第6話 兄妹に幸せなど訪れない
「んっ……」
窓から差し込む和やかな朝日に包まれ、私は目を覚ました。まだ意識がはっきりしない。夢と現実の狭間でふわふわ浮いているよう。
寝ぼけたまま目元をこすり、時計を見た。
「六時前……」
うん、いい時間。
お兄ちゃんはまだ起きていないのか、家の中は気持ちのいい静かさで包まれている。
休みの日に限らず、いつも私はお兄ちゃんより早く起きる。お兄ちゃんの朝ごはんを作るために早く起きていたのが習慣になったのだろうか。
今日の朝ごはんを作らないと。
そんなことを寝起きの頭で意識半分で考えながらベッドから降りて、洗面台に向かった。
朝方だからか、やけに冷たく感じる水で顔を洗う。ピリピリとした、寝起きの私にはちょうどいい刺激。今度こそ完全に覚醒した。視界もはっきりしている。
「……また、広がってる」
はっきりと、鏡に映った自分を見た。
そこにいたのは、鏡でよく見る紅の髪の少女ではなく、半分人間ではない化け物だった。お兄ちゃんがよく綺麗だと言ってくれる紅の髪も、変異が進むに連れてだんだん白く変色してきている。
ああ、どうして朝からこんな気分にならないといけないのだろう。
少し前まで、私は普通の女の子だったはずなのに。
藁にもすがる気持ちで、自分の顔の右半分に左手で触れた。
これは幻覚なんじゃないか。私が寝ぼけているから、ただの見間違いなんじゃないか。
そんな小さな希望にすがって。
だが触れた手に伝わった感触がすべてを否定する。
当たり前だ。もうこの確認も三回目なんだ。三日前ーーあの悪夢のような日の翌日ーーに初めて変異してから、毎朝やっている。縋って、祈ってーー裏切られる。
人間の皮膚ではありえない、水分なんてないと思うくらいに乾いていて、鉄でも触っているかのように錯覚するくらいに硬い感触だった。
そのまま頬、首、肩、腕と左手を滑らせていく。感触は何も変わらない。
毎朝自分を見るたびに感じる、私が私じゃなくなっていく感覚。それが日増しに強くなっている。耐えきれなくなって、ついついその場にへたり込んだ。
「……だめ、泣いちゃ。泣くなんて……絶対ダメ」
鼻の奥がツンとする。今にも溢れ出てきそうな涙をなんとか押しとどめようと、歯を食いしばった。
それでも、耐え切れなかった。
左の頬になにか液体が伝わる感覚がした。これが涙だと気づくのに、いや、認めるのに少しかかった。
右目からも流れているのだろうか。左手で触れた時もそうだったけど、このおぞましい皮膚は悲しいくらいに何も感じない。
コツコツと、だんだん大きくなっている足音が耳に入ってきた。
ああ、お兄ちゃんが起きてきたんだ。
やけに体が重く感じたが、洗面台を支えにどうにか立ち上がった。
袖で涙を拭って、両頬を軽く手のひらで叩いた。
「ダメ、こんなんじゃ。お兄ちゃんに心配かけちゃう」
自分に言い聞かせるように、冷えた心を温めるようにそう呟いた。
ガチャリと背後で音がした。足音と共にお兄ちゃんが入ってきたのがわかった。
お兄ちゃんの仕事は常に危険が伴う。お兄ちゃんは自分は強いから大丈夫って言ってるけど、それでも危険なのは変わらない。だからせめて家ではゆっくりしてほしい。安心してほしい。私はずっとそう思ってきた。
「おはよっ! お兄ちゃん!」
だから私は笑うんだ。私は大丈夫、心配なんてしなくていい。そのことを伝えたくて。
大丈夫。ちゃんと笑えてるはず。顔の作りが一部違うから少し違和感はあるけど。思った以上に動いてくれない、そんな感覚。
「ああ、おは……」
お兄ちゃんは何か言おうと口を開けたまま、私の顔を見て固まった。そしてそのまま顔を悲痛に歪める。
やめて、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんのそんな顔、見たくない。
変異の進んだ私を見て、罪悪感を感じてるの?
