前編ーおねがい

「みんなごめんなさい!またせ・・・て・・・・」

あたしが鉄の扉を開け屋上に着いたとき、そこに

みんなの姿は、なかった。

ただねずみ色の地面が、どこまでも広がっていて、

そこを、まぶしい程に輝いた夕焼けが、鮮やかなオレンジ色に

染めていた。

あたしはゆっくり歩いて、屋上の中央に向かっていく。

パタッ、パタッ、パタッと、上履きを鳴らして・・・・・。

あたしはぼんやりと、前を眺めた。

屋上の端には、生徒が落ちないように柵がかかってある。

それは周りの景色に不釣り合いな、絵の具みたいなドぎつい

茶色に塗られていて、異様な存在感を放っている。

そしてそのさらに先には、燃えるようなオレンジと、雄大なアオとが

混ざりあった、うっとりするほど美しい空がどこまでも

続いていて、思わず見とれてしまう。

あたしは、はぁ・・・・と、ため息をついた。

職員室から借りてきた、ビニールの被せられた新しいモップを、

ギュッと、握りしめた。

「今日も・・・・失敗、しちゃった・・・・・」

小さく、あたしは呟いた。

空に浮かんだ夕日が、あたしを照らし出し、スポットライトが

あてられているようになった。

「あたしはなにか、まちがったこと、したんでしょうか?」

俯きながら、誰かに尋ねる。

今のあたしの目に映る世界は、こんなにきれいなものじゃない。

でもそれは、最初からではなかった。

少なくとも、あたしがこの学校にきたその日は。

お父さんは心配性で、

「大丈夫?ちゃんと、みんなに自己紹介できる?」

転校するたびに、学校に向かうときそうやって、いつも声を

かけてくる。

お父さんのお仕事の関係で、あたしたちは何日か経つと

すぐに引っ越して、しばらくすると、また引っ越す。

だからあたしは、ひとつの学校に半年以上いたことはない。

おかげで友達ができてもすぐに離れ離れになって、

次の学校で友達ができても、結局また・・・・・お別れ。

それを、ずっと繰り返している。

でもあたしは、一度もお父さんに文句を言ったことはない。

ひとりの無力な小学生が怒鳴ったところで、

大人のジジョウは、覆らない。

とっくの昔に、そう割り切ってしまっていた。

そのうちあたしは、友達づくりをやめた。

どうせできたところで、すぐにさよならしちゃうから。

それでもやっぱり、転校初日は毎回緊張してしまう。

通学路を歩くときにすれ違う、同じ学校の男子や女子。

あたしよりも長く着て、ヨレヨレになった紺の上着。

それをみると、あたしがひとり、ひどく浮いているように

感じて、身体がこわばってしまう。

あたしが今通っている『導凪小学校』は私服で、

今回はそうならなかった。

今ここで目を閉じるだけで、あの日の光景が、おぼろげに

思い出される。

みんなとは遅れて学校に着くと、門の前に、ひとりの女のセンセが立っていた。

あたしが門の前に到着すると、

「森宮、真奈果さん?」

センセはそう話しかけてきた。

あたしは、は、はい・・・・と小さく返事をする。すると、

「初めまして。あなたのクラスの担任の、波川敦子です」

波川センセは微笑みお辞儀をして、挨拶した。

いままでこんな風に校門の前で待ち構えて、挨拶されたこと

なんて無かったから、あたしはどうしたらいいか分からず、

「よ、よおひくおねがいひまふ!」

「顔真っ赤にして、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

その言葉に、あたしはさらに顔を真っ赤にして、とうとう俯いてしまった。

目の前の黒いアスファルトの上で、小さなアリがきちんと隊列を整えて

行進していく。

「じゃあ行きましょうか。ついてきて」

センセは踵を返し、廊下を歩いて行く。

あたしは言われるままに、センセの背中を追っていった。

「もうみんな集まってるから、森宮さんは入って自己紹介してね」

センセが歩きながら、優しい声で言ってきた。

あたしは何も答えず、俯きながらセンセの後ろを歩いていったけど、

それもなんだか失礼に感じて、あたしは前を見上げセンセの背中を

見ながら、

「わ、わかりました・・・・・」

センセは何も言わずに歩き続けた。


あぁ・・・・あれは、多分聞こえてなかったんだな・・・・・。


その時のあたしは、歩くセンセを背後から観察したりした。

すらっとした足。頭の後ろでお団子に束ねた、茶髪の混じった艶やかな髪。

整った歩き姿だけで、彼女の性格の良さが、垣間見える。

あたしとは、ぜんぶが正反対だ。

背も低く猫背じゃない。歩き方も、オドオドしていない。

そう思うと、自分がひどく惨めな存在に思えて、あたしはまた、俯いて歩いた。

運動場のライトの方から、何羽かの雀の鳴き声が聞こえてきた。

すると急に、ドンっとなにかにぶつかり、あたしは豪快に尻餅をついた。

一体なにが起こったのか分からず、そのまま顔を上げると、

センセが教室の扉の前に立ち、ビックリした顔であたしを見下ろしていた。

あたしは立ち上がり、

「ご、ごめんなさい!」

訳もわからずに、あたしはただ謝った。なんか、そうしなきゃいけない気がして。

するとセンセはかがんで、あたしの背中やお尻をはたきながら、

「よかった、どこも怪我しなくて。改めまして、ようこそ、

導凪小学校へ。あたしたちの、学び舎へ」

と、あたしに手を差し伸べてきた。

その瞬間、さっきから、いや、この学校で上手くやっていけるのか・・・・、

みんなとはちゃんと、馴染めるのだろうか。

この学校についてからずっと感じていたそんな不安が全て、

この学校にちゃんと通いたい。クラスのみんなとたくさんお喋りしたり

遊んだり、勉強を教えあったりしたいと・・・・・、

そんな願望へと、変わっていった。

ここならまた、友達が、いっぱい出来るかもしれない。

そう・・・・・・希望が持てた。

とてもドキドキしてたけど、それがすごく、気持ちよかった。

「じゃあ今から先生と一緒に教室に入るけど、大丈夫?

