第22話 ーーありがとう

「……ごめんなさいね」


 なんの前触れもなくそう話しかけられたのは、監視三日目のことだった。今日は用があるらしく、ジルさんはいない。

 監視自体、初日こそいろいろ話したが、基本時間のかかるものじゃない。なんならちらっと見るくらいで十分だ。彼女ともよく話すほど親しくもないし、基本会話はなかった。

 そんなこともあってその一言は帰ろうとしていた俺の足を止めるのに、驚くほど大きな力を持っていた。


 サラさんは調子が悪いのか、座り込んでうつむいている。だから顔はよく見えず、それも彼女の口から出たとわかるのに、少し時間がかかった。


「何がですか?」


 なにか謝れるようなことをされた覚えはない。そもそも何もできないようにここに閉じ込めているのだ。

 だが何か事情があるのだろう。なんとなく長くなりそうな気がした。

 俺は出口の方を向いていた体の向きを変え、備え付けてある見張り用の小さな椅子に腰を下ろした。それほど使われていないからか古くなっていて、ギシギシと音を立てて揺れる。


「その折れた腕よ。私のせいでしょ?」


 そう言って彼女は顔を上げ、顔にかかった前髪をうっとおしそうに払った。

 牢の中に明かりはない。俺のいる通りの明かりが差し込んで、後悔に満ちたような彼女の顔がぼんやりと照らされていた。


「違いますよ」


 別に謙遜でも、彼女を気遣ったわけでもない。実際に違うから、俺ははっきりとそう言った。

 確かに大元の原因はサラさんかもしれない。だがこの左腕でメアを助けようと突き飛ばしたのはあくまで俺の意思で、そこにサラさんはなんの関係もない。

 それが偽りのない俺の本心だった。


「これはメアを守ってできた傷です。それを考え、実行したのは俺。だからこの傷も俺の責任です。もし誰かに責任を押し付けたとしても、あなたじゃない」

「へぇ……」


 面白いものを見たというように、ニヤニヤと口角を上げた。

 なにか変なことを言っただろうか。頭を回しても、見つからない。

 なんとなくそんな視線を向けられるのが不愉快で顔をそらした。


「何ですか」

「いや、なんかいいなって思って。メアちゃんも幸せ者ね。こんな強い先輩ナイト君に守ってもらって」

「ナイトなんて……」

「いいじゃない。メアちゃんプリンセスを守るユルトくんナイト。かっこいいでしょ?」

「あいつは誰かに守ってもらうようなやつじゃないですよ。それに、プリンセスと呼ぶには少し性格がきつすぎると思いますけどね」


 確かにと、サラさんは何かを思い出すようにクスクス笑った。それを肯定するのもどうなんだ、なんて頭に浮かんだが、多分メアがあの時商人に“お話し”しているところも見たのだろう。彼女の反応もうなずける。

 自分で言い出した手前訂正するのもおかしな話。俺もついつい苦笑いで返した。

 サラさんはでもーーと、首をカクンと傾けて俺を見た。


「あれはあれで可愛いでしょ?」

「まあ……綺麗な容姿はしてると思いますね」


 後輩贔屓をしてるわけではない。実際に綺麗だと思うし、なかなか人気もある。他の街に行った時もナンパまがいのことをされているのを見かけたのも少なくはない。

 まあ大抵助けに入る前に相手はボロクソに言われて逃げて行くわけだが。


 サラさんはそういうことじゃないんだけどなぁ……と呆れたように息を吐く。

 何? もしかしてあいつの性格を可愛いと言えと?

 確かになかなか懐かない猫のような可愛げはあるかもしれないが、それを一言で可愛いというのは何だか抵抗があった。


「はっきり聞いちゃうけど、メアちゃんとはどうなの?」

「どう……とは?」

「だから、付き合ったりしてるの? ってこと」


 よりによってそれなのかと、俺は軽く頭を抑えため息をついた。キラキラした目で俺を見つめるサラさんの視線が痛い。なんだかんだ年頃の女性。恋バナは好きらしい。


 まあ、今まで深く考えなかったがどうなのだろうか。ふむと、顎に手を当て、少し考えてみる。


 事実だけを言えば答えは否だ。

 付き合ったり……ねぇ。試しにもしそうなった場合を想像してみる。


 ……うん、ないな。違和感がすごい。


「あり得ないですね」

「あり得ないってユルトくん……」

「俺の中でメアはいもうーーいえ、娘みたいなものですからね」


 娘。いうことを聞かない、わがままな娘。恋人なんかよりもよっぽどしっくりくる。と言っても俺に娘がいたことはないが。

 妹のようなものと言おうとした瞬間、頭に俺の妹はアイラだけというのが浮かんだことに思わず笑いそうになる。娘というのはそこから苦し紛れにでたようなものだが、思った以上にぴったりハマった。


