第9話 さすが飴と鞭を使い分けていらっしゃる

「あぁ、お前、家でのトレーニングさぼっていただろ?」

「さ、さぼっていませんよ……」

「じゃぁ、余計なもの食ってたな?」

「た、食べていませんって」

「ふざけんな。なんだこの体脂肪率」


 体重計に乗った私をギロリと睨む一条さん。

 目標を3ヶ月後に延ばし、彼曰く、かなりトレーニングのレベルを下げたとのことだったが、グータラな生活を送って来た私にとってはまだまだつらいもので、ジムだけではなく、寝る前の柔軟体操やら、朝の筋力トレーニングやら、事細かな指示に、1ヶ月も経つと正直げんなりしてきた。


『じゃぁ、俺が責任もって痩せさせてやるよ』

 そう言ってくれた彼の下で、健気に頑張ってきたのだが……。

 

 ただでさえ、ジムでのつらいトレーニング。家ではグッタリで、それ以上は動く気になれない。しかもたくさん動いたあとは、すごくお腹が空くのだ。少量の食事に加え、大好きな炭水化物と甘いものを制限されていた私は、もう我慢の限界がきていた。


「筋肉痛でつらくって……それに、友達にカフェに誘われて……たまにはご褒美に甘いもの食べた方がやる気になるかなって……」


 彼と目線を合わせないようにしながら弁解すると、チッと特大な舌打ちが降って来た。


「ふざけんな! だからお前はデブなん……。あ、悪い……」


 気まずそうに、横を向いた一条さん。

 へぇ。こないだ、デブとか豚って言われたら傷つくって言ったの、一応、気にはしてくれていたんだ。


 ふふふと思わず笑みが漏れてしまって、それが彼の気に障ったのだろう、

「おい、今すぐ携帯持ってこい」

 と、突然、彼が手を差し出した。


「な、何するんですか?」

「24時間、俺の監視下に置く」

「監視下??」

「そう。お前が俺の目の届かないところでも、言いつけをちゃんと守れるようにな。まずは、食事管理のアプリだ。食べたものは全部写真に撮ってアップしろ。カロリーを自動計算して知らせてくれるし、記録もしてくれる。それから、よけいな場所に行けないようにもしておかないとな……」


 ブツブツつぶやく一条さんに只ならぬ恐怖を感じて、思わず「自分でこれからは管理するので大丈夫です」と言ったら、鋭い瞳で睨まれた。


「いいから早く持ってこい! それが済んだら、今日も特別レッスンだからなっ」


◇◆◇


「いいんですか? いくら営業時間外とは言え、こんなにちょくちょくと、プールまで貸し切りで使わせてもらっちゃって」


 シンとしたプールの中で、それにしてもいい体しているななんて思いながら彼を見ると、一条さんは、

「俺の持ち物だ。俺がどう使おうと勝手だろ」

 と偉そうに言った。


「え? 一条さん、ここのオーナーさんなんですか?」

「あぁ。立花と共同経営だけどな」

「まさか、都内にある全ての店舗の?」

「悪い?」

「い、いえ。悪いなんて……」


 てっきりただのトレーナーさんかと思っていた。

 こんな有名クラブのオーナーだなんて。若いのにすごいな。

 あーあ、カッコよくて、スポーツマンで、料理もうまくて、かつ、実業家だなんて、ずるい。ひとつくらい、私にも分けてくれればいいのに。


「なんだ、その顔」

「いえ、別に……。世の中の不公平さを身に染みて感じていただけです」

「お前のは自業自得。努力が足らないだけだ」


 一条さんは冷たく言い放つと、ストップウォッチを持って、

「クロール50メートル、50秒で泳ぎ切らなかったらお仕置きだからな」

 と言った。


 出ました、一条ルール。

 うーん。水泳のタイムなんて図ったことないけど、それってどれくらいのスピードなんだろうか。


「私、泳ぎはそれほど苦手でもないですけど、しばらくやってなくて。それって、どれくらいのタイムなんですか?」

「うちのスイミングスクールに通っている10歳の平均値だ。余裕だろ?」


 ふぅん。10歳ならいけるかな。っていうか、スイミングスクールまで経営しているんだ。このクラブは大人しか会員がいないはずだから、きっと別の施設も持っているのだろう。やり手なんだな。


