第3話 灰色街のエトワール

 ベルベッドを張った椅子やソファ。まず深緑のツタをパターンにした壁紙の壁と重厚なカーテンで仕切られたいくつかの関門を突破してそれらにたどり着くようになっている。

 関門といっても、まず泥酔していないか、服装は相応か(着ていればだいたい済むが世の中には例外的事案がまま発生する)、チケットは持っているか、チケット代並みに飲み食いをしてくれるのか……そんなところだ。

 エラーヘフは今日の客の入りと今日の外見への賛辞を聞かされながら楽屋の手前、控え室でゆっくりと水を飲んでいる。仕事の前はアルコールは取らない。煙草はもとからやらない。二年前にできた男が煙草をところ構わず吸うのが気に入らない。

 男は画家で、なんのツテがあったか知らないが二年前そこそこいい席に通されていた。それが初めてで別段目の前に歩いていきもしなかった、なのに画家は歌が終わるや楽屋に押しかけ彼女の前に跪いた。

 まあそういう男もたまにいる。ファンですとか、好きですとか。

 画家は、あなたがわたしのファムファタルで、あなたを描けないならわたしは死ぬ、と言い切ってなんだかよくわからない尖ったものをエラーヘフに渡した。それで殺してくれと。(後から聞くと使い古しのペイントナイフだったそうだ)

 なかなかに芝居がかってかつ悪質。だったのだがエラーヘフは現在その男に参ってしまっているのだから人生とはわからない。

 時間が迫り、支配人達は部屋を出て行く。エラーヘフは楽屋で漆黒の肌を覆っていたバスローブを脱ぎ、金の刺繍を施された絹の衣装を丁寧に着た。深い黒の髪は襟足など短く刈り込んでいるがそれを覆うような頭の上半分から伸ばした、きついカールのついた髪を後頭部に金糸とともに結い上げる。耳には、やはり金の耳飾り(ルビーが目立つ装飾で本物だと画家は言ったが、どうだろう?と笑ってしまうのがエラーヘフの印象だ)。

「エラ、準備は?」

「いつでも」

 真っ黒なヒールを履いて進行を担当する若い女の子に応える。

 今日も幕が上がる。



 はじめて画家と同衾した時、朝起きると画家は素っ裸のまま自分をスケッチしていてエラーヘフは呆れたのを覚えている。

「君の肌の色は美しいな」

 ほんとうにうっとりとした調子で漏らすのでエラーヘフは笑った。

 ベッドに片肘をついてポーズをつける……こちらも裸のままだったが恥じらうような乙女でもない。

「それで」

「ん」

「どんな絵を描いてくれるの?」

「受胎告知」

 思わず、沈黙する。

「……関係ない村人とか?」

「天使だよ、天使を、君をメインに大きく中央に、喜びをたたえて告知する天使だ」

 この際マリアはどんなご面相でも構わないんだ。

 少々興奮している調子で絵の構成を説明する彼は眩しく、好ましいがちょっと待ってくれとエラーヘフはこめかみを揉んだ。

「黒人の天使なんて見たことない」

「うん僕は見た」

 ものすごく強い目で、君だ、と告げられて、とうとうエラーヘフは笑い出した。

「やっぱりあんた面白い。

 大好きよ、そういうの」

 きょとんとする中年の画家に、起き上がってキスをして、それから二年ずっと一緒にいる。

 完成した絵は、どこに売れたのか知らないが売れて、だいぶ画家自身潤ってしばらくは仕事をせずともいいはずだった。最近なんだか大作の計画があるようだが。


 ある時は突然母親になる気はないかと聞かれた。

 ぽかんとして、自分はもうそんな年じゃない、あんただってそうだろうと遠回しに言ったが逆に彼は笑って、養子をとりたいと言い出した。

 こんな街に役所、ましてや戸籍などありはしないので、つまり口約束なのだが。

「最近おおきな子供達を拾っちゃって」

 気の毒なんで。と彼は猫を拾うように言った。まあ子供と猫、どちらにしろ好きなのでかまわないと答えたら、その日のうちに画家の家にふたりの子供……と言うべきか大人なのか微妙な年頃の二人が居候を始めていた。

 まあ、確かに、自分が若くして子を持ったらこの年頃の娘息子がいておかしくないな、と納得してしまって、なんだか子供達(とあえて呼ぶが)も懐いて親しくしてくれるので嬉しくなってしまった。

 二人の子供は血は繋がらないが、姉弟だと名乗った。弟の方はミラルダ。

 ミラルダはショーに興味があるようで、それなら口を利いてやろうとしたが本人に断られた。だがあの時はひどい下衆に借金があるからとにかくそれを返してしまわないとならない、ということだった。

 ということは、そういうことなのかな、とエラーヘフは客の中にミラルダを見つけて微笑んだ。前座のダンサー達が踊るのを熱心に見つめている少年……と言ってももう二十歳は超えているのだけれど……のこの熱心さを画家はよくわかっていない。

 興味がないのかもしれないが(というのは養子にまでして変な話だが)彼はミラルダが借金に悩んでいるのを知っても何も手を打たなかったし、ショーの仕事に関わりたいのだと言う話も父子はしていないようだ。そういう教育方針はどうかと思う、親になったのだから。とエラーヘフが怒っても画家は曖昧に笑ってはぐらかした。

 でも、ふとエラーヘフは思い直す。

 あの席は画家に渡したチケットの席だ。

 これらをどう汲み取ればいいのかわからぬままに、自分の出番は迫っている。

 そして出番の合図が。ゆったりと小さな舞台袖から出ていき、スポットの明かりを浴びる。

 今日歌うのは、ジャズの一曲。古い歌だ。爆発の前から歌われているほど古い歌。

 歌い出して初めて、逆光の中ミラルダの隣の男に気づいた。自分から見ればミラルダとそう歳の変わらぬ、美形の男。

 ああ、ミラルダが好きそうだと思って胸のうちで笑顔になる。なるほど好みの男と大好きなショーと。

 昨日あの子の姉が手紙を受け取ったと話していたのを思い出した。



「最近この街に来た医者って知ってる?」

 ユリアスは言いながら手紙を驚いた顔のまま見せてくる。

「誰から?」

 手紙はお世辞にも上手いとは言えぬ字で書かれ読みにくかった。

「ミラルダ」

「あの子字が書けないでしょ?」

「そう、教えてもなかなか覚えられなかったのに」

 ユリアスは眩しそうな笑顔で手紙を抱いた。

「お医者さんのとこで働き出して、そのひとが借金を肩代わりしてくれて、今は大丈夫だって。

 でも」

 一ヶ月ほど姿が見えないと思ったらそんなことになっていたのかと(こうした点でエラーヘフもまた放任主義である)エラーヘフは驚いた。

「あの子、わたしがお金を工面するって言っても聞かなかったくせに、どうしたんだろう」

 そう、ミラルダは人に甘えるのがとても苦手な子だ。

 


 その子が、楽しそうに本当に楽しそうに自分の歌を聞いている。

 エラーヘフは楽しくなった、思わず微笑んで歌う。

 今日はいい日だったと思うことができた。

 男たちの一団が入店するまではの話だが。よく見知った一団だった。

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