第4話 一条ルールにはお仕置きとご褒美がついているらしい

 マリリンか……。

 私は会社のトイレから出た後、鏡に映った自分の姿を見てみた。


 いや、ないだろ。絶対にない。


 はぁと、漏れるため息。


 でも、麗奈姫より勝っていることがあるとすれば、胸のカップくらいだもんなぁ。贅肉だけど。

 渚君、おっぱい星人だったから、胸は大きいままの方がいいことは確かだ。

 そんなことを考えていたら、彼との思い出が否応なくぶり返してきた。


 秋も深まり、紅葉を見ようと、ちょっと遠出して山に登った時のこと――


「ねぇ、こっち凄いよ」

「そんなとこ、入って大丈夫なの?」


 ハイキングコースを越えて、山の奥に進んでいく渚君にハラハラしていると、「大丈夫だからおいで」と彼が手招きした。


 色付いた木々の中を進み、赤や黄色に染まった落ち葉の絨毯を踏みしめながら、彼に手を引かれて奥へと入って行く。すると、登山客の賑わいも薄れ、静かでとても美しい空間が広がった。


「すごく、綺麗……」


 風が吹くたび落ち葉がハラハラと舞い落ちてきて、なんだか別世界に来たみたいだ。

 一際ひときわ大きな銀杏の木に寄りかかって、お互いに空から降る落ち葉を眺めていたら、

「二人きりだね」

 と渚君が囁いた。


 彼が寄りかかっていた木から体を起こして、私の顔を覗き込んだので、ちょっと照れたりなんかして。


「ぷに子、髪にイチョウの葉がくっついてる」


 ニコって可愛く笑った渚君が、私の髪についた葉っぱを取った後、そのまま唇を重ねた。


 あぁ、幸せだな……。


 こんな風に、恋人とデートして、美しい自然の中でキスするなんてこと、自分が経験できるとは思ってもみなかった。

 うっとり、彼のキスに酔いしれていたら、渚君は私の胸に手を伸ばした。


 お、おっと……。


 ここは、キスシーンだけでいいんじゃないの?

