第2話 妹は悲しいほどに悪魔だった

 外に出ると、もう先ほど見た夕焼けは沈みかかっていた。それに代わり立ち並んでいる家々の窓にぽぽぽと、揺れる明かりが灯されていく。家に近づくにつれ、周りがどんどん薄暗くなっていった。

 先ほどまでの夕陽に照らされた街並みとは一変。もはや、ちょっとした薄気味悪さすら感じる風景になっていた。


 今この町は、治安がいいとはお世辞にも言えない。そのせいか、暗くなると誰もが家に帰り、店も閉じてしまう。特にある時期になるとそれが顕著に現れる。

 7時くらいでほとんどすべての店が閉まって、誰も外を出歩いていないんだから、他の町の人からすれば異常なことなんだろう。でもなんだかんだこれも、数年続いたものだから、もうこの町の日常の一部となってしまっている。


 家までの道筋の中程まできたあたりになると、太陽は完全に顔を隠して、あたりに暗闇が充満していた。

 べつに暗いのが怖いなんて子供みたいなことを言うつもりはないけど、やはり幾つになっても暗闇の中では心細くなるものだ。それに加えて、家に一人でいる妹のことが心配で、自然と足の動きが速くなる。べつに妹は一人で家にいられないくらい幼いわけでもないが、事情が事情だからしょうがない。


 さっさと帰ろう。


 そう思い、最近舗装されたばかりで凹凸のない道を、何かに追われているような急ぎ足で帰って行った。




 我が家には、それほど時間がかからないうちに到着した。我が家は、周りの家々となんら変わらない、大した特徴のない家だ。強いて言うなら、他よりすこし小さいくらいだろうか。我が家のドアノブに手をかける。


「ただいま」


 今やたった一人の家族である妹に聞こえるよう、すこし声量を上げながらそう言って、家に入り、後手にドアを閉めた。


「はぁ……」


 その瞬間に、このまま寝ることもできそうなくらいの疲労と、脱力感が俺を襲った。

 べつに今日は大して気を張っていたつもりはないし、疲れるようなことをしたつもりはないけど、自然とため息が出る程度には疲れていたようだ。

 荷物をドアの近くにまとめて置き、リビングへと向かった。



「あ、おかえり、お兄ちゃん」

「ああ、ただいま、アイラ」


 リビングに行くと、ちょうど風呂につながる扉から、アイラが紅と白が混じった髪を拭きながら出てくるところだった。風呂に入っていたのだろう、頭や体から湯気を出し、半分の肌はまだ水気があってテラテラと赤く光っている。彼女の顔の片方の頬は赤みがかっていて、なんというか、色っぽく感じた。


「もう風呂に入ってたのか」

「うん。やることやっちゃったから、もう入っちゃおうって思って。お兄ちゃんは、お風呂とご飯、どっち先にする? もう出来てるよ?」

「そうだな……それじゃあーー」


 そこまでいったところで俺の腹が、ぐうと情けない声を出した。なんとなく恥ずかしくなって、顔を横にそらした。


「あはは。お兄ちゃんのお腹はご飯をご所望みたいだね。待ってて、温めてくるから」

「……ありがとう」


 アイラは、半分だけカラカラと笑うと、キッチンへとどこか楽しそうに歩いて行った。


 俺は食卓の椅子に腰をかけ、ふぅと一息ついた。疲れていたし、ここが家であることもあって、ずるずると椅子からずり落ちるような体勢になってしまう。なんとまあ情けない格好だろうか。

 そんな状態で、今日の夕飯はなんだろうだとか、たわいのないことを考えていた。


 家族における、今の役割に落ち着いたのはいつだっただろうか。あいつが料理や洗濯などの家事をこなし、俺は働いて金を稼ぐ。

俺たちは実の兄妹だが、なんだか夫婦みたいな関係だな、なんて脳内お花畑なことを考えたことも確かにあった。

 でも、こうなったきっかけはそんなピンク色なことではない。といってもそんなに大したことはない、親が子育てに積極的ではないなんてよくあることだ。

 この家の大きさからわかるように、両親はそんなに金を持っていない。だから金のかかる子育てには消極的だった。さすがに良心からなのか、幼少期はきちんとーーといっても必要最低限だがーー子育てはしていたが、ある程度まで行くとネグレクトに等しいところまで来た。そして、家にもほとんど帰ってこなくなった。