緊張してない?」

「ハイ!大丈夫です!」

センセはクスッと笑うと、『四年※組』と書かれた

ベージュのプレートの入った教室の、黄土色の扉の

取っ手に手を掛けた。

ガタッ・・・・ガタガタッ!と、きしみ声をあげながら、木製の扉が開いてゆく。

その瞬間、扉の隙間から日の光が差し込み、あたしは眩しさの

あまり・・・・目を閉じた。


再び目を開けると、また、殺風景な屋上の景色が広がっていた。

ここで、回想は、終わり。

あたしは向きを変えると、そのまま屋上の入口へと向かって行った。

パタッ、パタッ、パタッと、上履きを鳴らして・・・・・。

たどり着くと、あたしはくるりと回れ右をして、そのまま屋上の

入口の扉にもたれた。

冷ややかな鉄の冷たさが、背中を伝って全身に流れる。

あたしは俯き、はぁ・・・・とまた、ため息をついた。

教室の扉を開けて入ってからのことは、よく覚えていない。

なんて言って自己紹介したのか、それに対し、

みんなはどんな反応をしたのか。

それはとても緊張していたせいか、はたまた憶えていても、

それを思い出すのを、あたし自信が拒絶しているからかは、わからない。

でもその日見た景色は、なんとなく憶えている。

廊下を挟んで見える砂が張った運動場。

休み時間、センセに連れられ紹介された小さくてかわいい中庭の池。

目に映るそれら全て、みんなキラキラしてた。

それは単に、照らす太陽のせいかもしれない。

転校初日で浮かれていた、あたしのココロのせいかもしれない。

だけどそれで十分だった。

でもいま、あたしの目の前に広がる世界は、ぜんぶ同じ色をしている。

あたしは足元を見つめて思った。

この地面のように、くすんだ灰色。薄黒いコンクリートの色。

そこに、日の光は射さない。

そして今のあたし自信も、こんな色をしている。

もうあたしは、あの日みたいに、学校生活に喜びが、

希望が持てない。

毎日決まった時間に起きて、決まった時間に学校に着いて、

夕方になるまで勉強して、掃除をして・・・・・・・、その繰り返し。

その間繰り返される、あたしに対する、耐え難い虐めの数々。

そしてそれから逃れるために、あたしは毎日、

クラスの『だれかさん』に媚びへつらう毎日。

もうあたしは、何のために学校に来るのか分からなくなっていた。

そして分からなくなればなるほど、虐めはどんどん過激なものに

なっていった。

次第にあたしは、これは神様が、あたしに天罰を下したんだと

考えるようになった。

だって小学生が、学校に来るのは当然で、それがあたしたちの義務だから。

「やっぱりあたし・・・いけないこと・・・したのかな・・・」

ぽつりと、あたしは呟いた。

心の中で声が反響する。『いけないこと』を強調して。」


「なにがいけないことなのぉ?」


突然の声にビックリして上を見上げると、ひとりの女の子が

不思議そうにキョトンとしながら、屋根の上から

あたしをのぞき込んでいて・・・・あたしの丸い背中が、屋上の扉とぶつかった。

すると逆さまになった女の子の顔は、ヒュンッと、屋根の上に

引っ込んでいった。

あたしは束になったモップを抱えたまま、大慌てで屋根の上を確認しに走った。

見上げるとそこには、先ほどあたしをのぞき込んでいた女の子が、

両足を屋根から投げ出し、ぶらぶらさせながらあたしを見下ろしていた。

あたしはその光景に、困惑した。


さっきまでここに・・・・・女の子なんて・・・・いたっけ・・・?


いたとしたら、何時からいたのか。あたしがここに来る前か。

それとも後か。いや、それはあり得ない。

だってこの屋上の入口は、あたしの目の前にあるこの、

赤く錆びた扉だけ。他に出入り口はない。

それにこの扉は、開くときも閉まるときも、毎回ひどいきしみ声を

あげる。

後から入ってきたなら、あたしは必ずそれに気づく。

仮に彼女が堂々と入口から入ってきて、あたしが気づかないと

しよう・・・・・・・そんなこと、あり得ない。

もし本当にそうなら、彼女は扉を使わずに中に入り、夕陽を

眺めるあたしの前を横切り、梯子を上って屋根にたどり着いた。

物音を・・・・・一切立てずに。


そんなの・・・・・・不可能だ・・・・・。


でも彼女は、恐ろしいほど、自然とそこにいる。

彼女がニコッとあたしに微笑んだ。

背中に、ゾクッと悪寒が走るのを感じた。

両足はぷるぷる震えて、今すぐにここから逃げ出そうと抵抗している。

でも、できない。


・・・・・コワイ・・・・・コワイ・・・・コワイ・・・・!


そう思えば思うほど、あたしのカラダは、ココロは、その場に

縛りつけられていく。

女の子は相変わらず、ニコニコ笑いながらあたしを見下ろしている。

まるで恐怖にこわばるあたしを見て、楽しんでいるみたいに。

あたしは彼女の思うまま、存分にビクビクしている。

すると突然、女の子は笑うのをやめた。

無意識のうち、足に力が入り、あたしは背中をさらに丸めてこわばった。

彼女は能面みたいに無表情になってジッと、あたしの両眼をみている。

彼女がこれから何をするのか予想がつかない。

だから、ものすごく・・・・・コワイ。

あたしたちは硬直し、あたりを沈黙が包み込んだ。


・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・


女の子の指先がピクッと動くのが見えた。そして・・・・
















「にふぁ~~~~・・・・・」









一瞬なにがおこったのか分からず、あたしはエッ?と

声をあげた。

女の子は人差し指を口に突っ込み、ほっぺを引っ張って、

目を細めて笑っている。

「ぷッ・・・・んふふふ・・・・」

その恰好が面白くて、思わず吹いてしまった。

「ああーわらったなぁ」

あたしは必死に笑いをこらえながら、

「だって・・・・おかしいんだもん・・・・!」

「ひとの笑顔を笑うなんて、ヒツレイしちゃうなぁ!」

ほっぺたふくらまして言うから、もっとおかしくなって、

それでもやっぱり失礼に感じたから、あたしはゴメンゴメンと、

笑いながら、謝った。

「だけどよかったぁ!笑えるってわかって」

「ええっ、どうゆう・・・・」

「だってさっきからずぅーと落ち込んでそうにしてたから」

彼女の言葉に一瞬ドキッとした。

「そ、そう、かな・・・・?」

「うんうん。なんていうか、心がね、ドロォ~~って

泥んこで汚れちゃった感じッ」


・・・・・なに・・・・・それ・・・・・?