いっそのことそう聞いてしまいたかった。でもできない。街のみんなはお兄ちゃんは強いって言うけど、今のお兄ちゃんは赤ちゃんのようだった。とても弱々しくて、ちょっとしたことで傷ついてしまいそうで。壊れてしまいそうで。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「……いや、なんでもない。おはよう、アイラ」
また踏み込めなかった。こんな時だけ弱気な自分に、嫌気がさしそう。
「そっか。待っててね、すぐに朝ごはん作っちゃうから」
「ああ、ありがとな」
「いいよいいよ!」
そう言って私は、表情がまだ若干曇ったままだったお兄ちゃんの横を通り過ぎた。
ごめんねお兄ちゃん。私にはこれくらいしかできない。助けることも難しい。なんでもないように演じるしかできないの。
無力な私でごめんなさい。
そんなやり切れない思いを硬い皮膚の下に隠し、台所へと向かった。
今まで生きてきて急いでいた事は、もちろん何度もある。一分一秒が惜しい状況なんてとくに珍しい状況でもない。
でも、今ほど時間が進むのが恐ろしいと感じたことは絶対にない。
あの悪夢のような日から今日までは、そんなことをつくづく思わせる三日間だった。
結果から言うと、俺の小さな希望も叶うことなくアイラは蝕鬼病にかかった。あの時の右頬と右腕の傷の周りに純白のやけに凸凹した部分ができていた。触感は人間ではまずありえない、石のように固さだった。
「ふぅ……」
溜め込んでいたものを吐き出すように息が漏れた。思ったより長い時間集中していたのだろうか。固まってしまった体を肩を回したりほぐしながら、『蝕鬼病』と書かれた本を閉じた。
あの日から俺はこの街の図書館に入り浸っている。この街の図書館はすこし特殊なのだ。この街には、害獣の討伐の依頼がよく来る。すると自然とそれ方面の情報は多くなる。だからここは本の種類がかなり偏っている。
そんな図書館は蝕鬼病について調べるのにうってつけだった。
一旦集中が切れると、直ぐに戻すのは難しい。休憩するかと、何となく窓の外を見た。
もうすでに朱色に染まった空は、俺に一日の終わりを実感させる。
集中力が切れた途端に、図書館の淀んだ紙の匂いが鼻に入り込んできた。
「もうおかえりになさいますか?」
「うわっ!」
いきなり後ろから声をかけられ、思わず声が出てしまった。誰だと、その方向を見るとここで働いている人だろうか、若い女の人がクスクスと笑っていた。
「すいません。すごく集中していらっしゃってましたし、ひと段落ついたようですので声をかけてしまいました。驚かせてしまいましたか?」
「ああ、大丈夫ですよ」
愛嬌のある笑みを口元に浮かべそう言った彼女に、愛想笑いをしながらなんでもないように返した。
「もう直ぐ閉館ですから、それだけお願いします」
「そうですか。わざわざありがとうございます」
「……蝕鬼病ですか」
彼女は俺の持っている本を見て、そう呟いた。苦々しく顔をしかめながら。
大抵の人にとって、蝕鬼病は悪の病気であり、死の代名詞であり、畏怖の象徴であった。そう考えると彼女の反応はなんら不思議なことはない。
「まあ、すこし調べたいことがありまして。他にありますか? 蝕鬼病についての本は」
正直この本にはほとんどめぼしい情報はなかった。全て知っていることだけ。もしかしたらここで働いている人なら知っているかもしれない。そう思って俺は尋ねた。
「申し訳有りませんが、ないですね。蝕鬼病は情報が少ないんですよ。なにせ発病が発覚した人は直ぐに殺されてしまいますから」
「まあ、完全に変異してしまうと大変なことになりますからね」
なら、アイラはこのまま殺されるしか道はないのか?
あいつが何をしたって言うんだ?
そう言ってやりたいが、胸の内に隠す。
アイラが蝕鬼病にかかっていることが知られたら、それこそ殺されるしか道がないから。
結局今日も何の収穫もないまま、図書館を後にした。
三日間調べて、治療法も何も見つからない、わからない。
この三日間ただただ無意味に、ただただ無利益に過ごしてきたことに、自分自身に怒りを感じた。嫌悪感を感じた。そして何より、無力感を感じた。
何もしなかったわけじゃない。それでも、結果を何も出せていないなら何の意味もない。俺は頑張った、死力を尽くしただなんて、アイラが完全に変異してしまった時には何の慰めにもならない。
過程だなんて何でもいい。アイラの蝕鬼病を治す。そこまでいかずとも、せめて変異を止める、遅らせるくらいの結果を、俺は何よりも望んでいた。
帰り道、夕日が家への道を赤々と染めていた。
さながら、
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