「娘、ねえ……これは大変ね。メアちゃんも」


 そんなサラさんのつぶやきは、俺の耳に入ることなく朧げなロウソクの灯りに溶けていった。




 ーーそれにしても、と俺は思いついたように口にした。


「サラさんも随分と落ち着きましたね」

「そう?」

「ええ。昨日や一昨日は感情の機微が激しかったですからね。今にも死にそうなほど落ち込んでいると思ったら、これでもかと威嚇してきたり」


 ーーああ、そういうこと。


 彼女の口からそう小さく漏れた。

 余計なことを言ってしまっただろうか。悲しみや後悔を織り交ぜたような目で地面を見つめる彼女を見て、ついついそう感じてしまう。たった一言思わず溢れたようなものだが、そこには何とも言えない感情が絡まっているように思えて。


「そのことについても迷惑をかけたと思ってるわ。ごめんなさいね。一度全てを失って、頭の中がいっぱいいっぱいだったのよ」

「いえ……こちらこそ軽率でした」


 これが普通の反応なのだ。ついつい俺たちと同じように考えてしまった。

 人が生きている間に人が死ぬ瞬間に立ち会うなんて一度あるかないか。だから激しく動揺する。それが普通。


 こんな人が死ぬ瞬間を見慣れるような仕事についていると、その辺りの倫理観までなくなってしまっていけない。まあ、悪鬼隊だけが原因じゃないが。


「みんなを殺されて、今度は外と断絶されて……感情のぶつける先が見つからなくて」


 彼女は遠くのものを思い出すように、指をいじりながらそう言った。

 遠くのものを思い出すように、なんてたとえが頭に浮かぶこと自体、彼女が現実逃避のようなものをしていることの表れだ。でも俺にはそれを責めることはできない。


「悲しみとか、苦しみとか、怒りとか。そんな黒い感情が渦巻いて、絡まり合ってーー憎しみなんて感情が出来上がって。でも吐き出すこともできないで」


 結局、こんなところに閉じ込めてなければまだマシだったのだろう。だがもし蝕鬼病になったらどうする? カーテディアは大混乱だ。

 感染したら殺されて。しなくても心に傷を負ったまま過ごさないといけない。


「それで、ついついあなたたちに八つ当たりのようなことをしてしまったのよ」


 ーーごめんなさいね。


 そうサラさんは付け加えた。


「サラさんは……」

「……ん?」

「サラさんはーー恨んでいますか? 俺たちのこと」


 どちらにしろ苦しまないといけないなら、むしろあの時助けなければよかったんじゃないか?

 何度もそう考えた。

 でもその度にサラさんを助けに飛び出す時に見えた、メアの必死な横顔が頭をチラつく。そしてバカなことを考えた自分をまた一つ嫌いになる。

 気がつけばそんなことを口にしていた。


「……バカね」


 彼女は笑った。

 バカにするように、小さく笑った。

 でもそこには少しの中傷も含まれていなくて。むしろ言葉とは裏腹に慈愛に溢れているような気がして。

 予想とは違った反応を見せる彼女に、思わず俺は目を見開いた。


「恨むわけないでしょ。いくら今こんな状態でも、助けてもらったことに変わりはないもの」


 よいしょと、彼女は立ち上がり、牢の鉄格子まで歩いて来た。そして、俺に向かって手招きをする。

 こっちに来い。

 そう言っているようだ。

 何の疑いもなく、俺は鉄格子まで歩いていく。

 手を伸ばせば触れることができる距離。俺と彼女を隔てるのは、無機質な鉄格子だけ。


「ーーッ!」

「ユルトくんはよくやってる。助けられたから感謝する。当たり前のことでしょ?」


 鉄格子には腕一本通すくらいの余裕はある。彼女はそこから手を出して、俺を撫でるように頭に手を乗せた。


「当たり前のことだからこそ、そんなに難しく考える必要はないのよ。……正義の味方なんだから、それだけ敵が多いのかもしれない。たくさんの悪意に晒されて、疲れてるのよ。ユルトくんは」


 そのまま手のひらをゆっくりと動かした。

 優しい手つきだった。まるで母親のようだった。母親にこんなことされたことはないが、自然とそう感じてしまうほどに彼女の撫で方には慈しみがこもっていて。

 胸の底から何かがせり上がってくるような感覚がした。


 ーーこの心の内を吐き出したい。思い切り、目の前の女性にぶつけたい。


 ーーこんな胸中吐き出したくない。誰にも見せたくない。


 そんな葛藤が、そんな相反する感情が胸の中でぶつかり合って、俺はついつい俯いた。ガシャンと頭に鉄格子が当たって牢に響いた。


「お礼なんてそんなに言われたこともないんでしょ? あの隊長さんも、あなたが何かしてもそれが当たり前、って感じに振る舞いそうだし」


 それをどう受け取ったのか、もう片方の手も出して俺の頭を抱えるように腕を回した。そして、また撫で始める。

 鉄格子に阻まれて彼女には直接触れていない。だというのに、なぜかその体温を、温かみを感じる気がして。

 いつまでも彼女に浸っていたくなるのを何とか我慢して。


「なら私が言ってあげる。勘違いしないでね? これは同情なんかじゃない。正真正銘、私の本心。こんな怪我をしてまで私を助けてくれたあなたへの、素直な気持ち。ユルトくんーー」


