第8話 それは真っ赤な、血塗られた希望だった

 全く、俺たちが何したっていうんだ。


 そんなことを考えながら、いつもと変わらない様子で登って来た太陽を睨みつけた。窓の方から徐々に淡い光に侵食されるこの部屋には、昨夜のような凄惨さは微塵も残っていなかった。


 言うまでもなく気分は最悪だ。もし神がいると言うのなら、剣を持って切り掛かりたいと思うくらいには。

 度重なる不幸な出来事、結果の出ない調べ物で心身共に疲れているのに、一睡もせずに昨夜の後始末をしていればそんな気分にもなると言うものだ。


 あの後腹が膨れたのか寝てしまったアイラを、痛む身体に鞭打ちながら抱きかかえ、風呂に連れて行った。赤黒く染まった服を脱がし、身体を拭いてやった。妹の裸で欲情なんてしない。むしろ、今までは顔でしか確認できなかった変異の進み具合を、ありありと感じてしまって余計に落ち込んでしまったくらいだった。


 アイラは今自室で寝ている。もうそろそろいつもなら起きてくる時間だ。

 死体ーーと言ってもほとんど骨だったがーーも片付けた。部屋も前と同じ、とまではいかずとも綺麗にはなった。


「あとはアイラの状態か」


 正直それが一番気がかりだった。掃除中も常に頭のどこかで考えていた。

 昨夜のアレが一時的なものだったらまだいい。注意していれば、なんとかならないこともない。でももし常時的なものだったらーー


「殺さないと、いけなくなるかもな……」


 正直考えたくない可能性だが、それくらいしか方法が思いつかない。

 俺では力で押さえつけれない。それは昨日思い知った。


 隊長ならあるいはーー


 そこまで考えて、それを振りほどくように頭を振った。

 それも方法の一つだが、あくまで最終手段。できることならアイラには生きて欲しい。


「……考えててもしょうがない。アイラの様子を見に行くか」


 底の見えない穴を覗き見る時のような不安感を感じながら、アイラの部屋に向かった。




「はぁ……」


 アイラの部屋の前で、俺は深く息を吐いた。疲れているからだろうか、頭がネガティブなことばかり考えてしまう。考えたくもないようなことが次々と浮かんでくる。


「考えるから変なことが頭に浮かぶ。余計に気分が沈む。さっさと動け」


 自分を鼓舞するように、言い聞かせるようにそう呟いた。

 と言っても、不安が切れたわけじゃない。

 さながら、戦場に向かう時のような覚悟で、ドアを開けた。


「……アイラ?」


 反応はない。寝ているわけでもない。

 アイラは、ベッドの上こちらに背を向け座っていた。

 正面の大きな窓から差し込む、柔らかく粉のように白っぽい朝の陽射しを、白が混ざり始めた紅の髪が反射して、キラキラと光っている。

 ただ座っているはずのアイラの背中にも、一枚の紙切れのように頼りない雰囲気が漂っていた。

 それは、一つの美しい風景と言うよりは、完成された一枚の絵。もう完結しているこの空間に足を踏み入れるのは、なぜだか躊躇われた。


「アイラ」


 再度、呼びかける。またもや反応はない。

 この部屋の中で動いているものはほとんどない。ただ、風に吹かれてカーテンが揺れているだけ。


「なあ、アイラ。だいじょうーー」

「ねえ、お兄ちゃん」


 俺の声を遮るように放たれた声は、ひどく落ち着いた、柔らかい声だった。


「ヒトの味って、どんなのか、知ってる?」


 その質問に、俺は何も答えることができなかった。もちろん知らないというのもあるが、何よりもなぜその質問をするのか、わからなかったから。

 

 アイラは何を求めているんだ?

 なんで答えて欲しいんだ?


 ぐるぐると頭の中をかき乱す。


「すっごくね、甘いの。今まで食べたどんなスイーツよりも。病みつきになっちゃうくらいに」

「アイラ、おまーー」

「おかしいよね……私はお父さんとお母さんを殺したのに、食べちゃったのに、何も感じないの。そう、食べちゃったの、ヒトを。ね、お兄ちゃん。もう人間じゃないんだよ、私。

だからさーー」

「ーーッッッ!」


 ーー殺して?


 振り返り、そう弱々しく懇願する彼女は、微笑んでいた。左目から一筋の雫を落としながら。


 肯定も否定もできない。

 何が正解かといえば殺してしまうのが、俺の就いている職としても、家族としても正解なのかもしれない。そうすれば街を滅ぼすかもしれない危険を排除でき、妹を苦しみから解放できる。今まで考えなかったわけではない。

 でも、もしかしたらアイラが生きたがってるかもしれない。

 そう思っていたが、アイラからそれを求めてきた。優しさを持って、信頼を持って、覚悟を持って。

 だから、受けてあげるのが正解なんじゃないか?