 美しい情景に穢れない思い出だけを残したくて、そっと彼の手を退けると、唇を離した渚君が上目遣いに私を見た。


 うっ。その瞳には屈しないぞ。


「そういうことは、お家帰ってからにしよ。今日は純粋な気持ちで秋の景色を楽しむの」

「じゃぁ、触らないから、ぷに子、服全部脱いで」

「え?」


 じゃぁの意味が全然分からないんですけれど。


「芸術だよ、ぷに子。落ち葉の絨毯に生まれたままの姿で降り立つ恋人って素敵でしょ?」

「いや、いや、いや。渚君、それはどうかと……」

「大丈夫だよ。こんな奥まで人は来ないから」


 そう言う問題じゃないから……。

 ニコニコと私が脱ぐのを待っている渚君に、大きなため息をついた。


「そんな可愛い顔してもダメです。私の体なんて醜過ぎて芸術にはなりません」

「何言っているの! ぷに子の体は究極の美なのに!」


 渚君は怒ったように言うと、私のセーターに手をかけた。


「やっ、渚君!」

「ダメ。ほら見てよ。この透き通るくらい白くてきめ細やかな肌も、柔らかくて弾力のある胸も、うっとりする。果物みたいなお尻も、ムチムチすべすべの太腿も、最高だよ」

「渚……くん」


 そんなこと言ってくれるの、渚君だけだよ……。

 彼の甘い囁き声と、体中を這いまわる大きな手に、段々頭がボーっとなって来た。


「僕に、ぷに子の最高の体を見せて」


 催眠術にかかったかの如く、言われるままセーターを脱ごうとしたその時、

「こっちに穴場があるんだって。すげー景色がきれいだってネットに載ってた」

 という若い男の人の声が聞こえてきて、はっとして振り返れば、大学生風のカップルがこちらに向かって歩いてくるところだった。


 慌ててセーターをずりおろす。


 あ、危なかった……。渚君に褒められたのが嬉しくて、そのまま流されるところだった。

 褒められ慣れしていないからな。ダメな私……。


「あーあ、せっかく、究極の芸術が完成するところだったのに」


 心底残念そうに舌打ちする渚君には苦笑いだったけど。

 だけど、彼は事あるごとに、こんな私を褒めてくれた。


「ぷに子のマシュマロおっぱい最高!」


 よくそう言って、私の胸に顔をうずめたっけ。


「あぁ、すごい。この感触、堪らない」


そんな子供みたいな彼がかわいくて、かわいくて……。


渚君……。あなただけだよ、こんな私を素敵だと言ってくれたのは……。


いつの間にか、渚君のことをまた思い出していた自分にため息が漏れた。


もういい加減忘れなくちゃ……。


そう思った矢先のこと――


 トイレから自席に戻ろうと入り口に近づいたところで、なんだかフロアがいつにもましてワイワイと賑わっていることに気が付いた。

 なんだろうと中を窺ったら、目に飛び込んで来たのは完璧な笑顔を浮かべる麗奈姫。

 彼女の周りだけ、キラキラとオーラが輝いていて、そんな姫を男子社員が鼻の下を伸ばして取り囲んでいるではないか。


「社内のマドンナも営業部のエースに持っていかれたらしいじゃないか」


 我が人事部の部長がそう言って残念そうに首を振った。

 うっ。営業部のエースって、きっと、渚君のことだ……。


「二人揃って身上異動届が上がってくる日も近いんじゃないのか?」

「山崎部長、そういうこと言うと、セクハラで訴えられちゃいますよ」


 メッと姫から大きな瞳で睨まれて、山崎部長の顔がデレデレに崩れる。


 ふっふざけんなぁ。身上異動届だと? 同じ住所への住所変更届に結婚届か? そんなもん、絶対、承認してやらない。難癖つけて、絶対絶対、差し戻ししてやる!


 メラメラと嫉妬の炎を燃やす私の前で、手前に座っていた女子社員が私に気付くことなくヒソヒソと話し始めた。


「けど、渚さんにはがっかりだよね」

「ホント。花ちゃんと付き合い始めたって聞いた時には、ちゃんと内面を見る人なんだって、株急上昇だったのにね」

「結局、見た目かよ、みたいな……」


 ぐはっ。痛い……私って、痛すぎる……。

 花形の営業部エースと、秘書課の麗しき姫の公認カップル誕生の裏で、みんなに同情されている私。

 いたたまれなくなって、自席に戻ることも出来ず、こっそり来た道を戻ろうとしたところで、

「山田。入口を塞ぐなよ。デカいケツが邪魔で入れねーだろ」

 と大きな声で話しかけられた。


 あぅ。

 一斉にみんなが入り口を振り返り、その場の空気が凍った。


「あれぇ? なんすか、みんな? あぁ、今カノの前に元カノ登場で修羅場と化すみたいな?」


 目の前のチャラ男こと、間宮慶介はケラケラと笑って、凍り付く部屋をものともせず入っていった。


 すっ少しは空気読め! バカ。だからお前は嫌いなんだ!


 同期で一緒に人事部配属となった間宮君。

 おしゃべりで、お調子者で、目立ちがり屋の最も苦手なタイプ。

 絶対彼は花形の営業部か企画部に配属希望を出すだろうと思っていたのに、なぜか人事部へ希望を出した。

 理由を聞いたら、「採用担当になったら、毎年、女子学生と知り合えるじゃん」って。


 まぁ、彼が採用担当になってから、うちの競争倍率は高くなったらしいけど。

 確かに、会社説明のプレゼンなんて、すごく上手だし、アルマーニのスーツをバシッと着こなした長身の彼は立っているだけで様になる。それだけ見ていれば、こんな先輩の下で働きたい! ってなるのもうなずけるけどね。

 だけど、本当に外見だけで、中身が薄い。

 頭の中は女の子だけなんだから。


 同じ人事部に配属されてから、女の子が絡まない仕事へのやる気のなさと、そのくせ要領よくなんでもこなす手際の良さには閉口した。

 しかも、口が上手くて、レディーファーストを信条とする彼は女の子に凄く優しいくせに、女子の枠から対象外とされている私への態度はひどいものだ。


「それじゃぁ、そろそろ、失礼しますね」


 若干、気まずそうに麗奈姫が切り出して、踵を返した。

 入り口で彼女とすれ違った時、そのスレンダーな体に、惚れ惚れとしましたよ。

 あぁ、彼女の前に立ったら、絶対、全身を隠せる自信がある。


「山田ぁ。そんなに睨み付けんなよ。どう考えたってお前の負け」


 間宮君がそう言って笑った。

 禿げろ。お前なんか、禿げてしまえぇぇっ!

