第8話 そのご褒美はとろけるほどに甘い

 風邪も治って、久々にジムへ行ったら、

「今日は、この辺で終わりにするか」

 と一条さんが珍しく優しい。


「もう、いいんですか? いつもの半分しかトレーニングしていませんよ?」

「病み上がりだからな。今日はあまり無理するな」


 おぉ。今日の一条さん、稀に見る甘々モードだ。

 風邪ひいてみるもんだな。


 そこへ、「花ちゃん久しぶり」と、立花さんがやってきた。


「こんにちは、立花さん」

「風邪だったんだってね。花ちゃんがいない間、侑が寂しそうだったよ」

「はぁ? 何、事実無根なこと言ってんだよ」


 失礼極まりないといった顔をして、一条さんが立花さんを睨み付ける。私なら硬直してしまいそうな鋭い睨みなのに、立花さんはものともせずニコリと笑った。


「花ちゃんが風邪だと分かって、慌ててジムから飛び出して行ったくせに」

「それは! 単に、トレーナーとしての責任感からだ!」

「はい、はい」


 のらりくらりと返す立花さん。一条さんは舌打ちすると、「俺はもうあがるからな」と言って、不機嫌な顔のまま立ち去ってしまった。


「立花さんってすごいですね。あんな風に、一条さんとやり合えるなんて」

「あぁ、学生時代からの長い付き合いだからね」

「へぇ、だからか。あの一条さんを手玉に取るなんて、すごすぎます!」

「花ちゃんこそ」


 彼はそう言って、クスリと笑った。


「え?」

「この数日、あいつ、ジムに来ても退屈そうでさ。今日、花ちゃんが顔見せた途端、すごく嬉しそうな顔していたから、笑っちゃったよ」

「えぇ? それは多分、退屈しのぎのオモチャがようやく戻ってきたって感じだったのだと思いますよ」


 そう返したら、立花さんは、「どうかな」と微笑んだ。


 いやマジで。私を虐めて楽しんでいるとしか思えない。この数週間で身に沁みて分かった。

 一条さんは、ドSだ。


◇◆◇


 今日は、一条さんが早く解放してくれたので、9時前にはフィットネスクラブを後にした。

 そんな時に限ってと言うか、そんな時だったからこそと言うか……。


 入り口から出た途端、

「え、ぷに子、もしかしてここ通ってんの?」

 と渚君が驚いた顔をして私を見ていた。


 隣には彼と腕を組んだ麗奈姫もいる。

 あぁ、いやだ。なんで、よりにもよって、こんな場所で二人に会うの。

 恥ずかしくて、私は言葉もなくうつむいた。


「ぷに子って、何その呼び方……」


 その上、笑いを堪えた顔で、麗奈姫に言われて、私ったらもう痛すぎる。


「いいだろ。ぷに子はぷに子なんだから」

「元カノのこと、いつまで愛称で呼んでいるのよ」

「別に……元カノじゃないから」


 渚君がため息をつくように言った。

 うっ。なにそれ。

 どうやら、私は元カノの位置にさえ立てないらしい。

 そう、そんなに私みたいのが元カノじゃ嫌ですか。


 彼女だったという事実まで否定されて、悲しくて悔しくて、涙が出てきそうになった時、

「花。お待たせ」

 と、後ろから声をかけられた。


 えっえぇ? 一条さん?!