「でも笑うってことは、そんなことないってことだよね!」

「・・・・・・・ねぇ」

「んん、なになにぃ⁉」

「あ、あたしって・・・・汚れているように、見えるの?」

「・・・・・・・」

「ど、どうか・・・・・」

「ねぇ、どーして泣いてるのぉ?」

「ええ⁉泣いてなんか・・・・・・・・・・」

すると頬を、ツーーと、生暖かい雫が伝って・・・・・ポタンと

コンクリートに落ちていった。


あたし・・・・・いま・・・・泣いてる・・・・・・・。


「あ、あれぇ⁉なんでだろう・・・・・」

その途端、両目からポロポロ涙が出てきて、気づけばあたしは、

ボロボロ泣いていた。

「あれッ、あれ、あれ・・・・・」

あたしは抱えたモップを手放し、手のひらで必死に涙を拭った。

ガランガタンッ、ガシャンと、モップたちがうるさく音をあげて、

あたしの足元に転がっていった。

それでもお構いなしに、あたしは、涙を拭い続ける。

だけど涙は止まらずに、それどころかどんどん溢れてきて・・・・。

次第に足の力は抜けてきて、あたしはその場にへタレこんで

しまった。


なんで?・・・・・・なんであたし、泣いてるの?

泣いてないのに、泣いてるって言われたから?

この子に、あたしの心は泥みたいに汚れているって、

ひどいこと言われたから?

それともそれが、当たっているから・・・・・?

わかんないよ・・・・わかんないよぉ!


頭の上で、コツンと、靴音が聞こえた。

顔をあげると、女の子は日の射す屋根から、ひんやりとした

屋根へと降りてきていた。

彼女の纏う赤と黒の、ドレスのような洋服のスカートが、風でひらりと揺れ動く。

そして靴をコツッ、コツッ、コツッと鳴らしながら、あたしに近づいてくる。

彼女の背後は彼女が歩くほど、ユラユラと影が覆っていった。

雲がついてきている・・・・・。でも、何かが違う。

“彼女”が“雲“を連れてきている・・・・・そう感じた。

「や・・・・いや・・・・・」

あたしはズルズルお尻を鳴らして後ずさった。

彼女は無視して、足を速めて向かってきた。感情を持たない、人形みたいな顔で。

気づけばさっき消えたはずの“恐怖”は、いつの間にか戻ってきていた。

女の子はあたしに追いつくと、ストンッと、膝をついてしゃがんだ。

そんな彼女の無表情なカオを、あたしは拭っていた手をどけ、きちんと目をあけ、

黙って見つめている。

すると女の子は、ヒンヤリと冷たい両手であたしの顔を優しく支えて・・・・・、

流れる水面のようにゆったりとした動作で・・・・ピンク色の唇を、

あたしの、紫色の唇に押し当てた。

「うんんッ・・・・ん、んんッ・・・・・・!」

振りほどこうと、あたしは何度もカラダをくねらせたけど離れす、

彼女はあたしのヨダレを絡めとるように舌を動かし続けた。

彼女の柔らかな舌が、蛇や蛭みたいに、あたし口の中で

のたくり回った。

「「んぷはぁ・・・・・・」」

女の子は微笑むと、あたしに何か言ってきた。

でも・・・・・心臓がドキンドキンしすぎて、うまく耳に入ってこない。だから、

「ご、ごめん、なさ、い・・・・・もう一回、言って・・・・・」

「・・・・・・たでしょ・・・・・?」

「えっ・・・・・・?」

彼女は少々不機嫌そうな顔になった後、スッーと、息を吸いこんで、

「だぁかぁらぁ、これですっきりしたでしょ!」

「え?・・・・・はぁっ」

言われてみると、さっきまであんなに溢れてきていて、どうしようも

なかった涙はピタッと治まり、心は、ウソみたいにスッキリしている。

「すごい・・・・・」

「えへへぇ」

女の子が自慢げに笑った。そして、

「ボク得意なんだぁ」

「なにが・・・?」

「ひとの気持ちを食べるのがッ」

「あたしの、モヤモヤした気持ち、食べちゃったの?」

女の子は首を横に振り、

「ううん、まだおくちの中に残ってるぅ」

彼女は、めいいっぱい開けた口をあたしに見せ、中を

指さした。

「なにも・・・・・入ってないけど・・・・」

のぞき込んでも、口の中には何も入ってなかった。

ただ、透明なヨダレの塊が、紅色の舌の上でキラキラ

光っていた。

「ホントにぃ??」

「う、うん・・・・・・」

「そっか!」

女の子は、パチンと口を閉じた。

そしてさっき、あたしが見たヨダレの塊を、ゴックンと、音を

立てて飲み込んだ。

「あ、あの・・・・・・・・」

「ふんふん・・・・・・うん、ん?・・・・そぉなんだぁ」

女の子は目を閉じ、まるで誰かと会話するかのように、

口々になにか呟いている。

頭の上でゴォーーと爆音が轟、あたしは空を見上げた。

大きなジャンボ機が一機、白くて逞しい翔をめいいっぱい広げて、

オレンジ色の夕日に染まった空を切り裂くように、悠々と飛んでいる。


・・・ナ・・・・マナ・・・・・マナ・・・!


