第23話 ーーアイラはハンニバルなんかじゃない!
「そ、そんな……」
かろうじて口から漏れ出たような言葉は、力がまるでこもっていない。目をつぶってしまいたかった。あまりにも非道な現実から目をそらしてしまいたかった。
でもそんなこと許されない気がして。そらしたくても俺の体は彼女に視線を向けたまま動いてくれなかった。
「処刑は明日の朝、ここで俺がやる。……それまでに心の準備をしておけ」
彼はあくまで事務的にそう言った。
あの時手を差し伸べた時と、全てがあべこべだ。
あの時、ジルさんは優しさと強さに溢れた笑みを浮かべ、そんな彼に引かれるように彼女も安心感で表情が溢れていた。
だが今はどうだ。ジルさんの表情は百八十度変わってしまった。明らかな殺意を彼女に向けている。睨みつけているわけじゃない。それは威嚇だ。威嚇とは自分と対等、もしくは上の存在に向けるもの。
彼の目に宿っているのは殺意だった。自分より下の存在に向ける、お前を殺すというただの意思表示。
そんなあまりにも非道な視線を向けられたサラさんは、もしかしたらあの時よりも酷いかもしれない。血が通っていないと感じるくらいに顔は青く、カタカタと小さく震えている。目の焦点もあっていない。変異したことを本能的に拒絶しているのか、その部分をガリガリと爪で懸命に削っていた。
上げて落とすとは、まさにこのことだろう。俺が危惧した通りのジルさんの手の平返しに、彼女は衝撃を受けているようだった。
「……行くぞ、ユルト」
もう用はないと言った調子でジルさんは踵を返し、出口に向かって歩き出した。もう本当になんとも思っていないのは彼の性格から判断しても、実際に見てもわかることだった。
俺はすぐにその場を離れることができなかった。完全に燃え尽きたように俯いた彼女から目が離せなかった。
何か……何か言わないと。
そんな考えが頭の中でグルグルと回る。何か言おうと口を開けては紡いでの繰り返し。慰めなんてそんな軽々しい事を口に出るはずもなかった。
「サ、サラさん……」
辛うじてそう言うことができた。でもその次が出てこない。
声をかけたんだ。なにか続けないと。
そう頭で考えても、不思議なほどに何も出てこない。
「……ユルトくん」
「ーーーーッッッッ!!!」
思わず叫びそうになった。胸の奥底を抉り返されたようなそんな感覚がした。今俺の顔はひどいことになっているだろう。それほど俺にとって衝撃だった。
重なって見えたのだ。あの五匹のグールに襲われた時の、弱々しく震えていたアイラと。そして変異を初めて見た時のアイラと。
見た目も背丈も髪も、全てが違う。だがその小さく震える、何よりも助けを求めているその瞳。それがあの時のアイラと全く一緒で、俺は目が離せない。
やめてくれサラさん。そんな目で俺を見ないでくれ。俺は何もできないんだ。あの時も、そして今も。
ハンニバルといい、蝕鬼病の変異といい、つくづく彼女は俺のトラウマを刺激する女性だ。
なかなか切り出さない俺を見越してか、サラさんはゆっくりと口を開いた。
「……ハハ。参っちゃう。まさか、感染するとは、思わなかったよ……」
卑屈に、吐き捨てるように彼女は笑った。昨日の笑顔とはまるで別物。これを笑っていると言っていいのかわからない。笑っていると言うよりも、乾いた息をただ細かく吐いているだけのようにも思える。
「……すみません」
「……謝らないで。昨日も行ったけど、君はよくやってる。これは……そうだね。ただただ私に運がなかったってことだけなんだよ」
そう言う彼女の表情は暗いなんてものじゃない。自分の少し先の地面を見つめたまま口角を少し上げて、薄く笑っていた。
気を使っているのは明らかで、こんな状態なのに気を使わせる自分が不甲斐なくて、俺は気がつけばこれでもかと言うほど強く拳を握っていた。手のひらに爪が食い込んで、ズキリと痛んだ。
「……すいません」
それだけ言って、俺は踵を返した。結局、俺は最後まで謝ることしかできなかった。
背後の彼女がどんな表情をしているのか、わかるはずもない。だがなんとなく彼女の顔を見るのが怖くて、振り返ろうとは思わなかった。
「……終わったか?」
「……ジルさん」
出口には彼が立っていた。俺を待っていたようだ。出口にもたれ、ダルそうにくぁとあくびを一つ漏らす。
そう言えば鍵は彼が持っているんだったと、今更ながら思い出した。
「ええ、まあ」
