第17話 ーーやっぱり、しんでほしくないじゃないっスか

 ーーなんだッッ!?


 どこからともなく湧き上がる白煙に俺は動揺を隠せなかった。何しろなんの脈絡もなく発生した白煙だ。発生しそうなものも周りになかったし、どうして発生したのか全く見当もつかない。

 瞬く間にあたりは一寸先も見えなくなっていた。


 まずい。

 ハンニバルの攻撃は見て判断しては遅いといっても、別になら見なくてもいいというわけでもないのは当たり前で。だからこそ今視界が封じられるのは非常にまずい。


 あいつと俺はそう遠くない位置にいる。もしがむしゃらに暴れられでもしたら、偶然にもそれが直撃して死亡、なんてことが十分起こりうる。


 とりあえずここから離れようと、そう考えた時ーー


「っ!?」


 突然誰かに腕を引かれた。いきなり手首を掴まれ、そのまま引かれる。

 誰だ?

 まずその疑問が浮かび上がった。白煙で顔は見えない。性別すらわからない状態だ。

 誰とか以前にここらに人がいるわけがない。こんな工事みたいなことをしている近くに、好き好んで近づくような奴がいるわけがない。

 俺はそのままわけもわからず、為すがままに連れていかれる形になった。


 そのまま俺の手を引いて、走っていく。俺はそれについていった。そこまで範囲は広くないのだろう。そう時間のかからないうちに煙を抜け、その人の顔が見えた。


「……メア?」

「さっきぶりっスね。どうしたんスか? そんな間抜けな顔をして」


 それはメアだった。俺が逃げろといって逃したはずの彼女だった。

 俺の手を引いたまま走りながらこちらを見ることなく、メアはいつもみたいにバカにするようにそう言った。煙で俺たちを見失ったのか、ハンニバルは今の所追ってきてはいない。


「いや、さっきぶりってお前ーー」


 ーーなんで助けに来た?


 そう問おうとして、俺は口を閉ざした。


 なぜか? そんなの決まっている。助けに来てくれたのだ。そうでもなければ他にわざわざこんなところに戻ってくる理由などない。

 彼女もあいつの強さ、理不尽さはわかっているはずなのだ。怖くないわけがない。現にメアの手の震えが俺の手を伝って感じることができる。

 嬉しくないわけではない。もちろん嬉しいに決まっている。だが来て欲しかったかと問われれば、答えは否だった。

 せっかく逃げてもらったのに、なぜ帰って来てしまったのか。そんなこと聞くのは野暮のような気がして喉の奥に飲み込んだ。


「ーーそれより落ち着けメア。俺は自分で走れる。それにーーッ!」

「落ち着くのは先輩っス」


 メアは一旦走りを止め、こちらを向いた。そしてメアの両手で俺の頬を叩いた。目を覚ませと、俺の頭の中で考えていることを一度吹き飛ばすように。


「さっき、絶対にハンニバルに立ち向かおうとしてたっスよね」

「……そうだ」

「じゃあ、せっかく逃げれたと言うのに、またあいつのところに戻るつもりっスか?」

「……悪いか」

「悪いとかじゃなく、それが落ち着けと言ってるっスよ。私の知っている先輩は、理性的で、合理的で、少なくともあんな無謀なことはしないっス。ーー私が何言ってるんだって感じですが」


 理性的で、合理的……か。自分で言うのはおかしいかもしれないが、確かにそうかもしれない。自分で妙に納得してしまった。アイラが絡んでいるときは除くが。

 言ってしまえばさっきのも少しばかりアイラが絡んでいたのだが、これはメアが知る由も無い。


 メアは信じているのだろう。俺が理性的で合理的であると。そして、それとはかけ離れた、見たことのない俺にちょっとした戸惑いを感じているようだった。

 相変わらず感情が乏しい顔に据えられた黒真珠のような目。そこからでる真剣な視線の奥に、懸念が眠っているような気がした。


「確かに、どこかの正義の味方ヒーローの如く強敵に立ち向かう先輩もいいっスよ? でも相手が悪すぎるっス。それにーー」


 メアはそこで一旦区切った。


「ーーやっぱり、死んでほしくないじゃないっスか」


 そう彼女は笑った。珍しく誰が見てもわかるくらいに笑った。悲愴に、悲痛に、その鉄仮面を溶かしてみせた。


 彼女は本心を隠すことが思いの外多い。からかう時のような小さなものから、昨夜わかったように普段から。だが彼女が本心を晒す時、彼女の表情はいつものよく見ないとわからないくらいの小さくではなく、誰もがわかるくらいに大きく動くのだ。


 だから今この心憂いに笑う彼女は本心なわけで。偽らざる思いなわけで。嘘でも、俺をからかって辱めようとしているわけじゃないわけで。


 ーー心の底から俺に死んでほしくないと言っているわけで。


 俺が考えを改めるのは当然のことだった。


「ーーすまなかった」


 自分でも驚くほどすんなりと言葉が口から出た。アイラのことであいつに抱いていた、もはや八つ当たりのような怒りはいつの間にか霧散していた。


「わかったならいいっス」


 そう言う彼女の顔は、いつものメアに戻っていた。それだけ言って彼女はまた俺から顔をそらし、走り始めた。俺の手を引くことなく。


(可愛くない後輩だな)


 俺はメアに気づかれないよう小さく笑い、彼女を追うように走り始めた。





「メア、あの白煙はお前か? お前あんなの持ってなかったよな」


 ふと、先ほど気になっていた事をメアに尋ねた。

 もともと俺たちはなにかと戦うつもりなんて毛頭ない状態でここにきた。剣こそ一応持っていれど、あんなもの持ってきてはいなかったはずだ。


「さっきちょうど商人に会ったんスよ。そいつが持ってたっス。どうやら護身用らしく、何かに襲われた時逃げれるようにとか。そいつを拝借してきました。あ、あと今から逃げる足もその商人の馬車っスよ」

