灰色街

きゅうご

第1話 灰色街の男娼-1

 小さな国と国を遮る深い森の中にその街はある。どこにも属さない、どこにも属せないものが溜まる街。森が深過ぎて国境が曖昧なせいで、その街には国籍も正式な名前もない。どこかしらの国にはいれば犯罪者になるようなものも、産まれる前から捨てられることが決まっていた子供も、ここなら気兼ねなく生き、殺せた。

 そんな街を人はこう呼んでいる、灰色街と。


 灰色街はでたらめに建て増しされた石造りや木造の建物が、廃墟になったりまた人が住み始めたり、まるで森の古木に新芽が芽吹くように常に蠢いているような生きているように妙な街だとミラルダは思う。もっとも彼は生まれて二十年このかた、この街以外の街を知らない。

 街を出たいと思ったことがなかった。

 今の自分の生活が最低だということはわかるが、他の国とか街に出てこれ以上になる気がしないのと案外この街に愛着があることやらなんやかやで。そして今はもう一つ灰色街に拘る大きな理由があった。

 しばらく前のことだ。

 灰色街の中心部に近い(つまりギャング連中の仕切る店の多い場所だ)店でミラルダは客と酒を飲んでいた。客はそこそこ顔のきく人間らしくかなり高いバーのカウンターで何人もの男女をはべらしてご満悦で、ミラルダははべられながらいい機会だと高い酒を飲んでいた。この後何があろうとへべれけに酔っていれば大丈夫だ、と思った。だから事件の時には既にだいぶ酒が入っていたのはわかっている。

 少し離れた個室から何か大声が聞こえて店内が静かになる。ミラルダがそれに気づかず熱くなってきた頭を冷やすために氷を噛み砕いた瞬間だった。

 個室のドアが乱雑に開きいかにも、いかにもギャングのチンピラです、と叫び出しそうな男が出てきた。次にがたがたたっと硬いものがぶつかる音と、金色の頭がドアから飛び出す。金色の髪の毛を引っ掴んだチンピラは金色に何か罵声を浴びせていた。

 ミラルダは遠巻きにそれを眺めていた。

 金髪は金髪にしては珍しい少し黒い肌の男で、身長は自分より低そうだった。よく鍛えられているなあ、と、ミラルダは吹っ飛んだチンピラが伸びるさまを見て思う。

 そう、吹っ飛ばされたのはチンピラのほうだった。

 金髪は長い上着をはたきながら背筋を伸ばし、切れて赤い唇を不機嫌にゆがめた。黒い瞳は据わっている。いい男だった。別にそれだけで、酔ったミラルダの気を引くのは十分だった。

「うぇーい」

 と酒の入ったカップを掲げる。

 店中の視線を集めていた金髪から視線を奪ったミラルダは、だいぶ熱い顔をほころばせた。

「おにいさん一緒に飲もうよー」

 間の伸びた声で、そう言うミラルダの頭を客の男がはたく。いてえな何すんだよ! と言い終わらないうちにミラルダの機嫌はよくなった。金髪が隣に座ったのだ。

「ワインを」

 店員が赤か白か聞く。ざわめきが戻ってきた。いくら高級な店といえど灰色街ではいさかいなんてよくある話だ。ただ物語に出てくるような美しい男が主人公なことは少ない。

「おにいさんさあ!」

 ぱんっと気軽に金髪の肩をたたいてミラルダは笑顔を作った。

「強いねえ、なんかしてるの?

 金髪に黒い肌って好みだわーかっこいいね」

 金髪は頬杖をついてにやりと笑った。

「そんな口説き文句じゃ俺は落ちねえぞ?」

 低い声。ミラルダは笑って肩をすくめる。

「口説きようによっては落ちてくれるってわけ?」

「さあな、男にゃ興味ない」

「なんで隣に座ってくれたの?」

 金髪は、くっと首をかしげて考えてから運ばれてきたワインをミラルダのカップに軽くぶつけた。

「飲みなおしたかったからかな」



 その夜はそこまでだった。

 ミラルダは前払いされていた金のために前述の男に良いようにされて体の痛みに眠れず、でもすこしだけ良い気分だった。



 翌朝。

 ミラルダは痛む身体を歩かせて自分のアパートのある区域に向かっていた。そこで新しくできた個人病院(もちろんでかい病院なんてものはこの街にあろうはずもないが)を見かけ、こんな街に開業するとはどんな闇医者かな、と思いながら通り過ぎてから立ち止まる。

