第32話 蜜柑さん

「筒木さん。このことは秘密にしてくださいね」

「は、はい」


 あれ、自己紹介したっけ。あ、名札を胸につけていたからそれを見たのかな。

 そ、そんなことを考えている場合じゃねえ。蜜柑さんがグッと俺の肩に顔を寄せてくるううお。

 筒木って苗字で呼ばれるのって久しぶりで新鮮だ……ぬうおう。だ、だから、蜜柑さん。

 近い。近いですってえ。勘違いしてしまいます。


 蜜柑さんはドギマギする俺の手を両手で握り、自分の胸の前に持って来る。そして、そのまま上目遣いで俺を見つめる……こ、これはもうおっけーってことですか?

 お風呂ですがいいんですか? いいよね。いいんだよねええ。

 だが、ここまで出来過ぎていると、ドッキリ企画なんじゃないかと疑いが捨てきれない。それとも、猫かもしれん。


「筒木さん、いえ、筒木くん」

「あ、あたってえうえ」


 ガバっと突然抱きついてくる蜜柑さん。


「蜜柑さん、ふにゅふにゅんがあ」

「筒木くん。私……あなたのことを諦めようと思っていたんだけど、あなたを見てしまったら我慢できなくなったんだ。それで、それで……」

「えええ。蜜柑さん」


 ちょっと待って欲しい。俺と蜜柑さんは初対面。そのセリフはおかしい!

 いや待て、今は思考力が落ちすぎていてもう何を考えているのか自分でも分かっていないが、例えばそうだ。彼女は俺の高校の時の後輩かなんかで、ひっそりと俺に憧れていた。

 たまたま、昔の憧れだった俺に会ってしまって我慢できず男湯で待ち構えた。

 なんて考えたが……あるわけねええだろおお! と俺が一人で自分に突っ込みを入れていると蜜柑さんが決心したかのようにキュッと唇を結んだ後、俺を真っ直ぐに見つめてくる。


「顔も少し変わっているから、覚えてないよね。筒木くん」

「ん、んん。い、いつの時なんだろう……」


 ま、まるで分らん。し、しかし。俺の理性がそろそろやばいんだけど……どうする俺?


「私、中学の頃から筒木くんのこと好きだったんだ。でも言えなかった」

「中学?」

「地球は滅亡する! で分かるかな?」

「え、キバヤ理論同好会ですか?」

「うん。私ね。叶なんだよ」

「なんだってー!」


 ちょっと待てええええ。叶くんと言えば、海洋生物の神秘に詳しくて、俺にフローラルな香りがるすイソギンチャクの話とかしてくれたじゃないか。

 俺は次に叶くんに会った時にはフローラルな青い夢のようなイソギンチャクを語ろうと思っていたんだぞ。

 そ、それが、叶くん……一体全体どうして、こんな可愛い姿になってしまったんだ。整形とかそんなレベルじゃねえぞ。


「何があったんだキバヤ!」


 つい中学時代のノリで叶くんに問いかけてしまった。


「実は、大学時代のことなんだけど、ある人に魔法をかけてもらったんだ。それで、この姿に。だって筒木くん、可愛い娘ばかり見てたし」

「魔法って、何それ……」

「誰にも言わないって約束してくれる? だったら名前だけでも教えちゃうよ。だって筒木くんの頼みなんだもの」


 ポッと頬を赤らめる蜜柑さん……いや、叶くん。


「ひょっとして、魔族?」

「知ってるの? うん、魔族の人。トミーさんという人よ」


 あの濃い着流しかあああ! 変なところで繋がりあるなほんと。


「ね、筒木くん。今晩だけでもいいんだ。私と……」


 色っぽく見つめてくる叶くんの顔が至近距離に。確かにアイドルをやっているだけに、本当に美人だ。

 でも、しかし、しかしだな。見た目がいくら美女でも、中身はあのキバヤ同好会で苦楽を共にした叶くんだぞ。


 叶くんはそのまま俺に乗りかかって来る。


「あ、もう準備できてる……?」


 叶くんがそんなこと言わないでくれえ! た、確かに俺は興奮状態になっているけど。それは仕方ないだろ。こんな美人に迫られたらあ。これは、準備とかそんなんじゃない。人間としての本能がそうさせるのだ。

 決して、俺がどうこう思ったわけじゃあない。

 ん、んんん、何か硬いものが俺にも当たってるんだけど。何だこれ?


「か、叶くん。何か当たってる……」

「ごめんね。筒木くん。トミーさんが下半身を変えることを忘れちゃって……ちゃんとしてもらえるように彼に会いたいんだけど、どうやってトミーさんに会えばいいのか分からないんだ」


 トミーさん、最近ここに来ましたよ! 俺のところに来る前にトミー元さんに会ってきてくれえ!

 俺は叶くんから離れると、素っ裸で風呂場から逃げ出した。叶くんが、叶くんがあああ。


 ◆◆◆


 俺はそのまま素っ裸で部屋に戻ると、布団に入り、今の出来事を思い出しながらガクガクと震えていた。

 布団には猫が先にスタンバっていて、俺に一言、


「だから吾輩、変態は嫌でござると言ったんです」


 そんなの分かるかああああ。このクソ猫がああ。

 もういい、寝よう。俺は布団に潜り込むとふて寝を決め込むことにしたのだった。

 

――数時間後?

 美女の叶くんが、俺へ微笑みかけると密着して顔を俺に寄せてくる。だ、ダメだ。叶くん、君は君だろおお。

 ほっそりとしているが俺の膝の上に乗った叶くんは首に腕を回し、ほっそりとしているがプルプルの太ももで俺のお腹辺りを挟んでくる。

 

「叶くん、ダメだあああ」

「筒木くん、口ではそんなこと言って……もう」


 ニコリと微笑む叶くんは、脚を開いて更に俺へと密着してきた。

 あれ、柔らかい。ん? 確か叶くんの下半身は……

 

「叶くん? なんだか変だぞ」

「もう」


 叶くんはポッと頬を赤らめて、俺へ口づけしようと――

 

「ハアハア。なんだ、夢か……」


 やめてくれええ。と思ってもがいた瞬間、視界が変わり見慣れた天井が目に入る。

 な、なんちゅう夢を見てしまったんだ……もう俺はダメかもしれない。

 

「ゆうちゃん殿、うなされておりましたが、大事ないでござるか?」


 枕元で丸まった黒猫が顔をあげると心配そうな声で問いかけてきた。

 

「うん、大丈夫だよ」

「でも、顔が真っ青です。しばしお待ちを」


 黒猫はそう言って立ち上がると、白い煙があがり猫耳少女形態へと変化する。


「い、いまはお色気はもう……」


 今日はもうそれ系はお腹いっぱいなんだよお。今は何があっても裏があるとしか思えねえ。

 しかし、俺の思いなどをよそにクロは「失礼して」と呟くと俺に口づけしてきた。

 し、舌が、あ、あれ、急速に眠く……

 

――翌朝

 あの後悪夢を見ることもなく、スッキリと目覚めることができた。クロが俺に安眠の魔法をかけてくれたのかな。

 俺は枕元で眠る黒猫を起こさないようにそっと撫でると、布団から出て着替えを始めるのだった。

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