第20話 わかっていながらすれ違う

 外に出る頃、世界は夕闇に染まっていた。そこらで遊んでいる子供も、空を飛んでいる鳥も皆家に帰る時間。

 子供たちは夕焼けに顔を朱色に染めながら親に手を引かれ、名残惜しそうに一緒に遊んでいた友達を見つめていた。

 彼らを見て、ふと昨夜メアが言っていたことが頭に浮かんだ。

 『前線付近の街で、カーテディアほど治安がいいのは珍しい』だっただろうか。


 あの時は森の中だったからいまいちイメージしづらかったが、今実際に見てみるとなるほどと思った。確かにここまで平和な光景は他の前線付近の街ではあまり見ない。

 内地では地価はもちろん物価も高い。身分がモノを言う部分もある。だからそこで迫害に近いものを受けるような人たちは、平穏を求めてここに来る。衛兵に守られた安全な街にやってくる。

 前線付近だろうが、何がいるかわからない森に囲まれていようがーー三年間捕まっていない連続殺人犯がいようが。苛政は虎よりも猛しとはよく言ったものだ。


 誰かが一緒にいるときはまだいい。だが一人でいる時。そんな時にこんな光景を見るとどうしても感じてしまう。自分だけ別世界にいるような、自分が演劇を見ている観客になったようなーーそんな感覚。


 だから俺は一枚壁を作ってしまう。別世界の住人のような人たちから離れようとしてしまう。

 俺の腕を心配し、大丈夫かと声をかけてくれる人たちに、仮面をつけて対応してしまう。


 気がつけばあたりはもうますます暗くなっていた。周りに人もいなくなっている。疲れていたとはいえ、少しゆっくり歩きすぎたようだ。


 ーーサラさんは大丈夫だろうか。


 一人になると考えないようにしていたことでも、ついつい考えてしまう。

 別に俺もこの件に関わりたいわけじゃない。と言うよりはグール、蝕鬼病、ハンニバル関係のものに近づきたくない。どうしてもアイラが頭に浮かんで、いつも通りの動きができなくなってしまう。


「ジルさんも何を考えているんだか」


 蝕鬼病に関することといっても、たいしてすることもない。やることといえば、数日の間定期的に変異が起こっていないか確認し、一週間何もなかったらそのまま解放。もし変異していたら……殺す。たったこれだけ。一人でも十分だ。つまり、俺が必要な理由がない。


 ……いや、やめよう。どうせきまったことだ。あれこれ考えても仕方がない。


 どうにか別のことを考えようと、頭を働かせる。


 この腕はどれくらいで治るのだろうか。何にしろ、右腕じゃなくてよかった。もし右だったら色々とできないことがでてくる。剣はもちろん振れないし、食事だって下手をしたら一人じゃできないかもしれない。

 それに、アイラの食料調達だってーー


「ーーはぁぁ……」


 失敗した。考えを逸らそうと思っていたのに。結局また戻ってきてしまう。


(もうさっさと帰ろう)