 初めてちゃんと名前を呼ばれたものだから、驚いて硬直してしまった。


「会社の人?」


 渚君より頭一つ分背の高い一条さんが、見下ろすように彼を見た。

 渚君が気分を害した様子で眉を顰める。麗奈姫は一条さんにぽおっと見とれている。

 さすが。スーパーイケメンのパワーはすごい。


「あ、えっと……。会社の……同僚で……」

「そう。じゃぁ、行こうか」


 一条さんは彼らに軽くお辞儀をすると、私の手を取って歩き出した。

 あぁ、彼氏の振りをしてくれたんだ。

 どうしようもなく惨めな私に、手を差し伸べてくれたんだ。


「ありがとうございます。一条さん」


 彼らの姿が見えないところまできて、私がお礼を言うと、

「どういたしまして、ぷに子」

 と言って一条さんはニヤッと笑った。


「そっその名前で呼ばないでください!」

「何、ぷに子って。ぷにぷにだから?」


 ほっぺを軽くつねられて、カァっと顔が熱くなる。


「や、やめてください、ってば……」

「いいね。その反応。押し倒したくなるな」

「一条さん!」

「顔に触れられたくらいで何恥ずかしがってんだよ。すでに、体の隅々まで触られているだろ?」


 囁くように言うから、彼にご褒美を与えられた情景がよみがえって、体が熱くなった。


「今、エロイ想像しただろ?」

「エロイ想像なんてしていません!」


 大声で叫んでしまった私を、周囲の人が怪訝な顔で一瞥する。私はきっと顔から火が出ているだろう。


「あぁ、お前からかうと、ほんとおもしれー」


 ケラケラ笑いながら、先を行く一条さんは楽しそうだ。

 まったく。先ほどの感謝の気持ちを返してほしい。


「なぁ、お前どうせこの後、暇だろ? 俺と付き合え」


 突然、そんなことを言って、彼が振り返った。


「え……暇じゃありません。決めつけないでください」

「何、予定でもあるの?」

「予定というか……家に帰って、洗濯とか、撮り溜めたドラマ見たりとか……」

「それを暇っていうんだよ。いいから、付き合え」


 一条さんは強引に私の手を引いて歩き出した。


「どこ行くんですか?」

「デートだよ、デート。俺たち恋人だろ?」


 もう、そういうのやめてほしい。

 冗談だと分かっていても、ドキッとしてしまう。

 一条さんは自分のイケメンパワーを知っていて、やっているのか。それとも、気付かずやっているのか。いずれにしても、いい迷惑だ。


 彼に連れられて来た場所は、ジムの近くにある公園で、そこには大きなクリスマスツリーが輝いていた。


「今日、点灯式だったんだよ」


 あぁ、そっか……。

 きっと渚君たちもこれを見に来たんだ。


 なぜ、こんなところで彼らと会ってしまったのかその理由が分かってしまって涙が出そうになった。


「お前、あの隣にいたほっそい女と張り合ってんだ?」


 クリスマスツリーを見上げたまま、突然、一条さんが聞いた。


「は、張り合っているって言うか……」

「バカだな……」


 ため息交じりに言うから、悔しくて私はうつむいた。


「どうせ、身の程知らずですよ」

「違うよ。お前にはお前のいいとこがあんだろ。なんで、あの女と一緒にならなくちゃいけないんだよ」

「一条さんには、分からないと思います」


 怒られるかなって思ったけど、何か口にしないと涙が出そうだったから、私は思ったことをそのまま口にした。


「カッコよくて、スタイルもよくて、いつも自信満々の一条さんに、私の気持ちなんて分からないと思います」

「なんだよ……それ」


 彼は怒ることはせず、どちらかというと、傷ついたような顔をして、私を見た。


「私、自分に自信がなくて、恋愛なんて絶対私には縁がないって思っていて、なのにそんな私を彼は可愛いって言ってくれたんです。その彼が私とは正反対の女性を選んだ。そんな私の気持ちなんて、一条さんには分からないでしょ?」


 堪え切れなくなって零れ落ちた私の涙を、一条さんは親指で拭って、ため息をついた。


「痩せたら、自信が持てるのか?」


 コクンと無言のまま頷くと、彼は再びため息をついて、「バカだな……」とつぶやいた。


 その言葉はバカにした感じじゃなく、憐れんでいる感じでもなく、優しい響きを持っており、彼は私をまっすぐに見つめると、

「じゃぁ、俺が責任もって痩せさせてやるよ」

 と静かに言った。


「一条さん、今日はすごく甘々モードですね」

「じゃぁ、ついでにご褒美やろうか?」


 急に、甘い声で囁いた一条さん。ドキリとした私に、彼はイケメン度マックスな顔で微笑む。


「風邪が治ったら、ご褒美をあげる約束だっただろ?」


 そう言うや否や突然私を引き寄せた彼は、その胸にすっぽりと包み込んだ。


「ちょっ、ちょっと一条さん!」

「お前は可愛いよ」


 慌てる私の耳に入ってきた、思いもよらない言葉。


「えっ……」

「あの女より、お前の方がずっと可愛い」


 そのご褒美は、あまりに凄すぎて、私の脳はショートした。

 それは単なる慰めの言葉かもしれないけれど、だけどたくましい彼の胸の中で私の心はとても満たされたのだった。

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