「えッ」

「なにしてるのぉ?」

「あっ、うん。飛行機が飛んでて・・・・・」

すると女の子もあたしと同じように、空を見上げた。

「・・・・・どこにも飛んでないよぉ」

「でもさっき、音が聞こえて・・・・・」

その時、あたしは初めて気づいた。

さっきから、何の“音“も聞こえてこない。

飛行機のエンジン音が聞こえてまだそんなに経っていないのに、

それどころか、野球部の練習する掛け声も、下の階でペチャクチャ

お喋りしながら下校する女子の話し声も、家路へと急ぐ、

カラスの鳴き声も・・・・・・。

「マナ、恐いのぉ?」

女の子の透き通った可愛らしい声が、目の前からする。

「な、なにが・・・・?」

「音のない世界」


知ってる・・・・・この子・・・・あたしが何考えてるか・・・知ってる・・・・。


「うッ、うんうん・・・・!」

「・・・・・・」

女の子は四つん這いになり、ジィーッと、あたしを見つめる。

奇麗に澄んだ茶色い瞳を、パチクリさせて。

「マナ・・・・・ウソついちゃ、だめ」

「う、ウソなんか・・・・・」

「だってボク知ってるよ。マナが音のない世界に、

毎日怯えているの。だからマナ、いつもはしゃいでる。

何も聞こえないから、必死に自分で“音”作ってる」


・・・・そんなこと・・・・・


「それにどーしてマナ、自分と言い争ってるの?」

「え、えっ?」

「だってマナはひとりだよ。だから、誰とも言い争えないよぉ」

その時あたしの心には、不思議と悲しみや怒りと言った、そんな事、こんな

至近距離で言われたら誰でも抱く感情は、不思議と湧き上がってこなかった。

普通なら、「おかしなこと言わないで!」って怒鳴り散らす。と・・・・思う。

でもあたしが抱いたのは・・・・・『恥』、だった。

目の前の、誰とも分からないひとりの少女の剣幕にたじろき、何も言い返せない

自分に対しての、『恥』。

言っている内容なんて、今のあたしの耳には、入って来なかった。

とにかくあたしは、あたしが恥ずかしかった。

何もできないあたし・・・・・。

やっても全部全部失敗するあたし・・・・・・。

それしかできない、あたし・・・・・。

「じゃあどうしたらいいの⁉あたし、どうしたら虐められずに済むの⁉」

気が付くと、あたしはまた泣いていた。今度はちゃんと、自分で気づけた。

女の子はクスッと笑った。まるで、あたしがそう叫ぶのを期待

していたみたいに。

彼女は、スクッと立ち上がり・・・・・

「ボクがやってあげる!」

「え・・・・・」

「ボクがマナのおねがい叶えてあげる!マナが一番望んでいる

結果を、ボクが作ってあげる。あっ、マナその時、ゼッタイ

ゼぇ~~タイここに来てね‼」

その時あたしはまた、恥ずかしさをおぼえた。だから、

「い・・・・いらない・・・・だって・・・・」

顔を上げるとそこにもう、女の子は立っていなかった。

辺りを見渡すと、彼女はトトンッ、トトンッと

軽やかにスキップしながら、入口の方へと向かっていく

のが見えた。

「待って・・・・・!」

あたしは立ち上がり、彼女を呼び止めた。

女の子がつま先を軸にして、クルンッと振り返る。

「んん~~なぁにぃ~??」

「えっ・・・・と・・・・あ・・・あた・・・・」


そんな余計なことしないで!あたしますます、

居場所なくなっちゃう・・・・・・‼


そう、叫びたかった。でも・・・・・できなかった。

「あっそぉだマナぁ~~」

「あえッ、なっ、なに・・・・?」

「さっきボクになにか聞こうとしてたでしょお。あれ何だったのぉ?」

「・・・・・・」

「ねぇマナぁ?」

「・・・・・・」

「マナったらぁ~~!」

「・・・・・まえ・・・・」

「ええっ、なぁにぃ~~??」

「・・・な、なまえ・・・・まだ、聞いてない・・・」


何聞いてるんだろ、あたし・・・・。他に言わなきゃいけないこと、

あるのに・・・・・。


見ると彼女は、自分の顔を指差して、

「・・・・・カゲ・・・・」

「えっ?」

あたしが上手く聞き取れないから、彼女は可愛らしく、顔を真っ赤に

膨らませて、

「ヒ、カ、ゲぇ!」

と、口を大きく開けて叫んだ。

『日影』。その時彼女は、あたしにそう名乗った。

その時はもう、とっくに涙は枯れていて、ふとピリッと、目の奥に

痛みを感じて、両方の眼をゴシゴシ擦った。

再び目を開けると、そこにもう、『日影』はいなかった。

あたしはその時、彼女を止められなかった悔しさと、

誰かとおしゃべりできた、嬉しさを・・・・・・、

すごく久しぶりに、感じていた。

****

少女がひとり、教室の、自分の席に座っている。

他に生徒はおらず、廊下にも、生徒はいない。

しかしそれによって、彼女の存在感が引き立っては、いなかった。

なぜって?・・・・少女は・・・・わたしは、隅っこの机に座っているから。

言うまでもなく、わたしは望まずしてこの位置についている。

席替え程、理不尽なイベントはない。

一定の周期で行われる、生徒の配置換え。

みんなはそれを、毎回楽しみにしている。

理由は・・・・・特にない。

ただワクワクするのだ。この無意味なイベントを。

少なくとも、わたしには無意味だ。

席が変わっても、隣の人と仲良くお喋りなんてしないし、

そもそも、わたしと仲良く接してくれる人なんて、このクラスには

・・・・・いない。

教室に取り付けられたスピーカーから、チャイムがキンキン

耳障りに鳴り響いた。

チャイム程、無意味なモノはない。

学校には様々なルールが存在し、わたし達生徒は、それに

則って学校生活を送る。

その中でも、鉄則とも言うべきルールが幾つかあり、その一つが、

『チャイムの時間をしっかり守ろう』だ。

わたしたちは、チャイムの鳴る時間で、学校での規則正しい生活を送る。

だが、それを守るのは、ごく一部の生徒だけだ。

授業開始のチャイムが鳴っても、頭の悪い生徒は教室に入らず、

他愛のない話に花を咲かせ、ペチャクチャしゃべっている。

