第2話 灰色街の画家

 長袖の上着からのぞく小麦色の肌はところどころに他の色が混じっている。

 単にはね返ったり絵具で汚した手で触れただけなのだろうが、そのまだらの肌は画家という人種特有の肌色のようで毎度ジュストは好ましく思う。

 画家の名はユリヌス。四十路の半ばほどのやさ男で、ファミリーネームは聞いたことがない。ただ貴族の家に生まれて、嫡子なのに父の葬儀に今のようなラフなまだらの格好であらわれ棺を力一杯蹴り壊して親族から絶縁してもらったのだという話は酒の席で聞いた。本当かもしれないなとは思っている。

 今日は久々の休診日に酒抜きのカフェで久々に会ったが、古い友人の最近の小品を吟味しつつ不思議に思った。鋭い感性がキャンバスからこちらに突き刺さるような緊張感のある絵が多い男だのに、この最近の絵はどこか穏やかな包容力を感じる。なにかいいことでもあったのかなと、テラス席でわずかに肌寒い風にあたりながら医者は微笑んだ。画家の燻らせるたばこの煙があたりに薄く漂っている。

「どう思う?」

「いいね、特にこれがいい」

 さっとユリヌスに見えるよう小さなキャンバスをひっくり返したら彼は朗らかな笑顔を見せた。コーヒーを飲みながらそれを見られたのも珍しい。

「それはわたしの子供達なんだ」

「……お前子供いたっけ?

 最近か?」

「いや、説明が面倒なんだけどな。

 二十一の娘と二十の息子ができた」

 道をかけていく顔も知らない子供たちを見送り医者は少し考えて

「連れ子?

 それにしちゃでかいな」

「だから説明が面倒なんだ。

 だがいい子達だ、仲良くやってる。娘は一緒に暮らしてる。」

「息子の方は?」

 ユリヌスは肩をすくめて、男だからな、色々ふらついてるかな、と首をかしげた。

「最近会ってないな」

 キャンバスに描かれた二人の子供の笑顔をにこにこと眺めながら彼が言う。ジュストも首をかしげて、でも、と。

「でもさ、こんな小さな子供じゃないわけだろつまり……親子になってから?

 すくなくとも俺と出会った、二十年前か?

 その頃子供なんていないで荒んでたろ。」

「まあね、それは想像で描いたんだ。

 ユリアスとミラルダの小さい頃を」

「ああなるほ」

 と、口を開けたままジュストは眉間にシワを寄せる。面白い顔だな、というユリヌスの声を遮るように顔の前でコーヒカップを持っていない左手を振る。いや、よくある名前だ。

 例えこの絵をいいと言った理由が最近友人になり、それどころか恋仲になろうと隙を伺われている奴に似ていたからだとしてもまさか。

 それに、と先週の騒動を思い出す。奴の父親は奴をろくでもない男たちに売ったのだということが判明した。この古い友人はそんな男ではないだろうと、思う。

 その時、道のほうから男に手を振られる。思わず、思わず顔をそむけた。

「あれーせんせい……と父さんじゃん」

 その言葉が後ろから降ってきたので手にあったキャンバスを取り落とした。

「あれ、ミラルダ久しぶりだなあ。

 ユリアスが連絡取れないって心配してるぞ」

 どうした、とユリヌスが小さめのキャンバスを拾い上げようとかがみ……そのつむじにジュストは力いっぱい拳を振り落とした。


「いってえ……」

 低い声で呻くユリヌスはうずくまり、ジュストは椅子をけって立ち上がった。ミラルダはぽかんと口を開けて立ち尽くす。キャンバスは再びコーヒーカップと一緒に地面に落ちた。

「いってえなああ!!!!

 なにすんだこのっ……」

 と立ち上がるとユリヌスは結構長身だがひょろりとした体つきで怒鳴ってもあまり迫力が出ない。

「てめえだよ!

 何息子売りさばいてんだよ!?」

「はあ?!」

「あっ……」

「わけわかんねえぞ!

 なんの」「ごめん、あの……ジュストあの」

 ぎこちなく医者の上着の裾を引っ張ったミラルダに般若の顔で振り向く。ミラルダは噴き出して笑ってしまってからまたごめん、と続けた。

「それ違う父親なんだ。」


 まあ冷静に考えればそうだろうな、と後からジュストは思う。

 こんなでかい図体の(本人曰く喧嘩は弱いらしいが)男を売り払えるというのはよほど弱みを握っているとか……弱みを握っていないよな? うん……色々考え過ぎかもしれない。ぐるぐると考え込んで殴られた頬をかばう医者をほっておいて、ミラルダは注文し直したコーヒーに砂糖を入れる。

「あはは、どーも久しぶりになっちゃって……」

「色々とあったみたいだが……な、ミラルダ悪いことは言わんからその男はやめといた方がいいぞ。いきなり殴るとか最低」

 カフェの店員に借りた冷たいオシボリを後頭部に当ててユリヌスがぼやく。ミラルダは笑って、でも優しいだろ? とほんのり頬を染めた。

「いや、付き合ってないからな?」

 とジュストは念を押すが、二人は構わぬように会話を続けた。いわく

「だいたいコイツ年齢不詳なんだ、お前ジュストの歳聞いたか?」

「聞いたことないけど…三十くらい?」

「俺はコイツに会って二十年たつぞ」

「へ?」

「その時コイツはもうこんなだった!」

 けらけらミラルダは笑った。その隣で医者はさらりと

「だから俺は二千年くらい生きてるんだって」

「ああこないだまでは千年だったな。

 どっちにしろ息子の恋人がショタコン野郎だなんて」

「だから付き合ってないって!」

 ふむ、とユリヌスは首をかしげてから腕時計を見る。

「どっちでもいいけど、今日この後暇か?