 曇りガラスのむこうに、金髪の頭が見えた。


 恐る恐るドアに手を伸ばす。からん、とドアベルが鳴る。運命の鐘の音だと思った。

 狭い待合室の椅子に、昨日の金髪が座っていた。金髪は驚いた顔でミラルダを見てから笑った。

「なんだ、後でもつけたか?」

「ちがっ……ほんとに偶然。なに、昨日怪我したの?」

 ちゃっかり隣に座って嬉しそうなミラルダに、金髪は声を立てて笑った。

「俺がここの医者」

 すっと大きな手が差し出された。

「ジュストだ。よろしく、患者一号さん」

 大きな手を握り返して、面食らったミラルダはしばしジュストの手を握りながら

「……まじか、俺通うわ」

 と宣言した。


 宣言通り、診察無しで通った。

 ジュストには呆れられたが、医院の待合室の掃除(診察室には患者と医者しか入れねえと断られた)や表の箒がけなんかをとにかく丁寧にするから、と強引に通った。

どうも医者にはただならぬ過去があるらしく、まあこの街にいるのだから過去はあって然るべきだが、時折酷く酒を飲んだりこっそり一人で泣いていたりした。

 別に口説こうとしなかった。だがそういう時一緒に酒に付き合ったり泣いているあいだ、患者を待たせて一人にさせていた。名前さえ呼ばず、せんせいと慕ってみせた。通ううちにミラルダはジュストに、口説き落とそうとするより懐いてしまった。

 ジュストの診察代は適正価格で(法のない街では珍しいことだった)患者とのコミュニケーションもうまい(待合室で談笑するのを見るだけだが)子供が診察に来ると菓子をやって優しく微笑んだ。当たり前といえば当たり前だ、医者なのだから。だが近所でもジュストの評判はどんどん良くなった。

 腕もいいらしく、医院に来た者は皆納得して帰っていく。ミラルダはジュストと冗談を言ったりジュストから薬の名前の読み方を教わったりした。

 文字を読む教育を受けたことがなかったミラルダに、ジュストは気楽に文字を教えてくれた。お前は字を知らないだけで聡明な奴だ、などと言われた日は嬉しくて一日中にたついていた。