「……ダメだ」


 そう思っていても、口から出たのは無情な否定の言葉だった。

 アイラがわかりやすく顔を歪めているのを、俺はどんな顔で見ているのだろうか。


 ーーなんで


 そう口が動くが、掠れた息が漏れるだけ。俺が殺すと思っていたのかもしれない。だから驚いて声も出ない、といったところだろうか。


 俺が近づくとアイラはビクッと反応し、逃げようとした。しかし俺は早足で近づいて、両肩を掴み、俺と向き合うように体を回転させた。

 アイラの大きな瞳は揺れていた。そこに隠れているのは恐怖か、後ろめたさか。何にしろそんな表情はさせたくなかったと、心が痛んだ。


「アイラ、昨夜のことはお前は悪くない。仕方がなかったんだ。あいつらから殺しに来たんだろ? なら、正当防衛だ」

「……だとしても、そのあとはーー」

「それだってそうだ。仕方がなかった。あんなことをしたのは病気のせいであって、お前のせいじゃない」


 徐々に、アイラの瞳に力がこもっていっている気がした。

 わかってる。これはただのこじつけだ。アイラの罪の意識を、偽りの正義で覆い隠しただけ。消してはいない。


「それに、この病気だって治ればーー」


 そこまで言って、思わず俺は声を止めた。アイラは不思議そうにこちらを見ている。


ーーアイラの病気が治ったら


 本当に治るのだろうか。変異はもう半分程まで進んでいる。時間は残り少ない。なのに治療法は見つからない。

 ほぼ無意識に、無責任に口から漏れた言葉が、今更ながら頭の中で何度もぐるぐると回るようだった。


「……治るの?」


 そう尋ねるアイラの眼は、小さな希望と、不安が入り混じった弱々しいものだった。

 庇護欲というのか、それとももっと醜い何かか。体の中で湧き上がる衝動を抑えきれずに、アイラを抱きしめた。左右で違う触感に気分がさらに沈みそうになる。アイラは抵抗しなかった。

 どうやら俺の最大の弱点は、やはりアイラらしい。


「大丈夫だ。絶対に治る」

「そっか。よかっ……た……」


 そのままアイラは寝てしまった。俺の耳元でスゥスゥと寝息が聞こえて、何だかくすぐったい。


「はぁ……」


 俺はため息をつきながら、アイラを再びベットに寝かせた。

 アイラの寝顔は、さっきまでの発言が嘘みたいに思うほどスッキリしていて、安心していた。

 その寝顔が俺を安心させ、そして自己嫌悪させる。

 結局、さっきまでの俺の発言の根本にあるのは、妹に死んで欲しくないという俺の我儘エゴ。一寸先も見えない闇の中を彷徨う妹に差し出したのは蜘蛛の糸よりも細く、脆い。とてもじゃないが救いの手とは言えないものだった。

 でも、それでもーー


「……やっぱり、死んで欲しくない」


 そう呟きながらアイラの頭を撫でてやると、アイラはくすぐったそうに身じろぎした。前とそう変わらない反応だ。

 やっぱり見た目はこんな風になっても、内は変わらない。昨日のアイラは病気のせいであって、普段のアイラは今まで見て来たアイラと何ら変わらない。

 そう思うと、何だか少し救われた気がした。


「……ん?」


 アイラを見ていて、余裕が生まれたからか今まで気がつかなかった違和感が生まれた。

 その違和感を確かめるように、もう一度よく見る。


 間違いない。やはりーー


「変異が、止まってる」


 日中ずっとアイラを見ているわけじゃないから、変異が一日を通して起こっているのか、夜に一気に変異するのかわからない。でも朝見た時には、毎日確実に一目見て分かるくらい変異が進んでいた。

 だか今のアイラはどうだ。進んでいない。昨日の朝見た時から、あの忌々しい鱗を連想させる硬い皮膚は、全く進んでいなかった。


 どういう原理で? どういう理由で?

 そんな疑問なんて頭に浮かばないほど、俺の気分は高揚していた。思わず口元が上がった。

 原因がなんにしろ、治すまではいかなくても、変異を遅らせることはできるということがわかったのだ。


「もしかしたら、もしかしたら、本当に治せるのかもしれないっ……!」


 歓喜に震える声を抑えることなく、俺は口に出した。


 赤い希望は、疲れ切った俺の体に新たに力をつけさせた。

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