのに未だ起きてこない俺を心配してきたのだろう。
今日はサラさんの処刑日である。立ち会うのは俺とジルさんのみ。行きたくない、立ち会いたくないというのが本音だ。だがこれも仕事。サボるわけにはいかない。
そうわかっているのに昨夜のこともあって、なかなか体が動いてくれないでいた。
「大丈夫? お兄ちゃん、熱でもあるの?」
なんの返事をしない俺をみかねてか、アイラは枕元で跪いて心配そうに顔を歪めながら俺を見つめた。
ああ行きたくない。もういっそのことサボってしまおうか。
ついついそんな考えが頭の中に染み渡る。事情を話せばアイラだってわかってくれるかもしれない。……いや、これは蝕鬼病に関わることだ。アイラに話すわけにはいかない。なら仮病でもーー
「ねえお兄ちゃん、本当に大丈夫?」
虚しい言い訳が頭の中を飛び交うだけでアイラの顔を見つめたまま反応しない俺を見て、アイラはさらに顔を歪める。それが俺の心に黒い靄をかけるようだった。
結局、俺が仮病を使ってもアイラにこんな風に心配かけてしまうんだろう。どう転んでもアイラを心配させてしまうとわかった時点で、俺に選択肢はないに等しいわけで。
「……すまん。寝ぼけてた。今起きるよ」
まだ寝起きのだるさが残る体を持ち上げ、何もないという意を込めてアイラに笑いかけるしかなかった。安心させようと、自然とアイラの頭に手が伸びる。少し動かすとアイラは表情を色づかせながら、俺の手をどかした。といっても、あまり力は入っていなかったが。
「じゃ、じゃあ、早くご飯食べちゃお? 急がないと遅れちゃうよ?」
まだ仄かに赤みを帯びている顔に綺麗な花を咲かせ、パタパタと小走りで去っていくアイラを見て、思わず笑みがこぼれる。まだ憂鬱なことに変わりはないが、少しはようなった気がした。
妹の元気な姿を見て気持ちが軽くなるとは、どこまで俺は妹が好きなのだろうか。これではメアやジルさんにシスコンと言われても否定できないなと、ひとりごちる。
「……さて、頑張りますかね」
自分を鼓舞しつつ、それでも内に残る物憂げをため息に交えて吐き出した。
精神的に辛い目に遭うとわかっている未来に向かう足は、まるで大きな鉄球を付けていると勘違いしそうなほどの重量感を感じている。
「朝飯食べるか……」
もう今はアイラの美味しい朝飯を堪能しよう。思わずそんなことを現実逃避気味に考えた。
もうそろそろいかないと。またアイラが心配して様子をみにくる。
部屋を出る時のドアに、あの地下牢のドアのような重さを感じた。
「はぁ……」
もう人生で通算何回目がわからないような溜息が漏れる。俺の口から放たれた青い吐息は、家から兵舎へ続く道の空気に人知れず溶けていった。
確かに少し前アイラお手製の朝飯を堪能し、少しばかり気分が軽くなったのは事実だが、やはりあそこに近づくにつれ憂鬱な気分は戻っていてしまう。
何気なく、空を見上げた。蒼く澄み切った、まさに透明色のカーテンがそこには広がっていた。
なんの嫌味かはわからないが、だいたい俺が憂鬱なり気分が沈んでいるときは天気がいい。それがさらに俺の気分を深く深く沈めるわけだが。
今日もその例に漏れず雲ひとつない晴天だった。俺の灰色の気分を受け止めるどころか、そのまま素通りしてしまいそうな空だった。
だんだんと見慣れた景色が広がり始め、視界の隅に地下牢のあるいつもの兵舎がちらと見え始める。
「……帰りたい」
俺のそんな切実な願いは誰の耳にも届かなかった。
「おはようございます!」
「ん、おはよう」
俺に挨拶をしたのは、一人の若い衛兵だった。若い、といっても俺よりほんの少し下、若しくは同い年かも知れない。そんな程度の年齢だ。
まだ新入りだろうか。挨拶なんてそんなに気合いを入れるものでもないのに、やけに肩に力が入ってなんとも初々しい。服装からも、着慣れていないといった感じがよく感じられた。
いろいろと特別扱いの悪鬼隊にはこれといった制服はない。なら普通の衛兵にはあるのかと言われれば、そういうわけでもない。黒を基調としたものであればなんでもいい。特に規律にきびしいわけでもないのだ。
だというのになぜか宿舎への門を通るとき、いつも見張りの衛兵に声の張った挨拶をされる。
