第16話 ハンニバルはどこまでも強者だった

「ッッッ!!!」


 背中を舐めるような悪寒。それを感じた瞬間に、俺は屈んでいた。そのほんの一瞬後、俺の頭上をあの豪腕が通り過ぎた。俺に当たることなく通り過ぎた腕は、近くにあった木を何本もなぎ倒す。メキメキと聞いていて心地よくはない音が頭に響いた。折られた木が地面に落ちて、小さく地面を揺らした。あれが自分の体だったらと思うと嫌になりそうだ。


 今のは運が良かった。ほとんど感といっていい。あの感覚の直後、自分が死ぬビジョンがはっきりと見えたのだ。あんなものを食らったら一瞬でお陀仏だ。

 やつの力を再確認し、もはや顔をひきつらせることしかできない。


「グォアラァァアアア!!!」


 ハンニバルはまさにそれが開戦の合図と言わんばかりに咆哮し、その腕を振り下ろした。俺はそれを右に飛んで避ける。まだやつの攻撃は終わらない。今度は左下から叩きつけるように腕をふるってくる。それを俺はしゃがんで避ける。

 その繰り返しだった。


(ん?)


 今までただ殴りかかるだけだったハンニバルが一度止まった。そして、おもむろに隣に落ちていた木を手に取る。そして、何をするつもりなのかその枝を折り始めた。


(それをどうするつもりだ?)


 全く意図が見えない。知性があるとはいえ、そこまで人間のような動きが出来ること自体驚きだが、何を考えてそんなことをしているのか予想もできなかった。

 結局ハンニバルは全ての枝を折り、木はただの棒になった。そして葉が一切無くなった木を、掴んだまま槍投げのように静かに構えーー


(まずい!)


 ーー投擲。


 俺は反射に近い速度で伏せた。それでも肩あたりを持っていかれそうだったので、木と体の間に軌道を少しでも逸らそうと剣を滑り込ませる。


 ギャリギャリギャリと嫌な音が剣を鳴らす。俺はあまりの勢いに仰向けで倒れた。

 投げられた木は寝転がる俺の真上を通過する。なかなかの長さだったようで、少しの間俺の視界は幹の色で埋め尽くされた。


 そしてそれも晴れ、目の前に現れたのは群青の空と青々しい木々の葉ーーなどではなく


(くそっ!)


 ーー両手を組んで掲げ俺を潰さんとする姿勢で落下してくるハンニバル。


 俺はそれを横に転がるようにして避ける。コンマ秒後、俺のすぐ横に隕石の落下のような衝撃が響いた。

 俺はそのまま飛びのいてハンニバルから距離を取る。

 ハンニバルはゆっくりと、余裕を持って態勢を起こし、俺を見た。


 その目にもう殺気はない。

 そこにあるのは殺気などよりレベルの低い怠惰。

 ちょこまかと逃げる鬱陶しい害虫に対して向けるようなーー無精。

 今これでわかった。奴は俺を敵だなんて思っていない。あくまで奴は狩る側。俺は狩られる側なんだ。


 さあ集中しろよユルト。ここから先は一発でも受けたら死亡なんだ。


 俺は奴に全神経を集中させる。この世界に俺のこいつ以外何もいなくなったような感覚だった。一種の興奮状態。それは今この状況で好都合とも言えるし、悪いこととも言えた。


 ハンニバルが連続で攻撃し、俺がそれを避ける。奴が折れた木を持ち、俺に向かってなぎ払うように振った。それを奴の懐に入り込み、またを滑って抜ける。疲れもあるのか一旦少しの間攻撃が止み、また再開される。そしてまた避ける。その繰り返し。


 俺は何度も紙一重で避けていく。俺のほんの数センチ横をやつの腕、爪が通り過ぎて小さく風が起こる。俺は経験とセンスと勘で予測し、行動に移す。見て反応していては間に合わない。ほとんど完全に第六感に頼っている状態だった。



 幸いなことにーーいや本当に幸いなことにやつは戦いに慣れてはいないようだった。やけに攻撃が直線的。何も考えずにがむしゃらに攻撃しているような、まるで幼児と戦っているような感覚だった。


(もしかして、感染者ベースが非戦闘員だったのか?)


