第7話 兄は妹にハンニバルの片鱗を見る

「ただいま」


 そう言いながらドアを開け、家に入った。


「っ!これは……」


 ドアを開けた瞬間、むせ返るような匂いがした。いくら経験しても慣れることのない、どうしても不快な気分になってしまう匂い。もうなんども嗅いだことのある、濃厚で、濃密なーー血の匂いだった。

 疲れのせいか少し冷えていた頭は、急激に熱を取り戻した。


 なぜだ? もしかして、誰かが気づいて知らせたのか?


 いや、せいぜい家を開けていたのは十時間程度。さすがにその間に知らせを受け、準備をし、この家に突入し、殺すなんて事は出来ない。でも血の匂いがする事は、誰かが傷つき血を流した事は事実なのだ。それが俺を混乱させる。

 もちろん、俺にはそんな原因となるようなことは何の覚えもなかった。


 アイラが殺された。


 想像したくなくても、そんな光景しか頭に浮かばない。アイラはそんな生きるとか、死ぬとかとは今まで無関係で生きてきたのだ。殺しにきたやつから逃げるなんて、難しいに決まっている。

 今直ぐにでも飛び込んでいきたかった。そんな気持ちがフツフツと腹の下で燃え体の外に出て来ようとする。でも異常に静かなのだ。この異質な静寂が、それを体の中に押しとどめていた。


 ふと、玄関に並べてある靴に目がいった。

 並べてある靴が、いつもの玄関とは違っていた。俺もアイラもそんなに多くの靴を持っているわけじゃない。見えるところに置いてあるのは、俺とアイラそれぞれ一つづつ。まだ俺が履いているから、そこにあるのは一つだけのはずだ。

 でもそこには三つの靴があった。長いこと使っているのが分かる、古ぼけた靴。これはーー


「父さんと母さんか……っ!」


 完全に失念していた。あまり家に帰ってこないが、父さんも母さんも死んでいるわけじゃない。最低でも一ヶ月に一回は帰ってくる。

 彼らのことを全く考えていなかった。


 ということはもしかしてーー


 父さんと母さんがアイラを?


 驚くほどあっさりとそんなことが頭に浮かんだ。

 帰ってきた家にいた半分怪物とかしたアイラを、化け物退治という大義名分の元に殺した。そうありえない話じゃない。


「あいつら……!」


 たとえ怪物になりそうだとしても、自分の子供を殺すだろうか。なんとかしたいと、思わないものなのだろうか。

 犯人が両親かもしれないと思うと、急に黒い感情が湧き上がる。蝕鬼病の感染者を殺すというのは、自分の安全を守るという点では正解なのだろう。それでも俺は納得がいかない。


「アイラ!」


 俺は剣を持ち、アイラが、あいつらがいるであろうリビングに飛び込んだ。


 帰り道の地獄のようなと例えた道は、悲しいことにそのまま文字通りのことになった。


 そこは、ある意味予想通りの世界だった。


 俺は思わず目を見開いた。目が反らせなかった。言葉を失うような、時間が止まったような、現実であることを認めたくなくなるようなーー衝撃的で、幻想的な光景だった。


 そこは、地獄のようだった。


 あの不愉快な匂いは玄関よりも濃くなっていて、思わず顔を歪めるほどだった。血が日が暮れはじめ暗くなった部屋の中を赤く・・、狂った彩りを与え、床に小さな池ができていた。