 これから毎晩お前が禿げるよう、呪ってやる! 心の中でそう決意し、私は無言のまま自席へと戻っていった。


◇◆◇


「もっと、早くに痩せられるようにしてもらえませんか?」

「はぁ?」


 その日の帰り、ジムに寄った私は、一条さんに会うなり訴えた。


「せめて1ヶ月くらいで」

「ふざけんな。そんなに急に痩せたら、筋肉量が落ちるだけで、どうせすぐリバウンドするに決まっている」

「でも、今すぐに痩せたいんです!」


 食い下がった私を、一条さんはため息をついて見つめた。


「お前、なんで痩せたいの?」


 突然、真面目な顔をして彼はそう聞いた。


「べ、別にいいじゃないですか。なんでだって」

「どうせ、彼氏に振られて、見返してやるとかそんなところだろ」


 おぅっ。図星。

 黙り込んだ私に、彼は呆れた顔で肩をすくめた。


「くだらねーな」

「くっ、くだ……一条さんにはくだらなくたって、私には重要なことなんです!」


 思わず声を荒げると、彼は虫けらでも見るように、黙ったまま私を見た。

 バカな女だと無言で語られて、本当のところ自分でもそう思っているだけに、くぅと唇を噛みしめるしかない。


「だって……彼が選んだ女性が、すごくスタイル良くて……きれいで……私なんかと全然違くて……」


 言葉にしたら、涙が出て来た。


「……ほんと、くだらねぇな」


 一条さんはため息交じりにそうつぶやいた後、「じゃぁ、厳しくしごいてやるよ」と付け加えた。


「え?」

「早く痩せたいんだろ? なら特別レッスンしてやる」


 なんだか、挑むように見られて、私は思わず後ずさりした。


「自分で言い出したんだからな? 覚悟しておけよ」


 低く囁くような声が恐ろしい。彼をチラリと見上げると、黒髪から覗く鋭い瞳とぶつかった。

 う……。あぁ、私はまずいことを言ってしまったのではなかろうか。

 なんだか、悪い予感しかしない。


 それから、いつものトレーニングをこなし、「お疲れさまでした」とさりげなく帰ろうとした私を、案の定、「おい。何、勝手に帰ろうとしている」と一条さんが呼び止めた。


「で、でも……もう、こんな時間だし……」


 ただでさえ、今日は残業後に来たから、もうお店の営業時間を過ぎている。若干、途中から、スパに入りたかったのに、閉められちゃったかなと、そればかりが気になって、ソワソワしていた。


「特別レッスンだって言っただろ?」

「は、はい……」


 背の高い彼から見下ろされると、その圧迫感ったら半端ないのだ。

 結局、彼に従い、トレーナーやスタッフの方々まで帰っていく中で、私のトレーニングは続けられた。 


「はい、じゃぁ、今日の課題はランニングマシン」

「えー、今から走るんですか?」

「当たり前だろ。クソデブ。1ヶ月で痩せさせろなんて、ふざけたこと言いやがって」


 クソデブって……。そんなに直接的に言われたら、分かっていても傷つくんですけど……。

 非難の意味を込めて、じとっと彼を睨みつけたら、その瞳がすぅっと冷たさを帯びた。


「何だ、その顔。優しくしてりゃ、つけあがりやがって。早くやれよ。課題クリアできないごとに、服一枚脱いでもらうからな」

「えぇ?」


 驚く私を彼は無理矢理ランニングマシンに乗せると、ピピッと何やら設定をして、スタートボタンを押した。最初はゆっくりだったマシンは徐々にスピードを上げて、容赦なく私を追い詰める。


 私はこの世で走ることが一番嫌いだ。なんでこんなしんどいことを自ら楽しむ人たちがいるのだろうと不思議でならない。

 ゼイゼイ言いながら、「い、一条さん、はぁっ、はぁっ、も、もう少し、ゆっくりに……」そう頼んだけれど、彼は楽しそうに首を振った。


「ちゃんと走れよ。これからもっときつくなるぞ」

「む、無理!」


 私は足がもつれそうになって、とりあえず、一旦、ランニングマシンを降りた。


「はぁっ、はぁっ、一条……さん……少しは、はぁっ、人にあわせた、プランを……」

「甘えんな。自分で早く痩せさせてくれと頼んだんだろうが。言ったことには責任を持て」

「う……」

「さぁて、ペナルティだな」


 ニヤッと笑った一条さんは、「ほら、それ脱ぐ」と、私のTシャツをまくり上げた。


「えぇぇっぇ?!」


 私は慌てて、裾を押さえながら、

「や、やめてください!」

 と叫んだ。


 このジムから推奨されたスポーツブラと、ボクサータイプのショーツは、スタイルがよい人が来ていると様になる。けれど、私が着ると、肉がむちっとはみ出て、なんとも情けない姿なのだ。