「なに、ボケっとしてんだよ。さっさとしろ。家でサボっていた分取り戻すからな」


 一条さんに睨まれて、私はすごすごと水の中に入った。


 久々だなぁ、泳ぐの。

 小学校の頃、どんどん太っていく私を見かねた親の勧めで、スイミングスクールに入ったことがある。私は太っていたけど、結構タイムはよかった。だけど、ある日、同じスクールの男の子に、トドが泳いでいるってからかわれて、それで行かなくなってしまった。


 今思い出しても、胸の痛む思い出だ。あのまま続けていたら、もっとスレンダーになって、違う人生を送れていたかもしれない、なんて。


 昔のせつない記憶に浸りながらも、私は全力で50メートルを泳ぎ切り、ゼイハァ言いながら一条さんの下に戻ると、ストップウォッチに目を落とした彼は、一瞬だけ無言で私の顔を見てから、ニヤッと笑った。


「残念だったな」

「えー!」

「さて、どんなお仕置きにしようか」


 楽しげに瞳を細めて、「まずは水着脱げ」などと、取りあえず的な感じで無理難題を押し付ける。


「あ、あのぉ。まぁ、大体これまでの流れで、そう言われるだろうなと思ってはいましたけれど、よくよく考えると、どう考えてもおかしいですよね。しかも今日は水着だから、脱いだら裸だし」

「大丈夫だよ。誰もいねーし」

「いえ、あなたがいます」


 もちろんのことながら首を振る。そんな私に、一条さんはチラリと意味ありげに視線を向けた。


「ふぅん。脱ぎたくないんだ?」

「当たり前です」

「じゃぁ、仕方ない。代わりに、10キロクロールな」

「じゅ、10キロですか??」


 無理無理と首を振ったけど、「脱いで泳ぐなら1キロでいいよ」と訳の分からぬ妥協案を出してくる一条さん。


「意味が分からないんですけど」

「どうせ、10キロ泳ぎ切らなきゃ脱ぐことになんだから、最初から脱いで泳いだら?」

「ちょっ、ちょっと」


 どう考えても道理の通らない話だと思うのだが、一条さんが当たり前のように私の水着に手をかけてきたものだから、私は慌てて彼の腕を抑えた。

 その時、視界に入ってきた彼の胸元にあるストップウォッチ。

 ん?


「あぁ! 一条さん! 50秒切っているじゃないですか!」


『48秒35』と数字を残すストップウォッチに唖然。なのに、一条さんは肩をすくめて、

「あぁ、それね。今日は虐めたい気分だったんだよ」

 とこともなげに言った。


「なっ、なんですかそれ!」

「いいだろ。ドMのお前には少し厳しいくらいが」

「ド……ドMなんかじゃありません!」

「ドMだよ、お前は」

「ちっ違います! 私だって優しくされたいです!」


 そう言うと、彼は「ふぅん。優しくねぇ……」とつぶやいて、何やら考えるそぶりをした。


「分かったよ。じゃぁ、ご褒美やろうか」


 なんだか流し目に私を見てきて、ニヤリと笑う。

 黒髪が濡れていて、やけにセクシー。

 無駄のない引き締まった体なのに、ほどよく胸板は厚くて、細マッチョ認定だし。

 水も滴るいい男とはこのことだな。

 なんて思いながら見とれていたら、突然、彼が私をその胸に引き寄せた。


「ひゃっ!」


 驚く私の反応を楽しそうに眺めながら、もう片方の手を私の背に回してギュッと抱きしめる。


「やめっ」


 お互い水着だから、彼の体温がじかに伝わってきて、私は悲鳴のような声を上げた。


 けれど、動揺して逃げ出そうとした私に対し、

「花……」

 と一条さんは突然私の名前を呼んだ。


 その切なげな声に驚いて固まる。

 その上、じっと見つめてくるから……。


 あぁ、間近で見る漆黒の瞳は本当に綺麗だ。クラクラする。


「花……」


 もう一度、甘く私の名前を囁いた一条さんは、視線を合わせたまま、ゆっくりと顔を近づけて来た。


 え、え、え??


