第5話 チェンジしてください
翌日、ジムに来た私は昨日の一連の出来事を思い返して、熱くなる頬に、バフッとタオルで顔を覆った。
あれはちょっとやりすぎじゃないだろうか……。
どんな顔して、次、一条さんに会えばいいのか。
い、いや、あれは単なる運動後のマッサージだ。意識しすぎている私がおかしい。
そう自分に言い聞かせたけれど、
『これからは、俺の課題をクリアするごとに、ご褒美やるよ』
と一条さんの低くて甘い響きを持った声を思い出して、体が熱くなって……。
「うわぁっ! やめてぇ!」
「何一人で騒いでいる」
「いっ一条さん!」
思いっきり驚き挙動不審になった私だったけれど、一条さんは特段変わった様子も見せず、「さっさと始めるぞ」と歩き出した。
「あ、は、はい……」
なんだか、ひとり意識していた自分が恥ずかしい。
今もなお、彼に触れられた感触が生々しく体に残っていたのに。
「ちゃんと朝も筋トレしてんだろうな?」
「ひゃぁっ!」
突然、二の腕を掴まれて私は大きな声を上げてしまった。
「なんだよ」
「す、すみません!」
慌てて横を向いた私に、一条さんがふっと笑った。
「ちゃんと、今日も頑張ったらご褒美やるから、心配すんな」
「しっ心配なんてしていません!」
「そう?」
一条さんは楽しげに笑って、私の腕を解放する。
「食事制限もちゃんと守っているか?」
「は、はい……」
食べることが何よりも好きな私にとって、一条さんの立てた食事制限付きの献立はすごくつらい。だって、大好きな炭水化物を禁止されているんだもの! 炊き立てのご飯も、焼きたてのパンも、熱々の麺類も全部ダメ。
食事のたびにへこたれそうになるが、私は麗奈姫の姿を思い出して、我慢した。
こんな調子で、1週間も経つと、徐々にその成果は数値に表れて来た。
「おぉ。2kgも痩せている!」
「喜ぶな。体脂肪率は大して減っていない。ホントは、こんなに急激に減らすと、体が元に戻ろうとするから、逆効果なんだけどな」
1ヶ月で痩せさせろと言った私に、彼はまだ不満を持っているようだ。
小さくため息をつかれたけれど、私は少しとはいえ痩せたことが嬉しくて、それには気付かない振りをした。
それから数日後――
「はぁ? 休むだって? お前、毎日来るって俺と契約したよな?!」
形の良い眉を上げて、上から見下ろす一条さんの迫力ったら……。
「ご、ごめんなさい! 年末で忘年会がたくさんあって。全部、断っていたんですよ! でもその会ばかりは、私が幹事だし、一緒に幹事している同期も当てにならないし、さすがに行かないと迷惑かかっちゃうので……」
「へぇ、忘年会な。糖質たっぷりのアルコールに、脂質と炭水化物だらけの飯を、そのデブな体にさらに詰め込む気か?」
そんな言い方しなくたって……。
「ちゃんと、節制はします。お酒も飲まないし、おつまみも、サラダとお漬物以外は食べません。それでいいですか?」
「その日のトレーニングはどうすんだよ」
あくまで不満顔の一条さん。
「でも……」
なんで私はお客なのに、部活をサボろうとしている生徒みたいに追い詰められなくてはいけないんだろう。と、そんなことを思いながら私は黙り込んだ。
「1日くらい、休ませてやったら?」
そこへ、見知らぬ男の人の声が割って入ってきた。
振り返れば、優しげな顔立ちの男性が立っているではないか。ジムのトレーナーさんが着る黒いポロシャツには『立花』と刺繍が施されている。
あぁ、確か、水泳のトレーナーさんだったかな。スパの中で、有閑マダム達が彼のことを素敵だと騒いでいたっけ。
「1ヶ月で痩せさせろってふざけたことをいう奴が、1日休んでどうする」
「彼女と1日会えないのがそんなに寂しい?」
「はぁ?」
からかう様な立花さんに、一条さんは不機嫌な顔をして、腕を組んだ。
「誰がだ。デキの悪いこいつに、遅くまで付き合わないで済んで、せいせいする」
「じゃぁ、いいよね。1日くらい」
ニコリと笑った立花さんと、そんな彼に舌打ちした一条さん。
おぉ。あの一条さんを言い負かした。
一条さんは、「勝手にしろ」と言い残して、スタッフルームに入って行ってしまった。
「あ、ありがとうございます。立花さん」
「どういたしまして。いつも遅くまで大変だね」
スポーツマンらしく短くそろえられた髪に爽やかな笑顔。
うん、うん。
私もこんな人が専任トレーナーだったらよかったのにな。
あぁ、厳しめのイケメンなんて言うんじゃなかった。立花さんの優しそうな顔を見つめながら、私は心底そう思った。
◇◆◇
「ふざけんな、なんで体重戻ってんだよ! お前、約束破ったな!?」
お休みした翌日、恒例の体重&体脂肪測定で、一条さんの怒りが爆発した。
「だ、だって、お酒注がれると、飲まないわけにはいかないし……」
「断れよ」
「そんなこと言ったって、付き合いってものがあるじゃないですか」
「風邪で薬飲んでいるからとでも言って、ウーロン茶を注いでもらったらいいだろ。まさか、飯まで食ったわけじゃないだろうな?」
ギロリと睨まれて、私の目は分かりやすいほどに泳いだのだろう。一条さんが、チッと舌打ちをした。
「で、でも、取り皿に取り分けてもらっちゃったのを食べないのも失礼かなって」
「何食った?」
「えぇっと、サラダとぉ、ざる豆腐とぉ……あと、梅キュウリだったかなぁ」
「隠さず全部言え」
「焼き鳥と、唐揚げと、ピザと、焼きそばと、あははっ、もう毒を食らわば皿まで、みたいな。酔っ払ったら、理性も吹き飛びますしね!」
開き直って笑ったら、一条さんは黙り込んで、私を見据えた。
「そうか、お前はその豚人生で満足するか」
ぶっ豚……!