 こんなに穏やかで温かく優しく楽しいのが恋なら、自分は恋などしたことが無かったとミラルダは思った。



 薬の処方箋が少し読めるようになったある日、ミラルダが医院の近くのカフェで昼飯のトーストに目玉焼きを乗せていると、娼婦仲間のベルジーアが同じテーブルに座った。

「なんだよ、ひさしぶり」

「そうねひさしぶり」

 あんた馬鹿じゃないの、とベルジーアは切り出す。トーストを齧って溢れるバターで口元を汚しミラルダはふうんと応えた。

「一ヶ月仕事してないんだって?」

「うん」

「うんじゃないよ、アパート代滞ってるんでしょ?」

「まあ幾らか飯代はあるから」

「そうじゃなくて」

 ベルジーアは見事にカールしたブルネットをかきむしって声をひそめた。

「ショバ代よ」

「仕事してないんだから払わなくたって良いだろ?」

「ホッジはそう思ってない」

 ミラルダの仕事場あたりを仕切る男の名が出て、ミラルダは首をかしげた。

「え?だってほんと仕事してない」

「だから、あんたが隠れて他の場所で仕事してると思われてんの。

 例えば小さな病院でね」

 わかるでしょ。彼女は吐き捨てるように言って席を立った。


 医院に帰ると、白衣を脱いで腕まくりしたジュストが焼き鳥の串にかぶりついていた。

「おう、やっと午前の患者がはけたとこで……」

 彼は首をかしげる。ミラルダがひどい顔をしていた。

「いっこだけ聞きたいんだけど」

 幾分か掠れた声でミラルダは切り出す。

「せんせい俺のこと好きになると思う?」

 何を言っているんだ、とワンテンポ遅れてジュストの口から溢れた言葉に、ミラルダは笑った。

「だよね。午後からちょっと出かけるよ」

「ああ、別に好きにしてくれて良いんだけどな……ミラルダ?」

 ドアの向こうに消えようとしていたミラルダを引き止めてジュストは紫色の少し髪の長い頭を撫でた。

「……なにか面倒があるなら俺に言え」

「ありがとう、でもなんでもない」

へら、と笑ったミラルダが閉めたドアを暫く睨み、ジュストはとにかく午後の診察に向けて準備をしようと立ち上がった。カルテのしまってある小さな部屋を開ける。そこにはミラルダは入ったことがない。個人情報の管理をしっかりとしたいジュストが入らせなかった。

だからミラルダはそこに古いビスクドールが座っていることなんて知らない。

ジュストは、言いようのない思いを宥めようと人形を抱きしめてみた。

小さな、とても小さな少女が脳裏に浮かぶ。


「あれ、今日休診すかー?」

待合から聞こえる声に、ジュストは人形を放り出すように元の場所に座らせて部屋を飛び出した。

声の主はミラルダくらいの年の青年で、確か仲が良かったとジュストは、そうであってくれと願いながら青年の前に駆け寄る。

「ミラルダにトラブルがあるとすればどんな奴とかわからないか!?」

青年は目を白黒させて、ああ、と思いついてから言いよどむ。彼はミラルダがジュストに惚れていることを知る男娼仲間だった。

ええと、とか迷っている彼に、ジュストは頼む!と頭を下げた。

「いや、いや違うんすよ……言ったらミラルダがそのーさー」

「なんでも、驚かない、君からとは言わない、診察代を奢ろう、なんでもいい、頼む、この街に来て……」

ふっとジュストは息を止めた。

この街に来て初めての……なんだ、ともだち?

「先生、友達だって思ってるならあいつはほっといてあげてよ」

寂しそうに青年は言った。

「それが優しさだと思う……でもね、もし。

もしも友達って言葉に違和感を覚えるなら教えてもいい、あいつの困ってること」

ジュストは息を呑みこんだ。



 灰色街のとある通り。

 いわゆる立ちっぱなしの売春通りだ。薄汚れたアーケードの屋根はところどころから日差しを漏れこぼしていた。男も女も、そこにだらりと並んで財布の膨らんだ男や女を笑みで誘う。ここでは昼夜の別はない。