 そして、文字通りの血の雨が降っていた。

 天井から滴り落ちる、赤い、赤い、死の雨が。

 真っ赤な、真っ赤な、涙の雨が。


 その雨を避けることなく、防ぐことなくリビングの中心に、そいつはいた。


 こちらに背を向け、堂々と、悲惨に、悲痛に、佇んでいた。


あかく、あかく、あかく染められた世界の中にただ一匹の悪魔がいた。悲しくなるくらいに真っ白な鬼がいた。


 真っ赤な世界の中で一人白いあいつが佇んでいる姿は、どうにもならないほど、言葉にできないほど綺麗で、思わず目を奪われた。


 見間違うことなんてない。まごう事なく、アイラだった。どこまでも綺麗なアイラハンニバルであった。


「ア、アイラ……」


 なんとか絞り出すように、掠れた声が出た。

 その声に先ほどまでピクリとも動かなかったアイラの背中が反応し、振り返る。

 彼女の半分、人間側の顔は笑っていた。その鬼は妖艶に、幸せそうに、嗤っていた。

 顔についた血を拭う事なく、緋色の笑顔を、天使のような微笑を、美笑を俺に向けた。


「お兄ちゃん、おかえり!」

「あ、ああ、ただいま……」


 異常な彼女の口から出たそんなありふれたセリフに、俺は思わずいつも通りに返答してしまった。


「お前……なにを」


 俺はアイラの足元に倒れていたかつての両親を指差し、なんとかそう尋ねた。泣きそうな、情けない声で。

 別に両親が死んだからじゃない。人が死んでいる状況に出会ったからじゃない。人が死んだところなんて、何度も見たことがある。

 悲しくて、胸が潰れそうなんだ。狂ってしまいそうなんだ。

 アイラが壊れてしまったようで、その笑顔の裏にあるのかもしれない、殺意が、狂気が怖くて。

 そう、俺は彼女を恐れていた。その証拠に俺の手は無意識のうちにいつでも反応できるよう、剣に添えられていた。


 そもそも、そんな質問の答えなんて分かっているはずだ。全ては、アイラの血塗られた右手が物語っている。なのに俺は認めたくなくて、現実から逃げていた。


「ああ、お母さんとお父さん? ねえ聞いてよ! お父さんとお母さんさ、私を見た途端に私を殺そうとしたんだよ!? キッチンの包丁を持ち出してさ!」


 そういうアイラは、本気で怒っているようには見えなかった。むしろ俺がたまにからかった時に見せる、軽い怒り方だった。

 殺されそうになったというのに、そんな反応しかしない。


 だが、俺が聞きたいのはそんな事じゃない。いやそれも聞きたいが、俺は気がついてしまったのだ。両親の死体の違和感に。

 その、腕がなくなっている母親の死体に。


「なあ、母さんの……腕はどうしたんだ?」


 聞きたくないと、俺の中のなにかが騒ぐ。これを聞いてしまったら、全てが終わってしまう予感がした。


「……食べちゃった!」

「……」


 一番聞きたくなかった答えを、アイラは口にした。

 なにも言えなかった。なにかが崩れたような、壊れたような音がした気がした。あっけからんと、いたずらが見つかって開き直った子供のように、そう言った。

 彼女は、その時のことを思い出したのか、顔を幸せそうに緩ませ、朱色に染めた。呼吸も、なんとなく興奮したように荒くなっていた。


「我慢できなかったんだ。お父さんとお母さんの死体から、甘い、極上の匂いがしたんだ。そしたらもう、ね」


 あとはもうわかるでしょ? と、彼女は笑顔のままそういった。

 美しくーー恐ろしい笑顔で、そういった。


 最近読んだ本に書かれていた、あることを思い出した。


『蝕鬼病に感染し、ハンニバルになったものは知性がある。それも、人間に匹敵する頭脳が。彼らは変異の過程で理性を、意識をなくしたわけじゃない。どちらかと言えば、人間であった時の常識や欲求がグールのものに作り変えられる、といったほうが適切だ。グールの食人欲求は凄まじい。

 昔、グールは皆ハンニバルだった。しかし、今はなきハンニバルへの対抗策によって追いやられたハンニバルは、主食であり、最も栄養を取れるヒトを食べれなくなり、飢餓により今の姿へと変わった。だから、食人欲求が凄まじいのは当然なのである』


 だとしたら、彼女のあれはもうハンニバルになる前触れ、ということなのだろうか。味覚の変化もまた、その前兆なのだろうか。両親の、というよりは人間の血を見て、それがキッカケになったのだろうか。


「あぁ、なんか思い出したらまた……」


 彼女はそういって、死体の方に向き直った。彼女のお腹がぐぅとなった。

 彼女は真っ赤に血塗られた右手を死体に伸ばした。


 もしかしなくても、また食べようとしてるのは明白だった。

 それだけは嫌だ。止めなければいけない。これ以上アイラに人外への道を歩んで欲しくなかった。


「アイラ! やめろ!」


 そういって俺はアイラの元へ向かい、肩を掴んでやめさせようとした。


「やめて! 邪魔しないで!」


 いつものアイラからは想像もつかないような、純粋で、綺麗な憤怒のみを込められた怒鳴り声でアイラはそういった。

 そして振り向きざまにあの右手で、悪魔の、ハンニバルの右手で、俺をぶん殴った。


「がはっ!」


 殴られた俺は、五メートル以上も飛んで、壁に叩きつけられた。

 ありえない。信じられない。アイラに、あのアイラのどこにそんな力がある。俺は鍛錬もしてるから筋肉もあるし、体重も女性に吹っ飛ばされるほど軽くない。

 だというのに、アイラはそんな俺を五メートル以上も吹っ飛ばした。

 俺はこの時初めて、ハンニバルの強さ、恐ろしさ、そして理不尽さを実感した。身を以て痛感した。


「ぐっ……」


 体が動かなかった。骨がいくらか折れているのかもしれない。痛みで、衝撃で、壁にもたれかかり、座ったまま動けなかった。

 もしかしたら、認めたくないが、俺がアイラに恐怖を覚えた、というのもあるかもしれない。


 動けない俺を放ったまま、アイラはかつての両親に食らいつく。やっとのことで餌にありついた猛獣のように、理性のない獣のようにーーアイラを襲ったグールのように。


「やめてくれ……頼む、やめてくれアイラ……」


 動けない俺はそう呟くしかできなかった。

 メンタルには自信がある俺でさえも、涙が溢れてきた。


「くそ! くそ!」


 いくら喚こうが、アイラは止まらない。意識にも引っかからない。


腹が膨れたのか、アイラが眠ってしまうまでそれは続いた。

俺はハンニバルアイラ両親を喰らうのを、見続け、見せられ続け、見せつけられ続けた。

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