「その商人も災難だな……」

「悪鬼隊の名前を出しても渋ってたので、ちょっとした“ 話し合い”をさせてもらったっスけどね」

「お前なぁ……」


 “脅した”とメアは表情を変えることなくそう言った。

 悪鬼隊の評判が悪くなったらどうしてくれるんだか。それでメアにも悪影響が出ると言うことも自分でわかっているだろうに。

 だがそれだけ必死だったってことなんだろう。


「その馬車も森の外に待機させてるっス。今、そっちに向かってます。このままーー」


 そこまで言った時だった。


 背後から爆発音に近い、耳を塞ぎたくなるような咆哮が轟いたのは。


(ハンニバルッッ!!)


 それに続いて何本も何本も木が折れる音。そして段々と大きくなる地面の震度。ハンニバルがこちらに気づき追ってきているのは明白だった。


「ッッ!! 走れ!!」

「もう走ってる……っスよ!」


 俺と左にいるメアは脇目も振らずに走った。今止まると言うことはすなわち死を意味する。今スピードを落とすことはすなわちあの世に一歩踏み出すことを意味する。

 今走っているところはなんの手も加えられていないただの森だ。低い枝をくぐり抜け、そびえ立つ木を避け、地面から飛び出ている根を飛び越え、俺たちは止まることなくスピードを緩めることなく走り続けた。

 図体の大きさからしてもあちらの方が足は速いのだ。奴の狼のような、それよりもっと残虐な唸り声が段々と大きくなる。奴が俺たちとの距離を縮めてきているのは見なくてもわかった。

 時折飛んでくる木の破片とようなものが、俺の焦りを募らせる


 一度、どれくらい近くに来ているのかと俺は少し後ろを見た。


(ーーッッ!!)


 その時、俺はあいつと目があった。まだ距離はそこそこある。

 その真紅に染まった双眸をギラギラと輝かせながら、こちらを睨みつけていた。

 逃してたまるかと、絶対に殺してやると、そう言っているようだった。視線だけで殺せそうな、そんな目だった。

 やつは木など気にすることなく突き進んでいた。気にする必要がないのだ。奴の力、体の硬ささえあれば、木とぶつかれば木が負ける。

 その姿は最強の名にふさわしい。他の追随を許さない、最強最凶悪魔ハンニバルだった。


「ゴォラァァアアアア!!!!」


 奴の雄叫びは空気を揺らした。

 俺たちに向かって、待てと言っているように聞こえた。


 そして、奴は振りかぶった。その手にあったのは石と呼ぶには大きすぎる岩。そしてその視線の先にあるのはーーメア。

 ハンニバルは岩を思い切りメアに向かって投げつけた。


(くそっ!)


 あんなの直撃したらただでは済まない。むしろ死ぬ可能性の方が大きい。メアは前だけを向いていて、迫ってくる死に気づいてすらいなかった。


「メア!」


 俺はそう叫び、彼女を思いきり突き飛ばす。メアは思った以上に軽く、岩が当たらないくらいには吹き飛んだ。


 そして、メアを飛ばした俺の左腕に、岩が直撃した。


「アァァァァァ!! く、くぞ……」


 熱い。燃えるように熱い。確実に折れた。その痛みを我慢しようと、潰れるかと言うくらいに強くはを噛みしめる。さっきまでの何倍の速さで動く俺の心臓をなんとか鎮めようとする。

 痛いからって止まることは許されない。腕を振るのが辛いからとスピードを緩めるなんてしてはいけない。

 ハンニバルから飛んで来た砲弾のような岩は俺の左腕を破壊し、通過した後木にぶつかって止まった。


 メアはといえばさすがと言うべきか、突然与えられた衝撃にきちんと反応し、受け身をとってそのまま走り出す。

 そして痛みに悶えながら走る俺を見て、顔を青くした。


「先輩! 大丈夫っスか!?」

「あ、ああ……だい、じょうぶだ」

「くっ……急ぐっすスよ!」


 いつもならここで憎まれ口の一つや二ついってきそうだが流石に状況が状況。さらにそれが自分をかばってと言うこともあり、メアは悔しそうに顔を歪めた。


「もうすぐっス!」


 メアの言う通り、目の前には森からの出口であろう、少し光が強くなっていた。

 俺たちはそこを通り抜ける。そこには確かに馬車があった。馬二頭につながれた馬車だった。

 すぐに乗り込めるようにだろうか荷台の後ろ側は大きく開いていて、その中に商品らしきものと、心配そうにこちらを見つめる助けた生存者が見える。


 俺とメアはそこに飛び乗るように乗り込んだ。


「出せ!」


 その俺の声に反応するように、操縦者ーーおそらくメアの言っていた商人ーーは馬に鞭を打ち、馬は吠え、馬車は進み出す。急に進み出したからか、ガタンと大きく揺れた。


 さすがに馬には勝てないのか、ハンニバルとの距離はどんどん開いていった。


「ガァァアアアアアアア!!!!」


 やつは今までで一番大きな雄叫びをあげた。そしてその鬱憤を晴らすように地面に腕を叩きつける。何度も何度も何度も何度も。その度にあそこから離れている馬車ですら揺れた。

 何にしろ、もう追っては来ないようだった。


「「はぁぁぁ……」」


 もう大丈夫だと安心から俺とメアは、ペタンと座り込み、同時にため息をついた。

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