それは先生が教室に到着するまで催され、留まることはない。

無論、彼ら彼女はその内先生に注意される運命にある。

だが彼ら彼女らは反省する素振りなど微塵も見せず、

「ごめんなさ~~い」とケラケラ笑いながら教室へと入ってくる。

わたしはそんな光景を、何百回と見てきた。

これでは、何のためにわざわざ時間を定めているのか、その

存在意義が時々、分からなくなる。

はぁ・・・・挙げ出したら、キリがない。

この『学校』という世界には、理不尽なモノ、無意味なモノで

溢れかえっている。

でも、この学校で最も価値の無いモノ・・・・・・・・、

それは・・・・・・・わたし・・・・・・・・。

何故なら、わたしは、この学校の連中から、『無価値』と

判定されたから。

毎日毎日繰り返される無意味そのものの学校生活の中、

わたしは、目立たない様に暮らしてきた。

授業や学校行事に積極的に参加せず、クラスの女子たちとも

まともに会話したこともない。

その結果、わたしはトーメイ人間になった。

誰からも相手にされない、もの静かなトーメイ人間。

でもわたしは、それで良かった。

他人とお喋りしたって、単に疲れるだけ。

やれあそこの駄菓子屋の飴は美味しいだとか、やれ最近の

アイドルはあそこがカワイイだとか、そんな話、

付き合うだけでもおっくうだ。

授業が終わったら、静かに本を読み、チャイムが鳴ると、

ランドセルから教科書ノートを取り出し、その授業が終わったら、

また本を読み、休み時間を過ごす。

そんな何もない空っぽな毎日でも、わたしには十分だった。

だけどそう簡単に、上手くは行かなかった。

その時、わたしはまだ、ホントの意味で知らなかったのだ。

クラスで孤立した生徒がどんな末路を辿るのか・・・・・。

それがどんなものかは勿論知っていた。知っていた、つもりだった。

だけどそれは自分とは決して当てはまらず、遠い世界だったから。

どうせドラマや漫画だけの出来事だと、心の底で割り切っていたから。

その立場を、まさか自分が享受するとは、夢にも思わなかった。

その日は、ある日突然始まった。

「紺野さんってさぁ、どーして誰とも話さず、いつも本ばかり読んでるの?」

わたしが何時ものように本を読んでいると、隣から黄色い声がしてきた。

横を見上げると、茶髪の混じったクセのある髪の毛をツインテールにまとめ、

わたしよりかは少し背の高い女子生徒が、やや吊り上がった二つの

瞳で、わたしを見下ろしていた。

胸に付いた名札には、『鈴沢美知佳』と書かれていた。

「あの・・・・・えと・・・・・」

普通の子なら、この時なんて返事すればいいのか分かるのかも

知れない。

だけどわたしは分からなかった。

だって、わたしは、『フツーの子』じゃ、無かったから。

「さっきからなぁ~に読んでるの?」

鈴沢美知佳はそう言って、わたしから読んでいる本をかすめ取った。

「あッ、ちょっと・・・・・!」

その本には、本屋が購入の際、サービスで着けてくれる花柄のブックカバー

がされており、彼女はそれを、眉をひそめてバッと剥がし、

埃まみれの床に投げ捨てた。

「なにこれ?ナ、ガ、レ、ボシノヤク、なんて読むの?」

わたしはおもむろに、ブックカバーを拾い上げ、

「りゅ、流星の約束・・・・・・」

と、小さな声で呟いた。

「ふぅ〜〜ん、そう読むんだ。どんな内容なの?」

「・・・・・・えっと、死んだ恋人にもう一度会いたい少女が、

流れ星にお願いして、大好きな少年と再会する・・・お話し・・・・」

自分でも聞こえるのがやっとの、か細い声だった。だけど、

「なんかロマンチックな小説ね。紺野さんがそんなの毎日読んでるなんて、

ちょっと意外!」

鈴沢美知佳の隣にいた女子生徒が、うっとりした顔で呟いた。

意外って言葉に引っかかりはしたが、正直ちょっと、恥ずかしかった。

彼女はわたしの読んでいる本を評価したけど、まるで、自分が、

彼女に評価されていると、なぜか思ったから・・・・・。

すると鈴沢美知佳が、ケタケタ黄色い笑い声を上げて、

「うんうん!あたしもそー思う!でもね、ダメだよ小百合ちゃん!」

「えぇっ、なんでよ美知佳ちゃん?」

「こーゆう字ばっかの本読んでるとね・・・・・どんどんどん暗くなっちゃう

って、お母さん言ってたから!」

「それってホントなのぉ?」

「ホントだよこなっち!だって・・・・・・ここにもぉーなったひと

いるもん!」

鈴沢美知佳はそう言って指さした。わたしを。笑いながら・・・・・。

心にズキッと、痛みが走った。

「じゃあ紺野さんがいつも、誰とも話さないのは、その本のせい?」

「そう!毎日毎日こぉんな字ばっかな本読んでたから、心が

オセンされちゃったの」

また、心がズキッと痛んだ。

「じゃああたし、この本読んだら、美知佳ちゃんとも、

お話し出来なくなっちゃうの?」

さっきから・・・・、心がズキズキ痛んで、仕方がない。


ヤメ・・・・・ロ・・・・ヤメロ・・・・。

ヤメロ・・・・ウルサイ・・・・ウルサイ・・・・・・!


「あっっったり前じゃん‼」


ダマレダマレダマレダマレダマレぇええぇ‼


その日を境に、平凡で、静かで、わたしの大好きだった

日常は、ものの見事に・・・・・鈴沢美知佳によって・・・

ブッコワサレタ・・・・・・。

次の日学校に来てみると、どこからか鈴沢美知佳がフラッとやってきて、

「紺野さんおはよぉ~~」

って、満面の笑みで挨拶してきた。わたしは無視して、席についた。

それなのに、彼女は授業が始まるまで、ずぅ~~~~っと、わたしに

話しかけてきた。


昨日見たテレビ面白かったよねぇ。紺野さん見た?まさか見てなかったの⁉

勿体ない。あんなに面白かったのにぃ・・・・。そーだ紺野さん、今日小百合

達とプリクラ撮りに行くんだけど、良かったらどう?今日なんか、

用事入ってる?ね~えぇ、なんか返事してよぉ~。


わたしは終始無視を切り通し、机に教科書を突っ込んでいく。


どうせ・・・・本気で誘ってなんかないクセに・・・・・!