「いっ一条さん?!」


 からかわれているのかと思って、思わず、彼の名前を呼んだけれど、一条さんは一度、まつ毛が付きそうなくらい間近で動きを止め、私のことを見つめてから、瞳を閉じてそっと唇を重ねた。


 えーーーー???


 ドクドクと激しく心臓が波打っている。何が起きているのか理解すらできず、私は目の前にある美しい顔を見つめた。

 あまりに驚きすぎて、目を見開いたまま、立っていることしかできない。


「そんなに見られたら食われそうで恐いんだけど。目、閉じろよ」


 唇を離した彼が、首を傾げて私の顔を覗き込んだ。


「え、あ、はい……」


 動揺しすぎて、訳が分からず、言われるまま目をつむってしまった。

 再び、柔らかな唇が私に触れて……。


 あれあれあれ……なんで、キスしているんだろう、私。

 というか、一条さんはなんで私にキスしているの……。

 ご褒美なんて言って、恋愛経験値の少ない私をからかっているだけ?

 それとも彼に振られた私への同情?


 ようやく停止していた思考回路が動き出して、私は思わず彼から飛びのいた。


「なんだよ」

「だ、だ、だって!」

「何、もっと激しいやつがいい?」


 そう言って再び顔を近づけてきた一条さんの胸を、私は慌てて押しやった。


「やっ、やめてくださいっ!」

「なんだよ。まだ、あの元カレに未練タラタラなわけ?」

「そ、そういうことじゃ……」

「つべこべ言わず、お前も存分に楽しめよ。どうせ、今頃、あの男は他の女とイチャついているんだろ?」


 一条さんは言い聞かせるように言って、私のことを見た。


「あんな男、さっさと忘れちまえ」

「よ、余計なお世話です!」

「っていうか、俺が忘れさせてやる」


 私の言葉を遮るように、彼は怒った顔をしてそう言うと、力任せに私を引き寄せ、再び唇を重ねた。

 そのキスは、とても強引だったけど、あまりに優しくて。


 そう、きっと、渚君は麗奈さんと楽しい時を過ごしているのだろう。

 もう忘れなくちゃいけないんだ……。

 私は、渚君の顔を頭の中から追い出して、ただ一条さんに身をゆだねた。


 ご褒美にふさわしく、彼のキスは蕩けるように甘い。

 一条さんは私の唇をついばむように、何度も唇を重ねた。

 私は、まるで自分が彼の恋人として愛されているような錯覚をしながら、甘くて優しいキスにのめり込んでいく。


 すると、

「そういう顔すんなよ」

 と唇を離した一条さんがつぶやいた。


 よほど私はうっとりとしていたのだろう。


「す、すみません……」


 一気に現実に引き戻されて、耳まで熱くなりながら慌ててうつむいた私に、

「なんで謝んの? 可愛いって言ったんだよ」

 と一条さんが言った。


 うわっ。

 い、いただきました。一条さんから、もう二度と出てこないと思っていた『可愛い』をいただきました。

 あぁ、やばい。リップサービスだとしても、もったいないお言葉。


「あの……今日の一条さん、優しいですね」


 そう言ったら、彼は「ドMの花子も、たまには優しくされたいんだろ?」と言って笑った。その笑顔の素敵なことったら。もう拝みたくなるくらい。

 いやぁ、甘々モードの一条さんは無敵だな。


「たまにと言わず、ずっと、そんな感じでお願いできませんか? 私、褒められると伸びるタイプなんで」


 だけど、言った途端、

「調子に乗るな」

 とプールに突き落とされた。


 あぁ、本当に飴と鞭を使い分けていらっしゃる……。

 彼にマインドコントロールされていくのを感じながら、私は水の中に沈んで行ったのだった。

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