第5話 灰色街のお姫様
灰色街にはガス灯がある。国に属さず政府に属さぬ街だが、公共事業があるのだ。勿論出資者がいなければならない、無償の点灯夫などいない。それらの金は、あるギャング連中が出していた。金と言っても共通通貨はなく、複数の国の通貨が流通している。そういう流通を操っているのもそうした連中だ。だからギャングとかマフィアとかヤクザとか言うよりは、わざわざ遠くでテロを起こさないテロリスト政府というとしっくりくるかもしれない。とりあえず、呼びにくいので彼らの自称するグループ名で呼ぼう。
そのガス灯へ金を出し、流通を操る一番大きな集団は『
灰烏の中心的人物は名前を知られていなかった。ただあの魔女みたいな人、と。男だが細い顎と鉤鼻でひょろひょろとした長身で長い黒髪の白人だった。子供やいかがわしい店の女に魔女みたいな人と呼ばれても薄く笑って落ち着いた様子の男だった。
先週、その男の焼死体が見つかった。
ユリアスは、その男のことが好きだったかと問われると、曖昧に首をかしげてその横顔の輪郭を紫煙でぼやかす。
その男にたまに抱かれたり、二人連れだって街を歩きはしたが。
初めて会ってから口説かれた、と思ったことは一度もない。
ユリアスは男たちの隣に座って酒を作る仕事をしていた。太ももを触られて脱がされかける下着を元に戻し、そうやって自分が消費され削られていくのをよしとしていていたある日、その男は二度目の来店でユリアスに店を捨てる気はないかと言われた。
恭しく出された手に手を重ねて、自分を捨てているままの自分と店を捨てた。
店長には何も言われなかった。魔女みたいな男が持つ権力と暴力を知らぬものはなかったから。
その夜、男は自分の部屋にユリアスを招き入れ、ユリアスが裸になろうとするのを慌てて止めてベッドで寝るように言い、大きなソファに寝ころんでしまった。クッションをいくつも重ねる男に呆然としたまま、夜は明けた。
ユリアスが十五の時の話だ。
翌朝、ベッドの上でいつの間にか眠った少女はゆっくりと起きて、魔女のような男の作った案外しっかりした朝食を食べた。
「どこか行くところはあるか」
と、どうやら多くが話す共通語が苦手らしいカタコトで魔女男は言った。
「弟がいるけど家はない。
たぶん、そのへんで寝られたかなあって」
甘く丁寧に巻かれた卵焼きをフォークでじっと睨みながら少女が答える。魔女男は道端で? と変なことを言う。ユリアスは
「誰かに買われたらベッドで寝れる。
そうじゃなかったら道端」
魔女男は節くれだった手からスプーンを落とす。
「弟はいくつ」
「十八才」
「……ん?」
「なんでえっちしないの?」
ユリアスが泣きそうな顔で言う。卵焼きはまだフォークに刺さっている。魔女男は目をむいて、なんでって、と呟いた。
「お金もらえないんなら店辞めなきゃよかった」
ぼろりと少女の目から涙がこぼれた。
「もちろん金はあげるよ」
そういうことか、と男は微笑んだ。
「新しい仕事を頼む」
「あたしは仕事なんてできない。皿洗いも遅いからあの店で、人も殺せないし……」
魔女男はオレンジジュースの入ったグラスを揺らして笑った。
「僕のお嫁さんにおなり」
と言っても当時彼には恋人がいた。恋人というべきか、お決まりの娼婦で自身の館を持っていて、魔女男はユリアスに隠れてこっそり通っていた。
ユリアスはそれから三年、ミラルダと魔女男のアパートの部屋で暮らした。色んな家事をこなして、ミラルダは相変わらず男娼だったから(魔女男は眉間にしわを寄せたがミラルダが譲らなかった)夜はいなかったけれど一人になる夜は砂漠の言葉を勉強した。魔女男がいるときは、古い本を読ませてもらった。
二年目に娼婦が殺されてちょっとしたもめごとが起きたらしいが、それはユリアスの知らないところで起きていた。
四年目、初めて魔女男にキスをされた。いやだったら、君は僕の顔を殴るべきだ。そう言う魔女男の目はとてもとても優しかったので今度はユリアスからキスをした。
「……ドゥブラヴカ」
「え?」
「僕の名前だ」
ユリアスの艶のある黒い髪を撫でて、ドゥブラヴカはため息をついた。呼びにくい、と彼女は笑った。
朝日のさす部屋で、あああああーっっと呻く魔女男は頭を掻きむしって天を仰ぎこう言った。