 俺たち二人で生きていくためにいろいろ考えた結果、こんな関係に行き着いたのだ。


 最初の頃はもう大変だった。

 アイラは慣れない家事に苦戦し、ミスばかり。皿なんて何枚割ったか、数え切れない。俺も衛兵なんてバカみたいにきつい職についたせいで、帰る頃には心身ともにボロボロだった。

 お互いにうまくいかなくて、ストレスがたまって、喧嘩ばかり。

 でもまあ、お互いに慣れ始めた頃にはもうそんなことは無くなったが。


 この生活が辛いものなのかと聞かれると、そういうわけではない。衛兵の仕事はたしかに辛かったが、やりがいがあるし、毎日充実していた。

 職場の同僚や友達、大切な家族もいて、幸せだった。


「今は……どうなんだろうな」


 そんな自嘲にも、自問にも聞こえる言葉が、自然と俺の口から漏れた。

 目の前のろうそくの火のように、俺の心がゆらゆら揺れる。

 ああ、どうやら俺は相当疲れているらしい。今なら何を考えてもネガティブな方向に行きそうだ。

 これじゃあだめだと、頭にコベリついたものを落とすように頭を振った。


「きゃあ!」


 突然聞こえてきたのは、アイラの叫び声だった。

 聞こえてきた瞬間、何か考える前に立ち上がっていた。

 アイラに何かあったのだろうか。怪我は? 状況は?

 そんなことがぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 所詮ここはただの家。そんなすぐに死ぬようなことはないと思うし、今のあいつならほとんど怪我を負うこともないだろう。

 そんなことはわかっているが、あの時のことを思い出すと、心配せずにはいられない。

 俺はアイラのいるキッチンへと駆け込んだ。


「大丈夫か!?」

「あ……お兄ちゃん」


 キッチンでは、アイラが足を横にずらし、ちょこんと座っていた。何が起こったかわからないという調子で、間の抜けた表情をしている。


「大丈夫か! 怪我は!?」


 怪我の有無を確かめようと、俺はアイラの体をくまなく調べようとした。


「だ、大丈夫だって! 鍋ひっくり返しちゃっただけだから!」


 ほら、とアイラはキッチンの方を指差した。そちらを見ると、なるほど、確かにその通りのようだ。床に転がっている鍋。ぶちまけられた夕飯であっただろうスープ。ついたままの火。

 なんの状況確認もしないで、妹のことしか考えられなくなっていたことに、今更ながらなんだか恥ずかしくなった。


「すまん。お前の悲鳴を聞いたら、なにも考えられなくなってな」

「もう、お兄ちゃんは過保護なんだから。だから、その……大丈夫だから。あと、近い……」


 そういってアイラは俺の体を両手で押し返した。

 アイラはモジモジとしながら顔をすこし伏せていて、その半分の顔は心なし、赤く感じる。

 なんだろうと思い、自分の行動を思い返してみる。

 ああ、確かにさっきみたいな体をまさぐるような行動は、妹とはいえ、年頃の女子にやることじゃなかった。


「ごめんな」


 俺はそういってアイラの頭を撫でてやった。何か大切なものを触るように、髪の流れを撫でるように。幼少期はよくやってやったんだが、最近はあまりやってなかったな、なんてことがふと頭に浮かんだ。