心の中でそう吐き捨てた。すると鈴沢美知佳は、飽きたように、

はぁ~~・・・とため息をつくと、

「なんかチョーシ狂うなぁ。まっ、本ばかり読んでて暗いから、

仕方ないよねっ!」

そう言うと彼女は、足早にその場から立ち去り、わたしの席の斜め前で

たむろしてくっちゃべっている女子の集団に飛び込み、可笑しそうに

クスクス笑いながら、何かを報告していた。

ようやく静かになったと安心したら、尿意を覚えて、

だけども一時間目が始まるまであと、五分しかなかった

から、わたしはダッシュでトイレへと向かった。

その日は、あまり深く考えなかった。

多分・・・・鈴沢たちが昨日の続きを、しに来たんだろうって・・・。

しかしそれから、毎日のようにわたしの所にやってくる。

時に一人で。時に四人で。時に男子と一緒で。

現れる時間が決まっていたら、こちらも何か対処できた

かも、しれない。

だけど彼ら彼女らは、いつも不定期に、わたしにちょっかいを

かけてきた。

朝登校すると。休み時間になると。お昼休みになり、給食を

食べ終わると。

でも二つだけ、はっきりしていることがあった。

一つ・・・・・時間はまちまちだが、毎日必ずやってくる。

一つ・・・・・話の内容は主に、鈴沢美知佳が中心である。

これらは偶然なのか、それとも意図された事象なのか、

いや、わたしにとってそんなことはどーでもいい。

法則さえわかれば、対処方を生み出すことが出来るから。

次第にわたしは・・・・・教室で本を読まなくなった。

“教室で本を読む“これはわたしにとって、特に特別な行為では無かった。

別に教室以外にも、本を読める場所は探せば幾らでもある。

ただ、その度に毎回教室からその場所に移動するのが・・・・・、

なんだかメンド臭くて・・・・・・。

それからわたしは読書の場所を、『教室』から『図書室』に変更した。

最初、単に場所を変えただけでは変化は薄いと、

わたしは後ろ向きな気持ちで行動していた。

しかし、そんなことは無かった。いや、それ以上の効果だった。

やはり鈴沢美知佳たちは、図書室まで、わたしをなじりには来なかった。

だがこれは当然の結果で、わたしにも想定の範囲内だった。

図書室以外で、この学校の、どの部屋よりも静かで、空気の張りつめた

空間は存在しない。ましてや隣は国語準備室。

いくら教師をなめ切った性悪女とその取り巻きたちも、たかだか内気な

女子一人のために、この静寂を破り、わざわざ危険を冒してまで

なじろうとする勇気は、笑い飛ばしたくなるほど、持ち合わせてはいない。

そして、これはもっと当然のことなのだが、

本の数がビックリするくらいに多く、そのジャンルも豊富だった。

わたしは一般的な女子小学生が読む本の数よりも、

読書時間が多いと自負している。

大体、小学生はそんなに字ばっかの本は好まない。

漫画みたいに画はないし、内容も硬いと認識しているから。

そして何より、図書室まで足を運んで本を読んだりする人間は

暗い。と、みんな心のどこかで勝手にイメージづけている。

だから好き好んで図書室で本を借りたり、読んだりする生徒は少ない。

わたしもつい最近まで・・・・・その考え方をもった生徒だった。

みんなとは、ちょっと違う理由だけど・・・・・。

学校の図書室に置いてある本なんて、どれもつまらない。

面白くない。

読みたい本が見つかれば本屋に買いに行けばいいし、

遠いなら休みの日に、お母さんに連れて行ってもらえばいいし・・・・、

どちらにせよ、図書室には面白い本なんて存在するわけがない。

行くだけ時間の無駄・・・・・。

これが、わたしの『学校の図書室』のイメージ。

自分で言うのもなんだが、本好きな子供としては珍しく、わたしは

教育の一環で教師たちが揃えた本は、“不毛な代物”と断定し、

その考えは、揺らぐことなく、今でも健在だ。

じゃあわたしはなぜ、図書室を選んだのか・・・・・。

わたしが魅力を感じたのは、“どのような本が置かれているか”ではなく、

“それらが織りなす、独特の空気感”だ。

さっきわたしは、“図書室には沢山の本が置かれており、そのジャンルも

豊富“と述べたけど、それは別に、それらは面白いという意味ではない。

木造の本棚に連なるように陳列された、刊行されて間もないファンタジー小説、

随分と昔に出版され、表紙やページがセピア色に変色し、歴史を

感じさせる、むずかったらしい評論や随筆集。

それらが放つ独特の存在感が、広くも狭い一室でぐちゃぐちゃに

混じりあい、インクの匂いとなって、わたしの集中力を高める。

教室いるよりかはずっと安心、真剣に読書に取り組めた。

たまに図書室で熱心に勉強している生徒を見かけるが、それも納得。

ここはまさに、わたしの目的のために存在する安全な理想郷、

そう断言しても、これっぽっちも恥かしくなかった。

しかし、そんなささやかな平穏は、いつまでも長く続きはしなかった。

自分が環境に適応すれば、周りも同じく、環境に適応する。

人間はみんな・・・・・・そんな風に出来ている・・・・。

鈴沢美知佳の嫌がらせは、精神的なモノから

物理的なモノへと変貌を遂げ、より一層、わたしを傷つけた。

それは鈴沢美知佳が初めてわたしに話しかけてきた時と同じで、

ある日、唐突に、始まった。

図書室から帰ってくると、教科書が一冊、無くなってた。

普段からわたしは、よく物を失くす癖があって、一度、親にこっ酷く

叱られたことがあった。“物を失くす”からではない。

“誰かのせいにする”からだ。


あれが見当たらない・・・・・これが無くなった・・・・。

お母さんが勝手に持って行った!、弟が盗って隠した!


なにか無くなると、思い通りにならない子供みたいに、

大声でそう騒ぎ立てる。どう見ても、わたしが失くしたのに。

捜せば、いつも簡単に見つかる。

その度に、思い出す。


あぁ・・・・確かここに置いてたんだったっけ・・・?


って。

どーせ教科書も、すぐに見つかるだろうって、わたしは楽観的に捜した。

ところが、いくらランドセルをのぞき込んでも、学校や自分の部屋の

引き出しをひっくり返しても、教科書は出て来なかった。

その夜、お母さんに相談したけど、相手にしてくれなかった。

それどころか、

「またお母さんやヒロくんのせいにするの?」

と、冷ややかに注意された。

本当に、わたしは、教科書を失くしてなんか、いない。

神に誓っていい。仏にも誓っていい。

じゃあどうして、無くなったのか・・・・?

理由は簡単。簡単すぎて、考えもしない。


誰かが盗って行ったんだ・・・・・。

誰が?・・・・・・・鈴沢美知佳が・・・・・!