「……そうか。じゃ、行くぞ」
それだけ言って出て行くジルさんに続き、俺も地下牢を出た。そのままジルさんを追い越す。追い越す瞬間にちらりと彼の横顔を見た。相変わらずいつもと変わらない表情だった。
悪に対して非常になれると言うのは隊長の強みであり、同時に悪鬼隊の強みでもある。それ故によく頼られるようになった。
でも今ばかりは、その隊長について行っていいのか疑問に思ってしまう。
俺が出て少ししてドアを閉めたのだろう。重い金属音に続いて、ガチャンとしっかりとした音が耳に入った。
「だから言っただろ。こういう件に入れ込むと、悲しみしか背負わないって」
「……」
ジルさんは追い越しざまにそう呟いた。
バレていた。いや、バレたというより、さっきのやりとりを見てそう感じたのだろうか。なんにしろその一言はグサリと俺に突き刺さった。
何か言い返そうと口を開いても、結局何も出てこずにそっと閉じるだけ。
結局彼が正しいのだ。俺は確かにすこし入れ込んでいるかもしれないし、悲しんでいるのかもしれない。どちらも“かもしれない”だけだが、言い返す根拠にするには弱すぎた。
「……一応、もう一度お前にも言っておく。“蝕鬼病に治療法はない”。だから、くれぐれも逃がそうなんて考えるなよ。逃したところで、結局はハンニバルになるんだからな。ならここで殺してあげるほうが、よっぽどあいつのためになる」
ジルさんはあの時メアに行った時と同じく念押しするように強く言い、そのまま歩いていった。
“治療法はない”
その言葉を聞いた時、俺は思わず顔に笑みを浮かべそうになった。
思い出したのだ。俺だけが知っている、秘密のことを。
ーー治療法はある。
ーー治療法とまではいかないが、進行を止めることはできる。
ーー俺なら、助けることができる。
その事実が黒く濁っていた俺の頭に光を指した。
そうだ。俺なら彼女を助けることができるのだ。
俺の心は震えた。喜びじゃない。そんなんじゃない。喜びというよりは、使命感。
そう、俺だけが彼女を助けることができるという使命感に燃えていた。
俺の握っていた拳に力が入り、細かく震えた。さっきまでの悔しさとか悲しみなんて後ろ向きな感情でじゃない。喜びや、俺がやってやるという使命感という前向きな感情で。前向きというには黒すぎる。そんな想いで。
見てろジルさん。俺なら救うことができる。救ってやると、そんな気持ちを込めて俺の前で淡々と階段を登るジルさんの背中を睨みつけた。
結局、俺が振り返ることは一度もなかった。
「はっ……はっ……」
その日の夜。俺は地下牢への道を走っていた。見つからないよう明かりは避けて走っているから、周りは真っ暗。まさに一寸先は闇、といった状態だ。なかなかの速さで走っていることもあって、頬を撫でる夜の風はいつもより強く感じる。
なんのためかって、そんなのは決まっている。サラさんを逃がすためだ。どうしても放って置けないのだ。
あの後家に帰ってからもそれが本当に正しいのか、何度も考えた。考えて考えて考えて、その末に出た結論がこれだ。
正しくないなんて、わかっている。間違っているなんて、わかっている。
自分が無鉄砲なことをしていると、誰よりも理解している。
それでも放って置けないのだ。アイラに似た彼女のことが。
「はっ……はっ……もう少し」
夜、もう少し詳しく言えば深夜といえど、警備がないわけじゃない。というかここ数年連続殺人鬼が殺人をしているのだから、前よりもパトロールをしている人数が多くなったというのが現実だ。
だが俺は悪鬼隊の一人だ。この衛兵の中でも、かなり上の立場にいるといっても過言ではない。要するに、今日誰がパトロールをするのか、どんな道を通るのか、それを知ることなんて簡単なことだった。
それは今日だけではない。普段のメアの食料調達の時も利用していることだ。だからこれといって罪悪感は感じなかった。
幸いといっていいのか、地下牢への入り口の周りに警備しているやつはいなかった。
これはついている。
俺は心の中でほくそ笑んだ。
扉を開け、階段をどんどんと下っていき、あの黒く重い扉を開けた。ここ数日毎日見ている光景。だというのに時間が夜だからか、それともいけないことをしているという罪悪感からか、やけに不気味に感じた。
「はぁ……はぁ……サラさん」
「……ユルトくん?」