 ただでさえ、醜い自分に対するコンプレックスの塊なのに、ボンレスハムみたいな姿をさらしてトレーニングなんてとても耐えられない。


 だけど、一条さんはそんな私にはお構いなしに、Tシャツを握った手に力をこめると「出来の悪い子には、お仕置きが必要だろ」と言ってニヤリと笑った。


「お、お仕置きって、これはどうなんでしょう?」

「ここでは俺のルールに従え」


 有無を言わさず一条さんはTシャツをたくしあげて、嫌がる私からはぎ取ってしまった。

 こうして私はムチムチの腕とはみ出たお腹をさらすはめに。


「ほら、走れよ」


 再びランニングマシンに乗せられて、私はひたすら走る。

 窓ガラスに映るスポーツブラで走る私のはみ出たお肉が揺れていて恥ずかしい。

 一条さんが、何も言わずその様子を無表情に見ているのが、さらに羞恥心を高める。

 けれど、そんなことも考えていられなくなった。

 ランニングマシンの傾斜が高くなって、突然、きつくなったのだ。


「だ、だめ……一条さん、はぁはぁ、もう無理……」


 足がガクガクして、私はランニングマシンから転げるように飛び降りた。


「何勝手に、降りてんだよ! ふざけんな」


 一条さんは、鋭い瞳で私を睨み付けた後、「ほら」と言って手を差し出した。


「な、なんですか?」

「ズボンにする? ブラにする?」

「ぬ、脱ぐんですか?」

「約束だろ?」


 そんな約束してないのに、一条さんは早くしろと言わんばかりに、目を細めた。

 うぅ、胸を晒すのは論外だし、かといって、ボクサーパンツになるのも恥ずかしい。

 悩んだ末、靴下を脱ごうとしたら、「靴と靴下は走る際に必要だからダメだ」と言われて、結局、もたもたしているうちに、無理矢理ズボンを下ろされた。

 スポーツブラとボクサーパンツだけになった何とも情けない姿の自分に恥ずかしすぎてうつむく。この羞恥プレーは一体なんなんでしょう。


「ほら、さっさと、走れ。ゴールにたどり着くまで終わらねーぞ」


 容赦なく課題をつきつける一条さん。

 何だか、酸欠でよく考えられていないけど、これって、常識を逸脱していません?


「何、休んでんだよ。さっさとしろ」


 けれど、ギロリと三白眼のきつい目で睨まれたものだから、私はひぃと、ランニングマシンに飛び乗った。

 再び、途中から傾斜がきつくなって。辛い、辛過ぎる。


「も、もう無理……」

「へぇ、俺の前に、胸晒したいの? それとも、ここを丸出しにする?」


 ペシッとお尻を叩かれて、私は首をブンブン振った。

 きっと、一条さんならやる。絶対やる。この人に、常識は通用しないのだ。

 さすがに、裸でランニングマシンは無理と、私は必死に走った。走って走って、汗だくになって。

 そしてようやくゴールに達して、ゆっくりとなったランニングマシンに、私は半分崩れ落ちて床に這いつくばった。

 あぁ、恐るべし、一条ルール。


「やればできるじゃん」


 満足そうにうなずく一条さんを、私はゼイハァ言いながら、見上げた。


「あのぅ……これって、セクハラじゃありません?」

「課題クリアできたのは誰のお陰?」

「ひっ」


 冷徹に凍り付いた瞳を見た私は、

「一条さんのお陰です!」

 と反射的に言ってしまった。弱すぎる、私……。


「じゃぁ、もう帰ってもいいですか?」

「ちょっと待て、こっちこい。今日は頑張ったから、ご褒美をやる」


 一条さんは、わたしの手を取って、ヨガなどを行うスタジオの方に連れて行った。

 そこにマットを敷いて、私をうつぶせに寝かせる。

 そして、なんと突然、私の上に馬なりになった。


「ちょ、ちょっと、一条さん!」


 驚く私に、

「いいから、黙ってろ」

 と言って、その手を首から肩にかけてすうっと撫でるように動かした。

 え、え、え?

 しばらくして、それがマッサージなのだということに気付いた。


「今日はずいぶん酷使したから、そのままにしたら、筋肉が強張って、明日動けなくなるぞ」


 そう言って、体を揉みほぐしてくれる。

 すごく気持ちいいけど、下着姿なだけに、なんだかエロイ。


 そのまま彼は、私の腕と背中をマッサージして、徐々に体をお尻へと移動していった。


「えぇ!? も、もういいです!」

「いちいちうるさい、お前」


 うるさいって、うら若き乙女にとって、ごく普通の反応じゃないでしょうか。

 だけど、鏡越しに見る彼の瞳があまりに恐過ぎて、私は黙り込んだ。


「ん……ふぅ」


 おもむろにお尻をマッサージされて、思わず変な声が漏れてしまって、「何お前、感じてるの」と一条さんの呆れた声が落ちて来た。


「ち、違います! くすぐったいだけです!」

「マッサージされて気持ち良くなっちゃったんだろ?」

「ち……ちが……」


 もう恥ずかしくて、彼の顔を見られずマットに顔を埋めると、一条さんはなんだかふっと笑って私の頭を優しく撫でた。


「こうしよう。罰だけじゃかわいそうだから、これからは、俺の課題をクリアするごとに、ご褒美やるよ」


 偉そうに言う一条さんが憎たらしくて、文句を言おうと思ったのに、耳元に口を寄せて「頑張れよ」と甘い声で囁いたりするものだから、私は動揺してうなずいてしまうのだった。

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