次の日の放課後、わたしはジッと、息を潜めて待っていた。

教室にいる生徒が、わたし一人だけになるのを。

その日は久しぶりに、教室で本を読んだ。

読んでいるふりをした・・・・・が正しいけど。

やがて最後の一人である、日直で日誌を書いていた女子生徒

を見送ると、わたしは本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。

そして鈴沢美知佳の机の方向へ、一歩ずつ、パタ・・・・パタ・・・

パタ・・・・と、微かに上履きを鳴らしながら、ジリジリと

進んでいった。


落ち着け・・・・落ち着け・・・・・落ち着け・・・・・。


何度も自分自身に言い聞かせる。それでも両足は、

早く見たい、早く確認したい!とわたしを急かし、近づくに連れ、

どんどん早足になっていった。

鈴沢美知佳の机の前に到着すると、勿体ぶるように、椅子を引いていった。

スーッと音を立てて、椅子が下がってくる。

やがて頭が入るくらいの間隔が、机と椅子の間にできた。

もう我慢できず、わたしは素早くしゃがみこみ、中を確認した。

そこに教科書は・・・・・・・・あった。

まるでわたしを待っていたかのように、静かにそこに横たわっていた。

恐る恐る手を伸ばし、誰の物なのか確認した。

頭の中で期待と不安がドロドロと混ざり合い、わたしは苦しくなり、

小さく、ため息をついた。

表紙には『四年の算数』とカラフルな文字で記され、裏表紙を捲ってみると、

隅っこの方に、『紺野ゆかり』と、小さくマジックで書かれていた。

パタンと表紙を閉じた瞬間、自分でも信じられないくらいの怒りが、

ガーッと湧き上がってきて、全ての指に、力が入った。

ホントは嬉しいはずなのに。

教科書が見つかって。

自分の無実が証明出来て。

でもちっとも・・・・・嬉しくはなれなかった。


わたしは悪くなかった。教科書を失くしてなんかいなかった。

それなのに、わたしは捜し続けた。自分のせいだと、ずっと思い込み

ながら・・・・・。なにも悪いことをしていないのに、お母さんに、

あんな冷たいことを吐き捨てられた。

あんな言われよう・・・・・・ホントは鈴沢美知佳が言われる

べきなのに・・・・・・‼


わたしは、悔しくて悔しくて悔しくて堪らなくなり、怒りのあまり

手に持っている教科書を、真っ二つに破り捨てたくなった。

その日、わたしは初めて、泣きながら家に帰り、親をビックリさせた。

でもわたしは、なぜ泣いていたのか、その理由を説明しなかった。


言ったところで、どうせ信じてくれないから・・・・・・。

これが、全ての始まり。これからわたしは、こんな日を、何日も

過ごすことになる。

毎日教室で、色んな物が無くなり、いや、盗られていった。

犯人は分かっている。それなのに、誰にも相談できない。

周りは多分、わたしより鈴沢美知佳の肩をもつだろう。

当然だ。このクラスにわたしの味方など、一人もいないのだから。

友達作りを放棄したのはわたし自信。当然の・・・・・当然の結果だ。

わたしはわたしの手で、自らの窮地をつくったのだから。

唯一の頼みの綱であった親も、最早わたしを信用してくれない。

浪川先生も・・・・恐らく同じだ。普段はあんなに生徒に信頼されているのに、

イザというとき、役に立たないんだから・・・・・・!

鈴沢美知佳はいつも、わたしから盗んだ物を、自分の机に隠している。

しかし、生徒で溢れかえる朝や昼に取り返そうとするのはマズイ。

下手をすれば、鈴沢美知佳の私物を盗んでいると、

逆にこっちが、疑われかねないから・・・・・・・。

奴の机の中には、わたしの教科書やノート、大切なキラキラペンなどが

隠されている。堂々と、わたしに分かるように。

まるで“あんたの大事なものは全部ここにあるから、どうぞ取り返して

ください。出来るものならね“と、わたしを嘲り笑うように。

でもこちらも、やられっぱなしという訳にはいかない。

そんな時、ある考えが、頭の中にポンッと浮かんだ。


わたしが放課後まで教室に残っていると、ランドセルから盗んでいく、

鈴沢美知佳の姿が見られて・・・・・証拠をおさえられるんじゃ・・・・・?


それは今考えると、とても拍子抜けする作戦で、呆れてつい自分自信を、

笑い飛ばしたくなる。

それでもわたしには、こんな幼稚な方法しか思いつかなかった。

別に、思い詰めてこの方法しかないと投げやりに結論づけたとか、どーでも

よくなり、適当な考えを出したとかではなく、純粋に、

この、幼稚で下らない・・・・・浅はかな作戦しか・・・・思いつかなかった。

だから今わたしは、誰もいない教室でひとり、鈴沢美知佳が来るのを

待っている。

ハッキリ言って、彼女がここに戻ってくる可能性など、

どこにもないし、そんなこと・・・・・・あるハズがない。

それでもわたしは・・・・・鈴沢美知佳を待ち続ける。

上手くいけば、下校したにも関わらず、クスクス笑いながら

教室にバカみたいにノコノコ帰ってきた彼女を捕まえて、

“なんで戻ってきたの?”って、お母さんがわたしにやったみたいに、

冷ややかに聞いてやろう。正直に白状すれば、すぐにでも明日

先生や親に報告して、大騒ぎのスキャンダルにしてやろう。

ウソをついたら、何か悪口を言って焚き付け、ボロを出すように

誘導してやろう。

下らない作戦に、下らないポジティブな考え、わたしはなんて、下らない人間

なんだろう・・・・・・。

こんなの・・・・・上手く行かないって、自分でも十分、理解しているのに。

現に三日連続、こうして鈴沢美知佳を待っているのに、来るどころか、

通り過ぎたことだって、ただの一度だってないじゃないか・・・・・。

わたしは可笑しくなり、机に突っ伏し、クスクス鼻で笑った。

何処かでカラスの群れが、家路に急ぐよう騒ぎ立てるように、

喧しく、みんなでギャーギャー鳴いている。


わたしももう、帰ろおかな・・・・・・。


そう思ったその時、廊下から、上履きを鳴らしながら、誰かが歩いてきた。


鈴沢美知佳かもしれない・・・・・・!