 ーーありがとう。


 彼女の顔は見えないが、聖母のような優しい顔をしているのだろう。そう簡単に想像できてしまうほど、それは優しい声だった。

 そんな声を受けて、余計に強く迫り上がる。

 それを俺は必死に押し殺した。鼻の奥がツンとして、目の奥から溢れ出しそうになるものを目を思い切り閉じて我慢した。


 彼女の言っていることは当たっている。正義の味方なんて揶揄される俺たちだが、面と向かって感謝されることは少ない。大概死んでいるか、感謝どころか恐怖を抱かれたりする。

 自分を苦しめていたやつをいとも簡単に、体についたほこりを払うように殺す俺たちに、どうして恐怖を抱かずにいられるだろうか。

 自分を苦しめていたやつを簡単に殺すということ。それはそいつよりも俺たちが強いということで。それはいとも簡単に助けたやつをも苦しめることができるということで。大概相手は俺たちに引きつった顔を向ける。


 だから、彼女が稀有な存在なのだ。彼女自身もハンニバルなんて化け物中の化け物に対峙して、少し鈍っているのかもしれない。


 そうだとしても、心中を明かすことはしてはいけない。

 いくら嬉しくても、どれだけ苦しさを癒してくれているとしても、涙なんて流してはいけない。そんな綺麗なものを流せるほど俺は正しい存在じゃない。そんな優しさに甘える資格を俺は持っていない。


 だから俺は感情を漏らしてしまいそうな口を、涙を流してしまいそうな目をーー彼女に浸ろうとしてしまう心を、必死に硬く硬く閉ざす。


 あまりに必死なものだから、体が細かく震えた。

 彼女はそれをどう捉えたのだろうか。事実の通り我慢に震えるか弱い男の子? それとも彼女に溺れて涙を流す男だろうか。

 サラさんはそんな俺を慈しむように、腕に力を入れる。力一杯抱きしめる。

 実際に触れられないとしても、鉄格子に阻まれているとしても、この感謝の気持ちは事実だよと、俺に語りかけるように。


 確かに少しは救われた。だが、そんな彼女の優しさが俺を傷つけているのも事実だった。






 何にしろそんなことがあり、俺たちの距離が縮まったのは事実だった。俺も彼女に感謝の気持ちを持っていたのは事実で、もしこのまま監視が終わったら食事にでも誘おうか。そして、俺からもきちんとお礼を言おう、なんて考えもした。

 どうせ確率は低い。蝕鬼病にはかからないだろう。


 ーーそんな甘い考えを抱いていた。



 だがそんなことは許されなかった。

 もし神という存在がいるなら、どれだけ俺を苦しめれば気がすむのだろうか。

 もし神が存在するとするなら、どれだけ彼女を傷つければ気がすむのだろうか。


 人生において、幸と不幸は同じくらいやってくる、なんてことを何度か聞いたことがある。

 それなら、彼女にとっての幸とはなんだ? 彼女の今までは俺は知らない。だが、これほどまでに大きな不幸に釣り合うほどの幸が彼女にあったのか?


 忘れた頃に悪夢はやってくる。

 そして、忘れた頃に悪魔はやってきた。


 ーー文字通り、忘れた頃に彼女の中の悪魔ハンニバルは目を覚ました。



「……」

「嘘……嘘よ……」

「はぁ……」


 次の日の彼女は昨日の彼女とは別人のようだった。初めてあった時と同じ。青い顔でガタガタ震えていた。だがひとつ違うところがある。


 彼女の肌に、あの悪魔の外皮が存在していた。


 あの日、アイラの肌にあったような、あのハンニバルの皮膚。それが蝕鬼病に感染した、何よりの証拠だった。

 ジルさんは目を瞑ってうつむき、何かを諦めるようにため息をついた。

 一体何を諦めてしまったのか。言うまでもない。彼女を救うことだ。


「サラ」


 今までジルさんは彼女をサラさんと、一応敬称をつけて呼んでいた。だがそれは無くなった。それはつまり敬称をつける意味がなくなったと言うことであり、彼の中で彼女は悪となったことに他ならなかった。



「お前は蝕鬼病に感染した。話した通り、お前には死んでもらう」

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