サラさんの元にたどり着いた時、彼女は横になっていた。横になっているだけで寝てはいなかったらしい。俺が小さく声をかけるとすぐに反応し、ゆっくりと起き上がった。
「サラさん。大丈夫ですか?」
「……ええ、まあ今朝よりはだいぶ落ち着いたわ。いろいろ考えることもできたし……ジルさんの言う通り、ある程度気持ちの整理もできたしね」
それぞれの牢に備え付けられた簡単なベッドに座ったまま、彼女はそう答えた。
気持ちの整理ができた、落ち着いた、といっても元気にはなれなかったらしい。
「ハンニバルに襲われていた時より、だいぶマシよ。逃げられないっていうのは、なかなか落ち着くものね。あの時みたいに変に希望があると、助けが来るかもなんて思っちゃって、余計に恐怖しちゃう。そう考えると、もう逃げることができない今の状況はだいぶ落ち着きやすいわ」
心配をかけまいとしているのか笑って見せていたが、どうしても諦念は隠すことができずに表情に浮き出ていた。
もう逃げることはできないと、殺される以外に道はないと諦めてしまっているのだろう。それも当たり前のことだ。自分自身は牢に閉じ込められていて、自分を殺そうとしているのはあの悪鬼隊の隊長なんだから。
普通だったら、そうだろう。だが、俺がいる。
「それで……ユルトくんはどうしてここに? それもこんな時間に」
サラさんはそう言ってカクンと首を傾げた。明らかに警戒している。それもしょうがないとわかっていつつも、少し悲しくもあった。そんなことをいちいち気にしててもしょうがないと自分に言い聞かせ、本題に入ろうと口を開けた。
「サラさん。あなたをーー助けに来ました」
「……え?」
少しの沈黙の後、サラさんの口から出たのはそれだけだった。余程の驚きなのか、これでもかというほど瞠目している。
「……聞き間違いかしら。もう一度いい?」
「何度だっていいますよ。あなたを、助けに来たんです」
うそ……と、彼女は開いたままの口からそう漏らした。それに加えて、瞳がどんどん潤いを帯びていくのがよく見える。そしてゆっくりと立ち上がってベットから降り、力が入っていないのかフラフラとこちらに歩いて来た。
「本当に……? 本当に、助けてくれるの……?」
「ええ、本当です」
彼女に言い聞かせるようにゆっくりと俺は肯定の意を示した。それを聞いて、彼女はさらに大きく目を開く。そして、諦めの色が濃かった表情も、どんどん歓喜に染まっていった。
だが、それもすぐに終わる。彼女は何かに気づいたようにハッとして、歓喜の表情を奥に引っ込めた。
「ダメよ……逃しても、結局蝕鬼病は治らないんだから。ハンニバルになってしまうなら、いっそ殺された方がーー」
「俺なら、治療法を知っています」
ーー治療というより、変異を止めるだけですが。
そう俺は付け加えた。それでも普通の人にとっては驚くことで、蝕鬼病感染者にとってはもはや何よりも嬉しいことに違いなかった。
「何!? 何をすればいいの!?」
―彼女は鉄格子を掴んで俺に迫るようにそう聞いて来た。思い切り掴んだせいかガシャと小さくない音が響く。彼女は誰かに見つからないように気を使ってか、語尾こそ強いものの声量はそこまで大きいものではなかった。
だとしても興奮しているのは事実のようで、俺を見つめる目は少しばかり血走っている。
俺は落ち着いてと、彼女の手に自分の手を重ね、鉄格子から離させた。サラさんもごめんなさいとすこし恥ずかしそうにしている。
まあ、気持ちは分からなくもない。俺も自分が蝕鬼病にかかったわけじゃないが、アイラの治療法がわかった時もかなり嬉しかったものだ。
俺は期待の眼差しを受けながら、その治療法を口にした。
「それはーー人を喰らうことです」
「………………は?」
サラさんは固まった。そう表現するのが適切と感じるくらいに、彼女は動きを停止していた。見開いたまま瞬きもせず、開いた口も閉まることなく、さっきよりも長い時間止まっていた。
「……え? 人を喰らう? ……嘘でしょ? 嫌よ……そんなの……」
それから一瞬にして、彼女はまた今朝のような表情に戻ってしまった。顔を青ざめながら、表情を引きつらせながら、おぼつかない足取りで一歩二歩と後ずさる。
「なんでですか! これで、助かるんですよ? それならーー」
「そんなの! できるわけない!」
「ッ!」
彼女のあまりの剣幕に、今度は俺が後ずさる番だった。
どうして? これさえすれば、アイラのように救うことができる。だというのに、どうして断るんだ?