「だからそういうのだってぇ…」


 さらに染めながら、ボソボソとつぶやいた。そういうのとは、なんだろうか。


「鍋の中身、すこしかかったんじゃないか? 水で冷やしとけ。俺は何かふくもの持ってくるから」


 そういって俺はタオルでも取りに行こうと、キッチンを出た。

 出るときに一瞬、床にぶちまけられたものを見たが、せっかく作ってくれたのに食べられなかったと、すこし落ち込んだのは言わないでおこう。なんとなく、恥ずかしいから。

 床にぶちまけられた液体からは、白い湯気が立ち上っていた。つい先ほどまで火で温めていたんだ。暑くないわけがない。

 アイラからはそんな反応はないけど、心配させたくなくて我慢しているかもしれない。

 こいつ自身、心配をかけたくなくて一人で抱え込むのはよくあることだった。


 3分としないうちに、タオルを何枚か持ってキッチンに戻ると、アイラはいそいそと片付けをしていた。


「アイラ、まだ冷やしてないとだめじゃないか」

「大丈夫だよ」

「だめだ。跡ができたりしたらどうするんだ?」

「……大丈夫だって」


 アイラはいったん洗い物をやめ、こちらを向いた。そこには拒絶の表情というよりは、諦めや、自嘲の笑みを寂しげに浮かべていた。

 どうしたんだ。アイラはこんなに頑固だっただろうか。少なくとも、熱いものがかかったんだから、冷やすのは間違っていることじゃない。この年の女子にとって、自身の身なりが気になる年頃にとって、それは結構傷つくことじゃないのだろうか。なのになぜ拒否するのか、わからない。


「なんでーー」

「かかったのここだから……大丈夫」


 そういってアイラは右腕を軽く上げ、俺に見せてくる。

 ああなるほど、そういうことか。彼女の表情の意味が、よくわかった気がした。

 まったく、それなら大丈夫だ、なんて一瞬でも考えてしまった自分が、心底嫌になる。

 彼女がこんな風になってしまったことを肯定しているようで。良かったことと考えているようで。


「……んっ」

「そんな風に言うな」


 まったく、どの口が言っているんだか。

 自嘲気味にそう思いながら、俺はアイラの右腕を、宝石を磨いているかのように、丁寧に拭いてやる。


 怪物のような腕を、丁寧に、丁寧に拭いてやった。


 いや違うな。

 ようなではなく、もはや怪物そのものといっていいような腕。


 左腕のようなきめ細かい肌の腕はそこはない。ゴツゴツとして、刃なんて通りそうもないほど、硬い肌。指にはなんでも斬り裂けそうな、太い爪。どことなく、いつの日か討伐したリザードマンの腕を連想させた。

 そんな腕だというのに、雪のように白い。怪物そのもののような腕だというのに、不釣り合いなほどに、いっそのこと神々しささえ感じるほどに、白かった。


 すこし頭を上げると、アイラの顔が目に入った。

 アイラは、人間の顔である左半分だけ、申し訳なさそうな顔をしていた。右半分も同じく、もはや人間ではない。腕と同じ肌に、牙は狼よりも鋭く、眼は紅く、冷たく刺すように光っている。後頭部左上あたりに生えた、太く長い、グニャグニャと曲がった角が、やけに存在感を放っていた。



 いや、顔や腕どころじゃない。アイラの右半分はは、もはや彼女ではない。人間の、彼女ではない。2年前のあの日から、全ての始まりであり、終わりであるあの日から、彼女は変わってしまっていた。




「にしても珍しいな。お前がこんなミスするなんて。昔たくさん失敗したから、普段は結構気をつけてた覚えがあるけどーーほら、終わったぞ」

「ありがと、お兄ちゃん。まあ、そうなんだけどねー。その……うん。右手が、一瞬動かなくてさ。びっくりしちゃって」


 ーーきっと偶然だよね!