 ハンニバルへと変異する過程で、人間の知性は無くならないらしい。強いて言うなら、理性が崩れ常識が書き換えられるような感じ。


 ならばと俺は考えた。


 ーーハンニバルの強さはその感染者ベースに左右されるんじゃないか?


 知性は失わない。なら、戦い方も失わない。逆に言うなら、元から戦い方を知らないやつなら、ハンニバルはかなり弱くなるんじゃないか?


 残念ながらそれを立証することはできない。だがいろいろとそれで説明できることも増えてくるのだ。


 もしそうなら、そのことに感謝すべきなのかもしれない。もちろん目の前のやつにそんなこと言えるはずもないが。


「ギギギ……」


 突然、微かだがそれが耳に入った。今まで何度も聞いて来た、聞くたびにはらわたが煮えくりかえる、ガラスを引っかいたようなその鳴き声が。


(あいつらグールまでいたのか……)


 ハンニバルの横の茂みからグールが出てくる。その数約三十。その数が一箇所に固まっている。アイラの時が異常だった。これくらいが普通だ。元々いたのか、あの死体に引き寄せられたのか。

 そんなのどちらでもいい。大切なのはただでさえゼロに近かった生存率が一気に下がったという事実のみ。


 グールたちは新しい獲物を見つけた喜びゆえか、その醜い音を一層響かせる。

 その目は全て俺に向いていた。ハンニバルには興味がないようだ。


(どうする…)


 これは本格的にまずい。

 ハンニバルの一撃必殺の攻撃を避けながら、グールを大量で、ある意味一撃必殺の攻撃を喰らわずに殺すというのは流石に難しい。

 額に汗がつたり、知らず知らずのうちに呼吸が早くなる。



 だが、それは杞憂だった。


「グラァア!」


 ハンニバルは邪魔だとばかりに拳を振り下ろした。目の前を煩わしく飛び回るハエを落とすように殺し尽くした。


 プチュン。


 命が消える音としては軽すぎる、そんな音とともに、グールの軍隊は全滅した。三十匹を一撃で。固まっていたというのもあるかもしれないが、その事実が俺に良くはない影響を与える。


 ハンニバルが、地面に叩きつけた腕を上げるとそこにあったのは無残な奴らグールだったものだった。真っ黒な泉だった。

 ハンニバルの拳から、黒い雨が降る。


「うっ!」


 こういう類の匂いには慣れているつもりだ。だがそんな俺でさえ吐き気を催すような、そんな匂い。生ゴミに錆びた鉄粉を混ぜ、その匂いを何倍にも凝縮したような、そんな悪臭。


 それでもハンニバルは何も変わらない。これが普通だと、当たり前のことだと、弱肉強食を体現したようなその風格でそう語っていた。


(もっと木の多いところに……)


 俺はそう判断し、木がある方へある方へと避けながら移動した。木がある方が何かと便利なのだ。視界から一瞬だが消えることもできる。それに図体がでかいハンニバルにとって、木が入り組んでいるところはさぞかし動きづらいだろう。


 それでもすこしも意に介さず目の前のハンニバルは淡々と攻撃を繰り出した。叩きつけ、なぎ払いなど。その全てを俺は必死で避けた。時折その攻撃が木々にあたり、真ん中からへし折れる。

 気がつけば俺たちが通った周りの木々はほとんどへし折られていた。


(森林破壊も甚だしいな……)


 そんな身もふたもないことが頭に浮かんだ。

 もはやこの場所に先ほどまでの面影はない。穏やかじゃないことが起きている森とはいえ、景色を楽しむことができるくらいの風景はあったはずだ。だがこれじゃまるでなにか災害があった跡地のようだ。

 そんなことを考えながらも一切集中を切らすことなく避け続けた。


 ある時、ハンニバルに折られた一本の木がささやかな反撃だろうか、やつの頭に直撃した。その時一瞬だけさすがにやつもぐらついた。

 敵ながら間抜けすぎる。戦闘職のやつなら絶対にあんなヘマはしない。やはり感染者が影響するのは間違いなさそうだと、頭の中で付け加えておいた。


(意味無いとは思うが……)


 ハンニバルが逸らした一瞬の意識の隙間をかいくぐり、奴の懐に滑り込む。間近で見る奴の体はそれこそ壁のようだった。

 そして、奴の胴体に横薙ぎに一閃。剣を振り切った。


 ガキン!