想像と違っていた彼女の返答に、俺はそううろたえることしかできなかった。
「
「ちがう!!」
気がつけばそんな声が出ていた。なりふり構わずに、思うがままに叫んでいた。一度でた思いは止まるのとはない。
ああ、これはダメだ。やめないと。そんなに大きな声を出したら、上まで聞こえるかもしれない。
そう理解はしていても、実行することができない。
「妹は……アイラはハンニバルなんかじゃない!」
ーー人間だ!!!
そうこの薄暗い地下牢に木霊した。
彼女は何も言わなかった。俺に圧倒されているのか、何か思うところがあって考えているのか分からない。ただ俺をじっと見つめていた。
その温度差に俺が正気に戻るのにそう時間はかからなかった。
「ッッ! ……すいません。取り乱しました」
「……なるほどね。あなた、すでにそれで妹さんを匿ってるのね」
彼女はどこか納得したようにそう言って、またベッドへと戻っていった。
その顔にはもはや、さっきまでの信頼も、喜びも、感謝も写っていない。
あえて言葉にするなら……失望だろうか。そんななんとも言えない表情で、俺を見ていた。
俺はと言えば、思わずアイラのことまで口走ってしまったこともあり、抑えることができずに怒鳴ってしまったことへの動揺もあり、彼女を睨んでしまっていた。
「そんな目をしないで。言わないわよ。あなたが私のためを思っていってくれたのも事実みたいだし……すでに私は死んだも同然。死人に口なしっていうじゃない?」
彼女はあくまでも飄々としながらそう言った。だが俺は耳を疑った。
隠しといてあげると、そう言うのだ。
本来正義の味方であるはずの俺が、守る存在であるはずの市民を殺し、蝕鬼病患者の妹に喰わせていることを黙っておいてやると、そう言っているのだ。
気にはなるが、どうしても余計なことまで口走ってしまいそうで、俺は何か言いそうだった口を閉じた。
「にしても、その妹さんもかわいそうね」
「……は?」
俺は何を言うべきか分からず口を閉ざし、なぜかは分からないがサラさんも何も離さない。そんな奇妙な時間がすこし続いた時、彼女は唐突にそう告げた。
「なにが……かわいそうなんだ?」
俺は随分と動揺しているらしい。気がつけば敬語も外れてしまっていた。それに、自分の声が震えているのがわかる。なんとか察せられまいと、必死でそれを抑え込もうとした。
「そんな人を食べるだなんて私だったら耐えられない。もし正気を保ってるなら褒めてあげたいわ」
「正気を失っているって言いたいのか?」
「そんな睨まないで。別にバカにしてるわけでも、貶してるわけでもないわ。単純に感心してるのよ」
「……」
否定したくても、否定できない。なぜなら彼女は正気だと、俺も自信を持って言うことができないからだ。
嬉々として人肉を喰らう彼女が、どうして正気でいられている言えようか。人肉をあんなに美味しそうに、幸せそうに喰らう彼女がどうして正気だと言えようか。
何も言い返せなくて、これ以上この場に居たくなくて、俺はもう帰るべく後ろを向いて、歩き出した。
そう、要するに彼女から逃げ出したのだ。なんて情けない。なんて不甲斐ない。
それでも彼女は俺に語りかける。
「妹のためなんて言っても、それはあなたのエゴよ」
「そんなの……わかってる」
絞り出したような俺の声は、薄暗い闇に消えていく。
「本当に大切なら殺してあげればよかった。覚えておいて。あなたがしているのは妹を救うなんてお涙頂戴の物語じゃない。ただの
背後から飛んでくる彼女の言葉は容赦無く俺の心に突き刺さり、足取りを重くした。
「これから死にゆく私のこの一言で妹さんが幸せになることを祈ってるわ」
ーー本当の、意味でね。
自分のエゴだとわかっていた。自分は悪だと自覚していた。サラさんに言われたことは、どれも自分で理解していることだった。
だというのに、自分でわかっているというのに、他人に改めて言われると思っていたよりも心に突き刺さるものだ。
何度も自問自答し解決したはずの疑問が頭の中で再び浮き上がってしまう。
簡単に言ってしまえば、再び迷ってしまったのだ。今まで自分の行いに迷いなんてなかったというのに。
ーー俺は本当にこれでいいのか?
そんなことを頭に浮かべながら、地上への階段を登っていった。
疑問が頭を支配していたせいで、背後でガチャンと重々しい音がなるのに、俺は気がつかなかった。
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