「こんなつもりで君をそばにおいてたつもりはないんだ」
「知ってる」
シーツしか身にまとわぬ姿で、ユリアスは眩しそうに見上げてうなずいた。
「知ってるよ」
朝日にあばら骨が透き通りそうな体の癖にやたら喧嘩に強く、今まで幾人殺したかわからない、人を拷問にかけたこともある、過去に何をしてこの街に来たか誰も知らず、街の治安を向上させようとガス灯を導入し、子供の消費されるさまが許せなくて、そしてわたしを大事にしてくれる人だ。
笑う虎というバーでユリアスが葉巻と、何杯目かのウィスキーをなめていた日のこと。ちょうどアジトが火事になってから四日目。
どやどやと砂漠の民が入ってきた。別に珍しいことではない。砂漠の男たちは策略のための道具や女を買いに遠出をする。
その中の比較的若いひげを蓄えた(と言ってもたいていの砂漠の男はひげを蓄える)黒い肌に白髪の男がユリアスに近づいてきた。
「人を探しているのだが」
重い頭を上げて、ユリアスはぶっきらぼうに尋ね返した。
「なんでわたしに」
「人探しならこの店で飲む若い娘に聞けと言われた」
君のことだろう、と男は首をかしげる。見渡すまでもなくこの店の客に若い女は一人しかいない。笑う虎は灰烏のあじとのような店で、灰烏に女はおらず入店を許されたのは彼女だけだからだ。
「女性を探している。
おととい、大通りで三人殺した女を」
彼女の煙草に火をつける指が止まる。ユリアスは火のついたままのマッチを指先で回して男に向き直った。マッチの先を突きつける。
「名前は? あんたの」
「わたしは……ポンザだ」
「変な名前」
「どうでもいい。
ツテはないか」
「その前にあんたの名前を調べる。
悪いけど話はそのあとに」
ため息をついてポンザは、急ぐのだが、とハンカチだけテーブルに残して集団の中に戻っていった。
新しいマッチをすると、バーテンのヴィクトリアがショットグラスを目の前に置いた。彼女の結い上げた金髪に混じる白髪が、初めて来たときより増えているのを確認しながらユリアスははなをすすった。まだ赤い目尻を無理にこすって、グラスを空にし振り返る。狭いバーの入り口に立っていたボーイのシャオジィが小さな伝票を手に歩いてくる。彼は義足なので歩き方に少し癖があった。ひどいことにその変わった足音をリズム代わりに机を軽く叩いて歌いだす客の一人、名前をマァフと言う彼女はこの店の用心棒代わりだ。ユリアスと同じように灰烏の正式なメンバーでない笑う虎の客。
そのマァフの前に座る。
「知ってる?」
尋ねるとしかしマァフは首を横に振った。
「おとつい大通りで人を見事に三人殺した豪傑なら知ってる」
にやりと笑ったマァフの額を軽くはたいてユリアスは伝票を受け取った。
笑う虎を出ると、小さな点灯夫がガス灯の間を走っていた。
兄弟らしい二人は、ぎゃあぎゃあと笑いながら明かりをつけて去る。ユリアスはそれを見送ってからズボンのポケットに両手を突っ込んで歩き出した。ポケットには煙草の束が入っている。煙草と呼んでいるがニコチンはあまり入っていない。もちろん大麻の類も入っていない。ドゥブラヴカの使っていたものと同じだ。
「姐さん」
裏路地から声を掛けられ、ユリアスはそのまま歩いた。後から砂漠の民のような肌色の少年がついて歩く。
「ポンザは砂漠の王族の付き人。
なんだけど、ここしばらくこの街に滞在する。宿の一番大きい部屋が埋まって、その部屋の隣にポンザは泊ってる」
「……おととい見られた?」
「それはない」
ガサガサした紙幣のしわを広げて少年に幾枚か渡すと、少年はポンザが街に入ったのは昨日だと言った。
「それより気になる噂があるんだ」
思わずユリアスは歩みを止めた。少年が噂を気にするのは珍しい。
「……王族の下のほうが宿の大きな部屋に泊まってるって」
「まさか」
いくら下でも。
笑いそうになるユリアスの顔を見上げて少年がむくれる。
「でも」
「……一応気にしとく」
少年の黒い頭をクシャっと撫ででユリアスはじゃあね、と手を振った。
アパートの部屋の前でユリアスは唖然とした。
真っ赤な花の束を抱えて砂漠の男が立っていた。今度は珍しく髭のない若い男だ。つまりポンザではない。
「……誰?」
ドアの前にぴたりと立たれてはごまかしようがない。部屋の主として声をかける。というか花? その中に凶器があるのか?