 一刻も早く家に帰ろうと、頭にまとわりつく黒い靄を取り払おうと、俺の足は自然と早くなった。


 考えることは多い。やるべきことも多い。


 思わず溢れそうになったため息を飲み込んで我が家への一歩を踏み出す。


 カツカツと、靴が舗装された道を鳴らしていた。





「ただいま」


 2日ぶりの我が家に扉を開けて、入った。あくまでいつも通りに。平静を装って。


「おかえり、お兄ちゃん」


 奥からわざわざ出迎えにアイラが出てきた。その右の表情はホッとしたような、俺が無事に帰ってきたことへの安堵で満ち溢れていた。


 不思議なものだ。アイラに会った途端体が軽くなった気がした。重い岩を背負ったような感覚が薄くなった気がした。

 俺が抱えているものが全て軽く感じるほど、俺は狂ってしまっている。

 かけがえのないアイラに。

 天使のようなアイラハンニバルに。


 それを改めて実感した。


 アイラは俺の全身を眺めるように視線を滑らせた。そして、俺の右腕で止まり、静かに瞠目した。


「アイラ?」


 俺の折れた腕を見て、アイラは何も言わない。何も言わずに顔を歪ませた。心配そうなと言うよりも、何かに耐えるように。そんな泣きそうな表情で悲痛に顔を歪ませる。


 そのままアイラはこちらに歩を進ませた。ロウソクの揺れる灯りに灯された彼女の風貌は、いつもと雰囲気が違って見えて。ついつい首を傾げてしまう。


 俺の目の前まで来たアイラは何かするわけでも、何かを言うわけでもなくただ一心に俺の右腕を見つめていた。

 右の表情は変わらない。左は三年前から伸ばし始めた前髪に隠れてよく見えなかった。

少ししてアイラはそっと、労わるように左手で俺の左腕に触れた。そして撫でるように滑らせた。


「……アイラ?」


 言葉を何も発さない彼女の意図がわからない。心配してくれているらしい、というのはわかる、でも何も言わずに触れているだけというのは首を傾げずにはいられない。


 アイラは何も言わない。

 しかし今度は俺に抱きついて来た。 俺の体を覆うように背中に手を回し、ゆっくりと、ゆっくりと力を入れている。そして最終的に抱きつくような形になった。

 その前髪に表情を隠しながら、俺の顔に顔をうずめていた。


 ーーお兄ちゃん。


 ポツリと、雫を落としたような声だった。


「お願いだから、無茶はしないで」


 揺れるような声で続けた。


「そう言う仕事だってわかってる。その仕事についているから私たちは何とかやっていけてるって言うのも理解してるよ? でも……やっぱり辛いよ」


 震えた声でそう言うアイラに、俺も無茶なんてしていないと、そう言おうとしてやめた。

 別に俺にとって無茶じゃないなんて関係無い。アイラがどう感じるかが大事で、全てなんだ。


「……ごめんな」


 だから俺はそう言うしか無い。無茶はしないとは言わないし、言えない。

 今現在無茶をしている最中だから。一歩踏み外したら奈落の底に落ちるような、綱渡りの途中だから。


「……なんでこんな怪我したの?」


 それを知ってか知らずか、アイラはそのことに触れなかった。どう思っているのか、声だけじゃわからなかった。


「調査したあたりはかなり山の中でな。ちょっとした崖から落ちたんだよ。その時にな」

「……」


 なんとなく、ハンニバルのことは言えなかった。


 アイラはハンニバルでは無い。半分変異しているが、それ自体じゃ無い。そんなことはわかっている。だがあのハンニバルが未来のアイラと考えてしまってから、まるでアイラと戦っていたかのように錯覚してしまっていた。だから余計に後ろめたく感じる。


 だから俺は何も言えない。


「そっ……か」


 そう言ってアイラは俺から離れた。一歩、二歩と下がり、後ろで手を組んで後ろを向いた。


「そんなことで骨折なんてお兄ちゃんはドジだなー。気をつけないとダメだよ?」

「あ、ああ……」

「じゃ、私はお風呂はいってくるね。ご飯はもうできてるから食べちゃっていいよ」

「……わかった」


 軽い。あまりにも軽かった。アイラは下がって後ろを向くまで表情を見せなかった。今も俺には背中しか見えない。だからどんな顔をしているかなんてわからない。でも声だけなら、言っている内容だけなら笑っていてもおかしく無い。そんな調子だった。


 あんな辛そうな顔の後にしては不自然なほどに軽かった。


「じゃあ、行ってくるね」


 そのままアイラは行ってしまった。そこに残ったのはなんとも言えない空間だけ。


「はっ」


 俺はまた間違えたのか。懲りもせずに繰り返すのか。


 俺は一人、そう吐き捨てることしかできなかった。




「はっ……はっ……」


 脱衣所に入り扉を閉めると、せき止めていたものが溢れ出るように呼吸が荒くなる。ついに私はそこで座り込んでしまった。無機質な冷たさが足から体に浸透してくる。


「は……はは……」


 口から乾いた笑いが漏れる。私もお兄ちゃんも、あまりにも滑稽で。こんな必死になっている私が、なんだか異常に哀れに感じてしまって。


「ねえ、お兄ちゃん。なんで隠すの?」


 私はさっき必死に堪えていた事を漏らすように、虚空に話しかけた。


「私わかっちゃうんだよ? お兄ちゃんがハンニバルと戦ってたって」


 変異するに従って変わってしまったのは見た目だけじゃ、皮膚だけじゃ無い。目とか耳とか、そして鼻とか。その辺りの性能も大分変わってしまった。


「お兄ちゃんからさ、ハンニバルの匂いがするんだ」


 もちろん私はハンニバルに遭ったことはない。ハンニバルの匂いなんてわからない。でもお兄ちゃんからいつもと違う匂いがした時私は本能的にわかってしまった。これはハンニバル私の同類の匂いだって。


 私は生き物のことに詳しいわけじゃない。でもこれだけはわかる。自分のことだから理解できる。

 蝕鬼病のせいで、私の中の考え方とか感じ方の一部が変わってしまっている。

 普段は人間と同じ。でもふと考え直してみると、身の毛がよだつほどに恐ろしくなるような事を考えていたりする。


 さっきお兄ちゃんがハンニバルと戦った事を知って最初に浮かんだのはーーお兄ちゃんに対する殺意だった。


 仲間同類を想う気持ちにしては黒すぎる。そんな憎しみだった。


「もう嫌だ……嫌だよ……」


 床にポツリポツリと小さなシミが生まれた。それはどんどん数が増えていく。


 お兄ちゃんにひどい感情を抱きたくなかった。


 もし抱くとしても、ハンニバルに対して抱きたかった。


 でもそれをハンニバル私の半身は許さない。



 こんな醜い私を見て欲しくなかった。さっきお兄ちゃんに顔を見せないようにしていたのも、黒い感情で醜く変化した私を見て欲しくなかったから。



 お兄ちゃんは三年前から私を傷つけまいとたくさん嘘をつくようになった。

 ーーでも私はそれを知っている。



 私はお兄ちゃんに心配をかけまいとたくさん誤魔化すようになった。

 ーーでもお兄ちゃんはそれに気づいている。



 互いに気付きながらも、お互いを騙し続ける。

 これはひどい茶番だ。


「はは……ははは」


 それだけ滑稽だから、乾いた笑いくらいしか口から漏れることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る