「くそっ!」


 そしてまたあの音がした。岩に剣をぶつけたような音。

 前回と結果は同じだった。奴の体に傷一つつけられない。硬い。硬すぎる。今持っているもので殺すのは確実に不可能だ。それこそ人一人で扱える程度の武器で傷を負わせることができるとは思えなかった。


 改めて絶望的な事実を再確認される。なら無力化するか? どうやって? 即席で起死回生の一手が思いつくはずもない。


 この戦闘の終わりはどこだ? やつの討伐? それはもう不可能だ。なら、どこだ。この理不尽でもはや逃げ出したくなるような、戦っている意味すら見失いかけているようなこの戦いの終着点ゴールとはなんだ?


 誰かが助けに来てくれる?


 突然この状況を全てひっくり返せるような妙案をひらめく?


 それともーー


 ーー俺の、死?


 混沌とした頭の中に投げ入れられたその答えは、一度全ての思考を吹き飛ばした。

 やつは殺せない。この集中だっていつ切れるかわからない。なら、もう結果は見えてるじゃないか。


 一度頭にこべりついたネガティブな思考を振り払うように頭を振った。


 ダメだダメだこんなことを考えていては。ぐちゃぐちゃ余計なことは考えるな。生き延びることだけを考えろ。


 そう自分に言い聞かせる。

 別に勝つ必要はない。負けなければいいんだ。そうすればそのうち勝機は出てくる。


 ハンニバルは怒りの声をあげながら自分に落ちてきた木に八つ当たりし、見るも無残な姿にしていた。さすがにあんな力の強さを見せつけられ、背中が冷たくなる。

 だが今は一時的だが殺気がこちらに向いていない。それだけである程度頭が動きやすくなる。


 つくづく感染者が非戦闘員でよかったと思う。普通だと兵士がなったりすることが多いのだ。街の中にいたら、そうそうグールになんて会わない。グールに会い、しかも蝕鬼病にかかるなんて戦闘職でもない限り滅多にない。


 だがここは前線。どこかで出くわしたのかもしれない。まさに不運で、神のいたずらとしか思えない原因で、望まずグールから傷を負ったのだろう。


 そこまで考えて、ふと頭に浮かんだ。


 こいつはアイラと何も変わらないじゃないか。


 グールに人生を狂わされたところも、蝕鬼病に感染したところもーー人間性を失ってしまったところも。唯一違っているのは、変異を遅らせる方法を知っているかどうかだけだった。


 それがなければアイラだってーー


 そう考えると、なぜか無性に怒りが湧いてくる。腹の下がフツフツと煮えたぎるような。自分でも自分の考えが不安ってことはわかっている。だがアイラが絡むとこれほどまでに盲目になってしまう。


 俺は鬱憤を晴らし終えたのか、再びこちらに近づいてくるハンニバルを見上げた。王者のように悠然とした態度で歩いてくるやつを見据えた。


「これがーーこんなのが、未来のアイラだっていうのか」


 そう忌々しげに呟いて、目の前の怪物を睨みつける。アイラをこんな風にしてたまるかと、ハンニバルに屈してたまるかと睨みつける。


 ハンニバルはなんの反応も示さなかった。当たり前だ。なぜ食料の威嚇にいちいち反応しなければならないのか。人間が家畜を見るような目でやつは俺を見下している。


 ーーああやってやるよ。アイラのためなら悪魔だって殺してみせるさ。


 自然と剣を握る力が強くなる。体勢を低くし、やつに向かって走り出そうと、地を蹴ろうとした時ーー


 ぼしゅぅ!


 突然あたりに白煙が発生した。

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