わたしは、嬉しさとも覚悟とも取れない感情で、机から立ち上がった。

『鈴沢美知佳』は、弱弱しく静かに、のっそりこちらに向かってくる。

上履きの音と、わたしの心臓の鼓動が重なって、重く、耳に響く。


パタン・・・・・パタン・・・・・パタン・・・・・・ドキンッ・・・ドキンッ・・・

ドキンッ・・・・ドキンッ・・・・・!


上履きの音が・・・・・扉の前で止まった。

すりガラスに小さな人影が、ユラユラ動いている。

私の吐く息が、動悸で荒くなっていく。

そして・・・・・扉がガタガタと軋み声を上げて開いた。


鈴沢美知佳・・・・・・鈴沢美知佳・・・・・・スズサワミチカ・・・・!


わたしは祈るように手を組み、開いていく扉を睨みつける。

開いた扉の前にいたのは・・・・知らない女子だった。

背はわたしよりかはやや低く、髪をおかっぱみたいに短く切りそろえた、

顔は眼鏡とソバカスのせいか、可愛いとも不細工ともとれない、

どこにでもいるようなそんな女子生徒が、立っていた。

「あ、あの、忘れ物を取りに来て、その・・・・入っても、いいですか?」

彼女はオドオドしながらわたしに聞いてきた。

「いいけど・・・・・」

わたしは。そっけなく答えた。

彼女は申し訳なさそうに、ソロリ・・・・ソロリと・・・・・一歩ずつ

足並みを揃えて入ってきた。

すると、机からノートを何冊か抜き取り、抱きかかえるように持つと、

また、ソロリ・・・・ソロリ・・・・ソロリ・・・・と足並みを揃え、

教室を後にしようとする。

「ねぇ」

わたしが呼び止めると、彼女はビクッと肩を動かし、ゆっくりと、振り返った。

「は・・・・はい・・・・」

一体なにを、そんなに怯える必要があるのか。

「あなた、ここに何しに来たの?」

わたしは冷ややかに聞いた。

鈴沢美知佳は多くの取り巻きを持つ。この女子も、その一人かもしれない。

顔は知らないから、恐らくほかのクラスの生徒だろう。

もしかしたら、鈴沢美知佳から預かっているわたしの私物を、

『お姫様』の机に隠しに来たのかもしれない。

しかし、予想外のことが起こった。

教室にその持ち主が、待ち構えていたのだ。

だから今、彼女はウソをついているの可能性がある。

この、オドオド怯えたような態度も、芝居かもしれない。

「わ、忘れた教科書を・・・・取りに来ました」

「ホントに?」

「・・・・・はい・・・・・」

「わたしのこと、なにか知ってる?」

まるで取り調べをする刑事と犯人みたいなやり取りだ。

「ご・・・・ごめんなさい!」

彼女は深々と頭を下げ、謝った。

「なにが?」

声を少し荒げ、わたしは彼女に問う。

「あたし・・・・・このクラスに転校してきたばかりで・・・・

その、まだみんなの名前や顔・・・・・ちゃんと憶えていなくて・・・・・」

彼女の泣き出しそうに告白した言葉に、わたしは、今更ながらピンときた。


そうだ。確か昨日、このクラスに転校性が来たんだってけ。

わたしは風邪で休んでいたから、それを知らなかったけど。


わたしは、彼女の胸についた、真新しい名札に目を落とし、

名前を読み取った。

そこにはハッキリとした字で『森宮真奈果』と記されていた。

彼女は、鈴沢美知佳の取り巻きではなかった。

それどころか、この女子は、何も知らない。

わたしと、鈴沢美知佳の関係でさえ・・・・・・。

「あ・・・・あの・・・・」

「ゴメンね。変なこと聞いて・・・・」

突然の謝罪に、彼女は顔を真っ赤にして、

「そっ、そんなコト・・・大体何も知らないあたしが悪いんだし!」

彼女の言うとおりだ。彼女は何も知らない。だから・・・・、彼女が悪い。

わたしは改めて、このクラスには味方が一人もいないということを、

思い知らされた。

彼女は、わたしがなぜ、鈴沢美知佳から嫌がらせを受け、このクラスから

つま弾きにされているのか、まるで理解していない。

恐らく彼女はそうやって、これからも何も知らずに過ごしてゆくのだろう。

そして、なにも知らずに進級するのだろう。

今は十月、わたし達が四年生でいられる時間は、そんなに長くない。

その間彼女は、何も知らずに、たとえ知ったとしても、見て見ぬフリをして、

残りの何カ月かを過ごすのだろう。

そう考えると、なんだか無性に、腹が立ってきた。

そして、こう考えた。

今のわたしの立場を、彼女に少しだけ、変わってはくれないだろうか。

どうせこの生活はすぐに終わる。

ならば少しでも、わたしは、あの平穏な時間を、もう一度

送ったとしても、何も悪くはならないのだろうか。

それに、見たところ彼女は、人付き合いが苦手なようだ。

これは彼女にとっても、イイ薬になるのではないのだろうか。

わたしはわたしの考えを、都合のいいように、勝手に正当化した。

そして、

「ねぇ、森宮さん」

「はい・・・・?」

「こんなこと聞いちゃ失礼と思うけど、友達は出来た?」

「い、いや・・・・まだ、です・・・・」

「じゃあわたしがなってあげる。わたし紺野ゆかり」

「い、いいんですか⁉」

「もちろん!あぁでも、友達が一人だけっのもなんだか寂しいか・・・。

あそーだ!わたしの友達紹介してあげる。鈴沢美知佳さんっていうの。

わたしの・・・・・ってかみんなとも仲良くしてくれるから、みんなの友達に

なっちゃうんだけど、でも大丈夫。きっと森宮さんとも、

仲良くしてくれるよ」

「そ、そう、でしょうか・・・・」

「自信もって。勇気を出して、“友達になってください”って

言ってご覧。その時、わたしの友達ってちゃんと言わなきゃだよ。

急に友達になってくれって言われたら、向こうビックリしちゃうから」

「は、はい!」

なんて単純で、バカ正直な子なんだろう。

笑いを堪えるのが・・・・一苦労だ。

「あ、あの、紺野さん」

「なに?」

「・・・・・ありがとうございます」

「・・・・・・・・・どーいたしまして」

翌日、森宮さんはわたしの言ったとおりに、完璧に、そのまま

実行してくれた。

その日からわたしは、また安心して、図書室に通えるようになった。

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