第15話 彼は初めて対峙した

「こいつがハンニバル……本当っスか?」


 俺のつぶやきに反応して、メアはそう聞いてきた。俺は奴から目を離すことなく頷いた。


「といっても実際に見るのは初めてだけどな。だが正直……」

「……正直?」

「想像以上だ」


 ドラゴンなどもはや天災と言われるような奴らを除くと、魔物の中では最強と聞かされた。体は人より何倍も大きいと本で読んだ。

 だが実際に見てみると全然違う本を読んで想像したものよりはるかに大きく見える。そして何よりこの肌を刺すようなプレッシャーは本を読んだだけでは感じることはない。


 まさに王のようだ。何人たりとも逆らうことを許さない、残虐な王。


 そいつは何故か動かない。女性を見つめたまま動かなかった。彼女を観察しているのか、怯える姿を楽しんでいるのか、はたまた気まぐれ故か。


 正直ここで彼女を助けるのはいい策とは到底言えない。二人だけで助けることができる可能性は絶望的に低いのだ。数十人単位の討伐部隊ですら全滅、もしくは返り討ちにあって逃げ帰ってきたりする。

 じゃあ二人で殺せるだろうか? 答えは否だ。不可能に決まっている。だから最善策は、言い方は悪いが彼女は見捨てジルさんに報告、その後大部隊で討伐するというものだ。

 だがそんなこと隣で厳しい目つきでハンニバルを睨むメアが納得するはずもない、というのが現状だった。


「いや……やめて……」


 ついに奴が動いた。丸太のような腕を振り上げた。女性はイヤイヤと首を振り、一層目を涙で潤わせる。


 ーーついに殺るのか?

 頭にそんな考えが浮かんだ。


「……だめっ……スよ」

「メア?」


 メアは顔を俯かせ、何かを呟いた。その表情はよく見えず、何をいったのかも聞こえない。


「誰か……助けてよぉ……」

「ッッ!!」

「メア! 待て!」


 もう叫ぶ気力すら残っていないのか、少しの風で掻き消えてしまいそうなほど小さな助けを求める声。それに背中を押されるように俺の制止を無視してメアは隠れていた茂みから脱兎のごとく飛び出した。


 女というのは昨夜メア自身が言ったように、力が男より無い。メアはそれを埋めるため速さを磨き、手数を増やした。実際それで男に勝てるようになっている。


 メアはその速さで瞬く間に女性のもとにたどり着き、抱え込んで横に飛んだ。女性は何が何だかわかっていないのか声も出さない。


 その直後、先ほどまで彼女がいた場所の地面に腕が叩きつけられた。今度こそ殺そうとしていたらしい。もしメアが助けなかったら、見るも無残な姿になっていただろう。その叩きつけられた部分の地面は、抉られたように凹んでいた。その圧倒的な力を目の当たりにして、女性は顔を真っ青にしていた。


「大丈夫っスか?」

「は、はい……」


 心ここに在らずといった様子で女性はなんとか返事をした。状況が未だ飲み込めていないのか、メアの顔を目を見開いて見つめたまま動かない。それを見てメアも小さく息を吐く。

 俺自身もメアが無事だったことに安堵していた。一度落ち着いたのは確かだったが、やはり実際に目の当たりにしてしまうと体が動いてしまうらしい。


 だが安心するのはまだ早い。ハンニバルは死んでいないのだ。


「グルルル……」


 ハンニバルはグールとは似ても似つかないように喉を鳴らす。なんとなくイラついているように見えた。


 ハンニバルは強者の余裕を見せつけるかのように腕をゆっくり上げた。メアは動かずにハンニバルを睨みつけている。動かないのではなく、動けないのだ。何度も言うがメアは力持ちというわけではない。さっき女性を抱えて横に飛べたのも助走があってこそ。今の状態では抱えることはできても避けることはできない。だから女性を捨てるしかないのだ。

 だがメアがそんなことをできるはずもなく、ただ睨みつけるしかできない。


「クソッ!」


 たまらず俺も茂みから飛び出した。そのまま走り、今にもメア達に腕を振り下ろさんとするハンニバルの背中に剣を振り下ろした。


ガキン!!