 そう言ってアイラは、なんでもないように笑みを顔に貼り付ける。でもそれは長年一緒にいた俺にはすぐわかる、バレたくないことを誤魔化すアイラの反応だった。

 ……まったく。アイラも分かってるだろうに。変な誤魔化しは俺たちの間では意味はないって。


 だから俺は、重たく息を吐いた。そんな俺の反応に、バレたのかとアイラはピクリと反応した。


「……今日、『食事』したか?」


 そう聞くと彼女は気まずげに視線を逸らした。もうそれだけでNOと言っているようなものだ。それを見て俺の中で、諦めとか、呆れとか、怒りとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになった。混じりに混じって、それは何か黒いものになり、それを吐き出すように深く嘆息した。


「まってろ」


 俺はそういって、普通の食材があるところとはべつの、家の奥にある特別な貯蔵庫へあるものを取りに向かった。

 後ろから「ごめんね……」と今にも潰れそうな声が聞こえてきたが、振り返ることも、何かを言うこともせずにキッチンから出た。 別に怒っていたわけじゃない。進んでやるのが簡単なことじゃないことは、俺自身というより、全人類がわかることだろう。それなのに謝る彼女に、なんと返事すればいいのかわからない。それを半ば強いているのは俺なのに、慰めるなんてする資格がない。

 だから俺は何も言わない。謝ることはあれど、慰めるなんて俺がすることではないから。




 「蝕鬼病」という病気がある。

 かなり珍しいが、誰もが認知している病気だ。


 曰く、最も恐ろしい病気。

 曰く、最も感染したくない病気。

 曰く、最も周囲に害をなす病気。

 そんな言われ方をする。


 蝕鬼病の症状はただ一つ。



 化け物になること。


 人間達が恐れる、モンスターになること。



 といっても感染者はそれほど、というよりほとんどいない。それほど少ない理由は感染経路にある。それはグールという魔物から傷を負うことだ。発症すると、傷口からだんだんハンニバルと呼ばれる怪物に変異していく。傷を負ったからといって、必ずしも発症するわけじゃない。正確な数字はわからないが、十パーセントもないらしい。


 そんな病に、アイラはかかっている。もはや体の半分が変異してしまうほど、進行してしまっている。

 本来なら、発症してから5日ほどで完全に変異する。でも彼女はそれ以上耐えている。その秘密は、『食事』にある。




「ほら」


 帰ってくると、アイラは先ほどと変わらない体勢のまま、俺を待っていた。帰ってきた俺を見て、きれいで、それでいて醜い顔に無機質な仮面をつけたのは気のせいじゃないだろう。

 俺はさっき取ってきた、紙に包まれたものをアイラに渡した。

 アイラは受け取って、ありがとう、と泣きそうに微笑んでみせた。


「じゃあ食べてくるね。……こっち見ないでよ?」

「……ああ、分かってる。片付けの残り、俺がやっとくから」

「うん、ありがと」


 じゃあ行ってくるねと、笑顔を左側に貼り付け、手を振って歩いて行った。

 といっても所詮は家の中。そこまで遠くには行けず、すこし行ったところで腰を下ろすような音が背後から聞こえた。


 『食事』中、アイラを見ないこと。


 それがあいつと俺の間の約束だ。

 だから俺はそれを守ってあいつに背を向ける。実際、あいつの『食事』姿を、俺はこの約束をしてから一度も見たことがない。でも 正直、この約束はありがたい。

 たぶん、耐えられないから。


 すこしすると、後ろからごそごそと何かを弄るような音がした。その合間合間に、どこか色気を含んだ、艶かしい息遣いが聞こえてくる。

 餌を前にした犬のようなーーいや、違うな。

 快楽に浸っているような、そんな息遣い。

 これも『食事』のとき特有のものだ。俺にはわからないが、彼女の『食事』には、かなりの快楽を伴うのかもしれない。


 俺はそれを無理やり無視しながら、片付けを進めていく。無関心を装って。


「それにしても……」


 なんという皮肉だろうか。なんて矛盾したことなのだろうか。


 まさか、人間を襲う怪物になるのを防ぐためにーー


「人間を食べないといけないなんてな……」


 すべてはあの日から全てが始まった。全てが、狂い始めた。


 俺はカチャカチャと皿同士がぶつかる音と、艶やかな妹の呼吸の音をバックに、2年前のことを思い出していた。

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