第9話 ーー痛いな……本当に、痛い
なぜアイラの変異が止まったのかなんて考えるまでもない。ヒトを食べたからだ。ヒトを殺し、ヒトを食べるハンニバルにならないようにする方法がヒトを食べる。なんて矛盾したことなんだろう。
俺は、まるでアイラの右側に別の何かがいるように感じた。「俺を満足させるなら、変異は少し待ってやる」なんて言って。
与えられた休暇の最終日、俺は図書館に行かずに家でそんなことを考えていた。
あの夜から二回朝を迎えたが、アイラの変異は進んでいなかった。それ自体は嬉しいことだが、それがいつ止まるか、また進み始めるか恐れるようになった。
俺はそんな調子なのに、アイラはなにも変わっていない。少なくとも、表面上は。
今までとなんら変わらない様子で俺の隣に座って本を読むアイラを横目に、再び考え始めた。
変異を止めれる時間は食べる量と関係あるのか? 最低限食べる必要がある量は? 部位は? 死んでからの時間は?
疑問はとめどなく溢れてくる。でもそんな実験みたいなことは出来ないし、何より少しでも変異が進んで欲しくなかった。
だからできることなら毎日でも食わせてやりたい。それでアイラにかなりの傷を負わせることになるだろう。それでもそれしか道がないのなら、アイラに嫌われてでもやってやるつもりだった。
でも問題もある。死体はそんな簡単に手に入る物じゃないということだ。人なんてそう何度も殺したくはない。だから、最終的な考えにたどり着くのは、当然のことだったのかもしれない。
「なあ、アイラ」
「イヤ」
「……まだ何も言ってないんだが」
悲しいかな、名前を呼んだ途端に拒否されてしまった。しかも目線は本に向けたまま、こちらを見向きもしていない。
アイラは苦い息を吐き、訝しげな目でこちらを見た。
何? ということらしい。
「俺を食ーー」
「ヤダ」
今度は俺がため息をつく番だった。
ここまで即答されるとは。内容的にもそれは当たり前だし、昨日から何度も聞いているから当たり前と言ったら当たり前だが。
「何回も言ってるじゃん。私はお兄ちゃんを傷つけたくないの」
「だけどそれしか変異を止める方法がないんだ。なりたくないだろ? ハンニバルに」
「そりゃ、そうだけどさ……」
アイラは困ったように眉をしかめ、顔に影がさした。少し脅しのようなやり方になってしまったが、こちらからしても手段は選べない状況なんだ。
「でも、やっぱりいやだよ……」
俺自身アイラのことは好きだし、大切だ。もちろん妹として。
アイラからも好かれてはいると思う。でも自惚れるわけじゃないが、ここまでとは思わなかった。ここまで大切にされてるとは思っていなかった。
そしてそれがこの上なく嬉しかったし、悲しかった。
結局、俺はアイラの枷になっていた。
「……しょうがないか」
「お兄ちゃん?」
俯いたままのアイラをひと撫でし、立ち上がってキッチンへ向かった。といっても大した用じゃない。ものを取りに行っただけ。
戻ってきた時、そんなに時間も経っていないからかアイラの位置は変わっていなかった。
そして、俺を見て目を見開き、その眼に映る感情が移り変わった。
包丁を持ってやってきた俺を見て、驚き、落胆し、諦めた。
俺はなんの反応もせず元の位置、アイラの隣に座った。
「お、お兄ちゃん?」
座ったまま何も言わない俺に、アイラはおそるおそる声をかけた。それでも俺は反応しない。そうでもしてないと、断念してしまいそうだから。
アイラの戸惑い、疑問の視線を受けながら上半身の服を脱ぎーー
自分の左肩を包丁で切った。
「ーーッッ! おに……ちゃん。まさか……」
チクリと痛みとも呼べないほどの刺激を肩に感じる。切ったと言ってもそれほど深くはない。血が少し出る程度。でもそれで十分だった。俺がしたいことをするには十分すぎた。
俺も成功するかわからなかった。アイラは右眼をギラギラと狂ったように赤く輝かせ、頬もほんのりと赤みを帯びていて、蕩けるような表情をしている。そんなアイラを見れば、成功しているのは一目でわかった。