その言葉には腹が立ったけど、一条さんが微笑みを浮かべているから、恐ろしさに言葉を失った。
「い、いえ、そういう訳では……」
「じゃぁ、行こうか、花子」
聞いたこともないような優しい口調で、ニコリと笑う。
「い、行くって、どこにですか?」
「言っただろ? 俺の言うことに従わなかったらペナルティだって。いい子にしていたらご褒美をやったのに」
整った顔で天使のように微笑む一条さん。目だけ凍り付いている。
ひぃ、恐いよぉ……。
恐怖に慄き、後ずさりした私の手を引いて、彼は受付へと向かった。
「上のトレーニングルーム空いているか?」
一条さんは受付のスタッフさんに聞いた。
「はい。1時間後に予約が入っていますが」
「あぁ、いい。1時間使うから、誰も入れるなよ」
彼はそう言うと私の手を引いたまま、『private』と書かれたドアの奥へ入って行った。しばらく進むと、エレベーターがあって、上の階へと私を誘導した。
「ここは、VIPが使うプライベートルームだ。お前みたいな一般人が入れる場所じゃないが、特別に入れてやる」
「じゃぁ、いいですよ。入らなくて」
「はぁっ?!」
自分で言ったくせに、ギロリと私を睨み付けた一条さんは、腕を引っ張るようにしてプライベートルームに入って行った。
プライベートと言うくらいだから、ひとりないし少人数で使うのだろうその空間は、だけど、私がいつも使っているトレーニングスタジオと変わらないくらいの広さがあって、充分な設備が整っていた。
そうか、お金持ちは、こうしてトレーニングまで優雅にやるのだな。
「ほら、ボケっとしてねーで、脱げよ」
「は?」
「ペナルティだって言っただろ」
当たり前のように言う一条さんに、私は思考停止。
「何、俺に脱がせてほしいの?」
呆然とする私のTシャツに手をかけた彼は、無理矢理それをはぎ取った。
「ひゃぁっ! や、やめてください!」
「この1週間の努力を無駄にしやがって。たるんだ体と精神を叩き直してやる」
「ご、ごめんなさいぃぃ」
結局、彼の手により再びスポーツブラとボクサーパンツにされた私は鏡に映る自分の無様な姿にはぁとため息をついた。
「ほら、トレーニング始めるぞ」
「は、恥ずかしいですよぅ」
「安心しろ。すでに、お前の体は確認済みだ。隅々までな」
ニヤっと笑われて、全身の血液が逆流した。
「セクハラで訴えます」
そう言ったら、「契約、結んだよな。俺と」と、きっと法的にはそんな契約何の効力も持たないはずなのに、一条さんは上から無言で私を見下ろした。
その圧力の凄まじさったら。
「ほら、まずは足から鍛えるぞ。ここ座れ」
しぶしぶ私は言われたマシンに腰を下ろした。
「50回な。クリアできなきゃ、分かっているな?」
意地悪な笑みを見せる一条さんに、私は必至に頑張った。きっと、クリアできなかったら脱げとか言いだすに決まっている。
そんなこんなで、いつものトレーニングよりきつい課題を、あっという間に達成したから、これはこれで、促進効果があるのかもしれない。
いや、なんか違う……。
◇◆◇
プライベートルームでのトレーニングを終え、身も心もグッタリとしながら、帰り支度を終えた私は、大きくため息をついた。
こんなことなら厳しめのイケメンなんて頼まなけりゃよかった。
どう考えたって、イケメンによる恩恵よりも、精神的かつ身体的苦痛の方が勝る。
私は帰る途中、受付で、
「あの……トレーナーのチェンジってできないんですか?」
と聞いてみた。
「チェンジ……ですか?」
「はい。今のトレーナーは、ちょっと相性が悪いっていうか、なんていうか……」
「えっと……あいているトレーナーでしたら可能ですが」
「え? そうなの?! じゃ、じゃぁ、立花さんは?!」
嬉々として身を乗り出した私の肩に誰かの腕が乗せられた。
「何の相談だ? 花子」
「いっ一条さん!」
「へぇ、トレーナーの交代をご希望か? あぁ、残念だったなぁ、今、あいているトレーナーはいないんだよ、そうだったよな?」
鋭い目で見られた受付の女性は、「そ、そうでした……」と言って、私から目を逸らした。
絶対、嘘だぁ!
「た、立花さんじゃなくてもいいから、誰でもいいので!」
「何が気に入らないんだよ。この俺がお前なんかのために、きめ細かなケアをしてやってんのに。一生デブのままでいる気か?」
「それ、それが嫌なんです! デブとか、豚とか。私だって傷つくんです。そんな風に言われたら!」
もう開き直って、不満の声をぶちまけると、一条さんはちっと舌打ちして、横を向いた。
あぁ、その態度。ホントムカつく。
私はお客様なんですからね!
「悪かったよ」
はいはい、どうせ、出来の悪い私がいけない……え?!
彼が口にした言葉の意味を頭が理解できず混乱する。
「い、今、謝りました?」
一条さんは、気まずそうに横を向いたまま、「傷つけて、悪かった」と再び言った。
ひぃっ。思わず飛び上がってしまいましたよ。
謝った。この傲慢チキチキが、自分の非を認めた!
「ちゃんと、明日も来いよ」
彼は私と目を合わさないまま、そう言い残して、去って行った。
結局、私のトレーナーは一条さんのまま続行することとなった。
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