 刃がやつの体にぶつかり、そんな音が響いた。


「かっ……たい!」


 刃が全く通らない。生き物を切った時の音じゃない。冗談でもなく、文字通り岩に剣をぶつけた時と同じ感触がした。攻撃をしたのは俺なのに、逆にその硬さで仰け反る形になった。


 だが結果オーライといったところだろうか。ハンニバルのメア達への攻撃を中止させることはできた。

 さすがに俺の存在はバレ、ついにハンニバルがこちらを向いた。アイラの右目と同じ赤色の、狂ったような殺気を含んだ双眸で俺を見た。


「おいおい……まさかこれほどとはな……」


 格が違う。


 初めて本当の意味で対峙して、即座にそう感じた。動悸と冷や汗が止まらない。腕もカタカタ細かく震えた。


 ーー怖い。


 いつぶりだろうか、そう感じたのは。悪鬼隊に入って賊や魔物の大群と対峙したことがある。凶悪犯と戦ったこともある。その時でさえ緊張こそしたものの、怖いとは感じなかった。

 だがこいつは違う。圧倒的な力の差。それが俺に恐怖を抱かせる。


 ずいと俺を観察するかのように顔を近づけてきた。目と鼻の先。俺は動くことができなかった。まさに蛇に睨まれたカエルだ。俺はただ屈してたまるかと、ハンニバルを睨みつけ、不敵に笑ってみせた。なんの意味もない、精一杯の俺の強がりだ。


 勝てない。


 本能的にそう感じた。


 まずい。まずいまずいまずいまずい!!

 このままじゃダメだ!


「ガァァァアアアア!!!!」


 ハンニバルは口を大きく開け、威嚇してきた。空気が震えるほどの咆哮を轟かせた。やつの叫び声で俺の髪が揺れる。

 爛々と煌めくやつの紅い瞳から目が離せない。


 ーー呑まれるな!

 戦え! 動け! ユルト!


 俺は必死で恐怖心を抑え込み、闘争心を保とうとした。


 ……だがそれ止まりだった。


 脳の機能の全てがそのメンタル作業で手一杯で、これからどう動くのか、作戦を考えるのに回せない。要するにーー頭が動かなかった。



 ふと、そこで目に入ったのはメアだった。心配そうな目でこちらを見ていた。俺を助けにいくか、女性を助けるか、決めかねている目だった。


 それを見て一気に頭が冷えた。熱くなった頭に冷水をぶっ掛けられたような感覚だった。

 俺は一人じゃない。メアという心強い味方がいる。

 それだけで小さく笑みを浮かべられるほどに余裕ができた。そして、するべきことが明確に見えてくる。


「メア!」


 俺は叫んだ。メアに声をぶつけるように叫んだ。


「お前はそいつを連れて逃げろ!」


 それを聞いてメアの顔が驚愕に染まった。なぜそんなことを言うのかと、私じゃ足手まといかと訴えてくるような眼で。


「でも、それだと先輩がーー」

「これが最善策。俺は大丈夫だ」

「……」


 それでもメアは動かない。顔を苦痛に歪めていた。

 ここで残ろうとしてくれているのは素直に嬉しい。……だがな、それじゃダメなんだよ。このまま残っても二人して死んでしまう。もちろん一人でも死ぬつもりは毛頭もないが。


「メア、先輩の命令だ」

「……」

「先輩の言うことが聞けないのか!」

「ッッ!!」


 メアは顔を勢いよくあげた。その目にはもう迷いはない。


「……先輩。あとは頼むっス!」

「ああ……任せろ」


 そういってメアは彼女を連れて走っていく。ハンニバルはなぜかあいつらを追おうとはしなかった。こちらとしては好都合だ。メア達の背中がだんだんと小さくなる。


 これでよし。あいつらはもう大丈夫だ。


 そう思った時、それは聞こえてきた。


「ユルト先輩! 死んじゃだめっスよ!」


 メアの叫びだった。全てをぶつけてきたのがよくわかる。自分で驚くほど、その言葉に力をもらった気がした。無意識に剣を握る力が強くなる。


「……ああ、死なないさ」


 俺は小さくそう漏らした。ハンニバルはもう臨戦態勢。メア達がいなくなって意識の全てがこちらを向いていた。全てを喰らい尽くすような殺気を、全てを包み込むような怒気を一つ残らず俺に向けてくる。


 冷や汗は相変わらず止まらない。腕だってまだ震えている。


 だけどさっきまでの敵わないと言う気持ちはとうに消え失せた。



「……まだ死ねるわけがないじゃないか」


 俺に死ぬなといったやつがいる。俺を必要とする人がいる。


 死ぬにはまだやらないといけないことが多すぎる。


 俺は剣を構えなおした。


「さあ、ハンニバル。俺はまだまだ死ねないんだ。すまないがーー」


 ーー俺たち俺とメアのために死んでくれ。

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