アイラが言うところの、今まで経験した何よりも甘くて極上の香りがする血が、彼女をこんな風にさせたんだろう。
「おに、ちゃん。それは、ずるい……ってぇ……」
「……」
「も……我慢、できない……」
幸せそうな顔でそう言いながらも、どうにか耐えているようだった。でも赤い眼は傷口から離れないし、俺を押し退けようと伸ばされた手には力がこもっていない。
ーーこれじゃ、らちがあかないな。
俺はアイラの頭の後ろに手を回し、顔が傷口に来るよう抱き寄せた。
「ーーッッッッ!!!」
アイラの声にならない悲鳴が響き渡る。さらに俺を強く押そうとするが、それでも力が入っていない。
アイラの体は細かく震え、我慢しているのがひしひしと伝わってきた。
「ほんとに、離して……限界、だからぁ……」
アイラは我慢して動かず、俺も動かずで完全に硬直状態。
俺はその甘い匂いがどれほどのものなのか、どれだけ我慢するのが辛いのか知らない。でも相当なものなんだろう。だんだんと息遣いが荒くなるアイラから、そんなこと簡単に予想できた。
ーーピチャリ
「……ッ!」
しばらくして、そんな音とともに肩の傷口に湿った感触。アイラが傷口を舐めたとすぐにわかった。実際、アイラの我慢からくる体の震えは止まっていた。
浅いと言っても傷口。それをいきなり舐められ、針で軽く刺されたような刺激に体がピクリと反応した。
その後もしばらくピチャピチャとアイラは傷口を舐め続けた。もう血なんて出てないだろうに。我慢するための行動だろうか。
アイラは優しい子だ。俺のことを心配して、それから先には行けないのだろう。
「アイラ」
「……」
「大丈夫だ。お前の好きにしろ」
ならその心配を取り去ってしまえばいい。
結局は自分の中で納得がいってないのだ。なら了承の言葉をちょっと言って、お兄ちゃんがいいって言ったんだから、なんて言い訳が成立するようにしてやればいい。
「……ごめんね」
「別にいい。仕方がないんだもんな」
「……いただきます」
ピチャピチャと傷口を舐める音が止まり、アイラはそう呟いた。今にもかぶりつかんと口を開け、息を少し吸う音。そしてーー
「ぐっ!」
傷口に激痛。そこあたりが燃えるように熱い。視界がチカチカする。アイラに心配をかけないよう、痛みを我慢するために歯を食いしばった。
しかし幸運なことなのか、アイラはそれ以上食べようとしなかった。その代わりに、アイラは余韻を楽しむかのように、再び傷から溢れる血を舐めていた。
痛みがなくなったわけじゃない。かじられた時の大きく瞬間的な痛みこそないが、傷口をいじられ、塩を塗られているような痛みが続いていた。俺は動くことなく耐えていた。
やはり食べている途中は食事に浸ると言うか、夢中になっているのだろうか。アイラは途中から拒絶するどころか、自分から進んで抱きつくような形で貪っていた。
だがそれはしばらくして止まった。
アイラは正気に戻ったのか、飛び退くようにして俺から離れたのだ。
そしてそのまま走り去っていった。
「はぁ……」
アイラが走り去っていった方向を見ながら、溜め込んでいたものを吐き出すようにため息をついた。
思っていたよりも辛い、と言うのが正直なところだった。身体的にも、精神的にも。
自分を食わせるなんて非人道的なことをさせていることに対してもだし、それが無理矢理というのもジワジワと俺の心の表面を削っていく。
そして極め付けにあの去っていく時の表情だ。
やってしまったと、ごめんなさいと、目を見開いて涙をいっぱいに溜めた黒い表情。
やらせているのは俺なのに、そんな申し訳ないみたいな表情をされ、俺の罪悪感はさらに加速する。
「痛いな……本当に痛い」
肩を抑えながらそう呟いた。
アイラは、戻ってこなかった。
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