 紫陽花のチケットがちょうど二枚あるんだけど、お前らデートする?」

「デッ……」「するー!」

 キラキラ目を輝かせたミラルダに、医者はじろりと視線をやるとぐう、と呻いた。

「いいじゃん一緒に行こうよ、紫陽花の歌姫エトワール聞きたい!」

 紫陽花というのは有名なショークラブ、もっぱらストリップの多いこの街で唯一といっていいくらい健全なショーをやっているクラブだ。ジュストもさすがに名前と場所は知っている。入場券が取りにくいことも。ついでにミラルダがそういったショーが好きなことも聞かされていた。

 別に好きではない。好きにはなっていないのだが若者のすがるような期待の目には弱い。

 ひらひら揺らされたチケットをユリヌスの手からひったくる。隣では若者がガッツポーズをとった。

「ダフ屋でも始めたのか」

「俺は商売には向かないんだ。女がいるの」

 軽くウインクを飛ばしてくる画家に深くため息をつき、医者は店の時計を見た。クラブが開くまで一時間ほどある。

「しょうがない、デートだ行くぞ」

「やったねありがとう父さん!!」

 なんだか自分も子供を持ったみたいだ、と医者はほんのり温かい胸の内を鑑みた。



 画家はテラス席に残って道行く人々を見ている。

 眺めてはいない。その目は鋭く、人の顔をつぶさに見ている。

 それは昔からの癖で彼は何かをぼうっと眺めることが少ない。指に挟んだたばこは燃え尽きようとしている。けれど、彼は縫い留められたように手を動かさない。じっと街並みを見る。そうすると不意に絵の構想が浮かぶ時もあり、まったく何も心動かぬ時もあった。

 今日はたばこの火がわずかに指を焼いても、熱いと思いこそすれ動けぬほどに思い出にとらわれている。

 今日はそういう日だ。

 紫陽花の歌姫の名はエラーヘフ。ユリヌスの女というよりはエラーヘフの男がユリヌスである。彼は別にそうしたことは気にもしないが。彼女は幾人かの男に言わせれば鼻持ちならない女で、画家にとってはまさに運命の女だ。画家の人生において二人目のファムファタル。

 ようやくたばこを灰皿に押し付け、画家は少々かじかむ手で木炭とスケッチブックを取り出した。

 画家は生まれの家の後ろ盾がなくともかなり高額で絵が売れる芸術家で、この街にそぐわぬと考えるものも多い。そのせいで彼はちょっとした有名人だ。

 街にいる理由の噂話がいくつかあって、そのうちの一つ、ジュストは信じなかったし信じないが過去の女に関するうわさがある。

 いわく、やんごとなき女を相手に恋愛劇を繰り広げ、だが失敗して火消し役に追われているとか。

 それが一番いまいましい真実には近かった。

 木炭で軽くあたりをつけたのは、エラーヘフの微笑みだ。この頃何枚も描いているが、いつも神経を削るようにしていた。今度の大きな品にどうしても彼女の微笑みがいる。

「お久しぶりです」

 斜め後ろから声をかけられ、振り返らずに画家は木炭を動かし続けた。その様子になれたように、すらりとした−−だがおそらく隙なく鍛えられた肉を高級な衣装に隠している−−黒い肌の男が向かいの椅子に腰掛けた。男は店員にグラスでビールを頼み、画家の前にコートのポケットから封筒を差し出した。

 封筒は小さな正方形で分厚い。

「これは?」

 スケッチブックから顔を挙げずに問う。男は貼り付けた笑みで応えた。

「彼方からの便りかと」

「……かと?」

「わたくしは一切このことを忘れますのでお返事は不要」

 運ばれて来たグラスを、ついと飲み干してふうと大きな息をつく男に、画家は見覚えはない。勿論だ。合言葉は久しぶりだと来るだけ、この日に。この街のどこにいようと。そして毎回違う人間が来た。

「それでは失礼します」

 上等なグレーのコートの襟を正し、少し多めのビール代を置いて男は雑踏に消えた。

 画家は席を立ちスケッチブックと一緒にその封筒をしまおうとして、青い小さなカードをボロボロの封筒からこぼした。手のひらに乗るようなそれを摘み、無防備に目を通して……ゆっくりと座り直した。

 今度は彼はスケッチをすることもなく封筒をそれ以上暴くこともなくただそこに閉店まで座っていた。

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