まあ特に気にする必要もないだろうと、軽く挨拶を返し通り過ぎようとしたときだった。
「あの……ユルトさん、大丈夫ですか?」
先の新入りの衛兵から、そう声をかけられた。
初対面だというのに名前を知られていることには特に驚きは感じない。結構良くあることだからだ。
「……なにがだ?」
心配してくれているところ悪いのだが、こちらとしては心当たりがないわけでもないが表にださないようにしていたので、そう無愛想に返すしかなかった。
「あ、いえ! なにやら顔色が良くなかったもので」
叱られたと感じたのか、彼はピシッと姿勢を正した。別に怒っているわけじゃないんだが……。
なんとなく居心地が悪い。姿勢を戻させた。
「……そんなにひどいか?」
「ええ、まあ。このまま早まってしまいそう、なんで勘違いしてしまいそうになるくらいには」
彼はオドオドとそう返した。
思った以上に隠せていなかったらしい。ならもしかしたらアイラにもバレバレだったかも知れないと、自然と苦虫を噛み潰したような表情になりそうになる。
「そうか……ただ少し疲れているだけだろう。ありがとうな、心配してくれて」
「い、いえ! とんでもありません!」
また彼はピンと背筋を伸ばす。今度は表情を歓喜に染めるというおまけ付きだ。
「ああ、あと、お前俺とそんな歳変わらないだろ。そんなかしこまる必要はないぞ?」
「いえ、あなたは私と歳が近いとしても、立場は私よりも上です。きちんと結果を出して、悪鬼隊という先鋭部隊に入った。敬うのは当たり前です!」
「……そうか。まあ、頑張れよ」
「はい!」
それだけいって彼に手を軽く振り、そのまま歩き出した。
会話を無理やり切り上げたような形になってしまったが、あのまっすぐ俺を見つめる視線に耐えられなくなったのだ。結局逃げるように会話を終わらせてしまった。
「そんな、大層なものじゃないんだけどな」
自嘲気味にそう吐き捨て、ジルさんの元に向かった。
俺が執務室に入ると、ジルさんはもうそこにいた。椅子に姿勢をだらしなく崩しながらもたれかかっている。
来たか、とつぶやき一つあくびを漏らす。相変わらずボサボサで整っていない灰色の髪を掻き毟りなが、気だるげに立ち上がった。
「おはようございます」
「おはようさん。んじゃ、行くか」
さすがの彼もここが悪鬼隊の城、衛兵の兵舎だとしても刀を抜き身で持ち歩くようなことはしない。きちんと鞘に収め、肩に担いで執務室から出ていった。
彼の表情はいつもと変わらない。今日これから、不運で罪のないーーあくまで俺の中でだがーー女性を殺すというのに、平常通り灰色の倦怠感を顔に貼り付けていた。
今から訓練を始めるのだろうか。訓練兵たちのガヤガヤとしたざわめきや、衛兵達が挨拶を交わしているのをバックに、俺たちは無言で淡々と足を動かす。
いつもの日常といった彼らの空気と、俺たちの空気は天と地ほどの差があった。
俺たちを見かけても挨拶こそするものの、俺達の雰囲気に気がつかないのか、それとも関わらないようにしているのか分からないが、踏み込むことなく彼らの日常の歯車を回していく。まるで俺たちが彼らの世界から切り離されたかのようだった。
悪鬼隊に持って来られる任務には人には知られてはいけないものも多い。秘密裏な要人の護衛だとか、今回のような蝕鬼病関係だとか。そんな時、決まって妙な孤独感が俺の中に生まれる。それは今も同じだった。
メアが入って少しは紛れるようになったが、ジルさんと一緒にいてもどういうわけかあまり紛れない。
「……ジルさん」
「あ?」
「ジルさんは……何も感じないんですか? あんな不幸な女性を殺して、どうも思わないんですか?」
「……何いってるんだユルト」
気がつけばそんなことを口走っていた。あまりに無粋で、無礼で、無遠慮な質問だったと慌てて口を紡ぐが、時すでに遅し。朝からの気分の沈みだとか、孤独感から思っていたことがそのまま口から出てしまっていた。
だめだ。本当に精神的にガタがきているのかもしれない。
ジルさんは振り返ることなく、いつの間に到着していたのか、地下牢へと続く階段への扉の鍵を開けようとしていた。
「すいません、失言でしーー」
「感じないわけないだろ」
「ーーた……は?」