「君がここに住んでいると突き止めました」
ばさりと花束を突き出す男。一歩引いて、ユリアスはそれを避けた。不思議そうに男は再度突き出す。
「君に……君、名前を教えてください」
「いや待って、なんなの?」
「とても美しい」
「「意味が分からないんだ、砂漠の男」」
砂漠の言葉で返すと、砂漠の言葉で男は素晴らしい、と感嘆をこぼした。
「話せるのですか、実に実に……ああ、突然の訪問を許せ、どうもこの街では本人が訪ねたほうが話が早いとも聞きました」
だから今日はあいさつに来ました。自分で、と彼は花束を押し付けてくる。それをぶんどるように受け取ってそのまま床にぶちまける。
知らない花の香りが廊下に広がった。
「花は嫌いです?」
「貰ういわれもないし薬を仕込まれてたらどうしようかと思って」
にっこり微笑んだ彼女の額には青筋こそなかったが眉間には深くしわが刻まれた。
「……歓迎されなかった?」
「そう。帰れ」
「わかりました。
正式に来ます」
「帰れ」
足元の赤い花をひとつ、きれいなのを拾って男はユリアスの手に持たせる。
「美しい人、帰ります―――あのアクションシーンは素晴らしかった」
目の前で花は床にたたきつけられた。
そして前話の終わりに話を戻そう。
どうやってか(灰烏の残党が必死に情報を出さないようにしていたが)ユリアスの弟までたどり着いたシヴァンは弟の前に大きな布を広げている。
「あ、あのこれなに?」
ジュストのほうに向きなおって(医者は苦虫を噛むようにテキーラを飲んでいる)ミラルダは尋ねてみたが返事はない。代わりにシヴァンが大声で朗らかに
「家系図を絵にしたものだ!」
と言う。周りにはやじ馬がぞろぞろと山を作る。
「まずこれが偉大なる砂漠のオアシスの王、その子供の王の子が今の偉大なる王国を収める現王、そして現王の父君の姉が産んだ息子の一人が私の母の父で、父は現王の兄の息子だ!」
それがすごいのかわからない。ミラルダは目の前に広げられる鮮やかな刺繍で描かれた王の系譜に頭痛を覚えた。
「わからないですか?」
「王子がいっぱいいる理由はわかりました」
皮肉は通じなかったのかわざとなのかシヴァンは口を開いて
「では次は財産の話を」
「いやいいです。
つまり、は」
ミラルダはこめかみを両手で揉みつつ立っているままのシヴァンを見上げた。
「姉との結婚に、申し分ない相手だと言いたいんすね?」
「話が早くて助かります」
にっこりと人好きのするさわやかな笑顔でシヴァンはミラルダの肩をたたいた。
しかしミラルダの答えはもう決まっていた。
「姉ちゃんに直接求婚もできねえ腰抜けは帰れ」
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