思わず、空中で空回ったような情けない声が出た。きっと間抜けな顔をしているだろう。目は見開いて、口は開いたまま閉じてくれない。
それほど俺にとって意外なことだったのだ。
「おいおい、まさか俺が何も感じないと思ってたのか? ーーあれ、おかしいな……」
「いえ……そんなことは」
鍵の調子が悪いのか、ジルさんはガチャガチャと鍵をいじくったまま、こちらを見ることはなかった。かなり失礼な質問をしてしまったと思ったのだが、彼のいつもと変わらない、むしろ呆れたような声色からそこまで機嫌を損ねてはいないらしい。
「ま、別にいいけどな。なんとも思わないわけないだろ。あんなうら若き未来に溢れたお嬢ちゃん殺すなんざ、心が痛んでしょうがない」
ジルさんは刀を近くの壁に立てかけ、未だに開かない鍵穴を覗いた。自分の心の内を晒しているからか、ジルさんはこそばゆそうに軽く笑いをこぼす。
それこそ予想外の答えだった。
俺はてっきり、彼は悪と判断したものを殺すのに何も感じない、冷徹すぎる性格だと思っていたのだ。今の俺のように苦しむことなんてないと、勝手に勘違いしていた。
それがどうだ。彼は俺と同じように苦しみを感じると、そう言った。
「なら……どうして、あんなことがーー」
「できるんですか……って? 簡単なことだ。それが正義だからだ。それこそが正義と、俺自身が信じているからだ……よっと。よし」
ガチャンという金属音がなり、鍵が開いた。ジルさんはふぅと小さく息を吐いて、刀を再び担ぎ歩いていく。俺もそれに続いた。
階段に入ると後ろの扉が閉じ、周りの騒がしかった空気が一掃され、冷たい、ゆっくりとした空間が俺達を包み込んだ。
彼はこちらを向くことなく話し始める。
「正義は皆から必要とされ、悪は排除される。だから正義は正しいし、悪をこの手で排除するのは間違っちゃいない。例えその悪が悲劇のヒロインだとしてもだ」
石製の階段を一歩一歩と確実に降りながら、彼はそう続けた。
「いくら自分が辛くても、いくら自分が苦しくても、それが正義のためなら俺はなんだってできる。正義は俺が信じているものだから。俺の全てだから、俺の信念だから」
彼の言葉には迷いはない。キッパリと言い切っている。だからこそ、その言葉にはやけに力がある。俺の体、そして心にぶつかって、染み込んでくるような力が。
「俺の信念を信じずに何を信じろと? 俺の信条に従わずに何に従えと? 自分の信じるものを疑うようじゃ、それではもう生きている意味なんてないじゃないか」
ドクンと体に、頭に衝撃が走る。まさに何かに殴られたような感覚だった。視界を覆っていた黒い靄がワッと晴れて、世界が一気に広がったような、そんな感じがしたのだ。
「だろ?」
彼は一度立ち止まりようやく振り返り、ニヤリと不敵に笑った。正義の味方のリーダーというにはあまりにも悪役じみた笑顔だった。俺に対して、お前もそうだろ? と、語りかけるようだった。俺はそれに何も返すことはできない。
彼はそのほかに何も語ることなく、また歩を進める。
俺は先ほどの衝撃ゆえにその場に立ち尽くしたまま動けずにいた。まだピリピリと頭が震えるようだ。俺の口角も自然と上がってしまっていた。あまりにその存在が化け物じみて見えて。
彼の理論はこの上なく極論だ。言うなれば、『正義絶対主義』。正義が全てで悪は皆殺しといった、普通の人なら狂っていると思ってしまいそうなほど偏った理論だった。
だが俺はそんな語るジルさんの背中にーー英雄を見た気がした。
そうだった。悪鬼隊に誘われた時、同じような話をされたんだった。俺はそれに憧れたんだ。その強すぎる何によってもブレることのない芯に、まさにヒーローのようだと、そう感じたんだ。
そして、今でも俺はそれを欲している。アイラとハンニバル、蝕鬼病、正義や悪と、ぶれまくりの俺の心は、余計にそれに憧れるようになった。
彼の強さは力がだけではない。技術だけではない。
その芯の強さだと、改めて俺は実感した。
彼の強さの一部分を、知ることができた気がした。
気がつけば、あの妙な孤独感は薄まっていた。
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