「だからホッジ、今日で一ヶ月分、とってくるよ、そんなら文句ないだろ。」

 したたかに酔いが回ったミラルダは何度目か同じ条件を繰り返した。

 今夜一晩で一ヶ月分の通りのショバ代を払う。

「んンなことがおめえにできるのかってんだよお」

 ホッジはゆっくりした口調で人差し指を裏向きにミラルダの鼻先に突っ立てた。

 指の根元に入れた刺青(小さな魚のマークで、彼の信仰する存在を表す)がぶれるのを見ながら、できるさやってやるよとミラルダは言う。

「なあミル、話は簡単なんだよ」

 急にホッジは青白い細い腕をミラルダの肩に絡ませる。

 自分でカットしたという蛇舌が黄色い歯の間から覗くのが嫌いだとミラルダは思う。

「ずいぶん可愛がってもらったんだろぉ……そのにいちゃんにちょおっと勉強代をもらうんだ。この街で俺の商品に手だすっとこんくれえの金がかかるっつー勉強だ」

「できない、ほんとに何もないんだ、なあ」

「ついでにそいつ医者なんだってなあ」

 嬉しそうに、ホッジは左手の中指から指輪を外した。金メッキの、蜘蛛が彫られた幅のあるものだ。

「これで一儲けできるだろってことだろ」

「それはもうやめたしもう二度とやらねえつったじゃんか」

 アルコールで熱くなった目をまぶたの上からぐっと押し込んでミラルダは座り込んだ。その耳元にホッジはふざけんじゃねえと怒鳴りつけた。

「てめえ幾ら借りがあると思ってやがんだよお!」

「知らねえよ親父の借金なんてさあ!」

「ああ!そうかい耳かっぽじってよく聞けよお前の親父は8000でてめえを売ったんだよ!なのにてめえはまだ3000ぽっちしか返せねえ!」

「なるほど」

 頭上から降る声にミラルダはつま先まで血の気が引くのを感じた。

 思わず見上げて、後悔する。

 ジュストが濃いグレーのコートを風になびかせて自分の後ろに立っている。無表情に。

 ホッジの取り巻きたちが、例の医者です、と告げ口しているのでミラルダはふらつきながらどうにか立ちジュストを突き飛ばした。

「帰れ!

 帰ってください!」

 言葉尻が震えた。

「おーーい折角おいでになったんだからよ、そりゃひでえよなにいちゃん?

 なあこいつ最近仕事したがらねえ悪い癖ができちまってさあ、ケツがいてえとかもうやだとかそういうワガママ抜かすんだ」

 話があるんだがね、というニタニタした声を遮るように、ジュストはポケットに突っ込んでいた右手でホッジの頬を叩いた。ホッジは目を丸くした。

 頬にたたきつけられたのがなかなか見ない量の札束だったからだ。

「5000ある」

「ご……」

「それで俺にミラルダを買って欲しかったんだろ?

 違うのか」

 札がひらひら舞う場がしんと静まったところでジュストは突き飛ばされたぶんミラルダとの距離を縮めて、腕に触れた。

「帰るぞ」

 ジュストの目がひどく鋭く光っているのを見ずにミラルダはその手を振りほどいた。

「どこにだよ」

 掠れた声で震えながらミラルダは叫んだ。どこにだよ!

「あんたわかってないんだ、こんなとこに来ちゃだめなのに。

 ここはダメだゴミ溜めなんだ。俺もゴミで……なあ帰ってくれよ!

もういいんだよ!」

 ホッジが少し離れたところからぬるりと医者に近づいた。医者の肩に細い腕を絡ませ、なあ、そうだよ帰ることはねえ。ちょっくら話を聞い−−−

 ホッジの記憶はそこで途絶えた。

 ジュストがホッジの頭に膝を入れたからだ。

 突っ立っているようにしか見えなかった医者が唐突にリーダーの頭に膝を入れたので取り巻きたちは怯んだ。医者はその怯んだうちの一人の胸元を掴み手近な壁に押し付ける。ホッジはそのまま土の上に倒れた。怯んだひとりの肺から空気が漏れる音がした。

「なあ」

 医者はゆっくりと口のはしを釣り上げる。

「二度とミラルダに近づかねえって約束はどうだ、できるか」

「で、きま、す」

よし、と医者はそいつから離れてホッジを足で転がし、ぽかんとしたミラルダの腕を掴んで早足に歩き出した。


「せ、せんせい」

 アルコールの入った足にはきつい速度で歩かせられながらミラルダがどうにか医者の歩みを止めたのは無言で二十分ほど歩いてからだ。街の奥まった、高い飲み屋と飲み屋の隙間に入り込んで(ホッジ達が追ってこないとも限らない)大きくミラルダは息をつく。医者はぐしゃっと自分の髪をめちゃくちゃにして

「なんども言うけどな、ミラルダ」

 振り返らず、声を張った。

「ジュストだ!」

「じゅ、」

「なんで言わなかった。」

 今度は振り返り、ジュストはミラルダを睨みつける。ミラルダは目をみはった。

「俺は信頼に足らないか」

「そんなことっ」

「おまえ、お前は」

 俺のことを好きなんじゃないのかだったら、と吐き出すジュストは目を潤ませていた。呆然としていたミラルダは、ジュストの肩に(アルコールのせいだけでなく)震える手を置いて彼の肩をさすった。

「ねえ、ジュスト……」

「俺はお前を信頼してる。

 懐っこく人のふところに易易入ってきといてすぐに離れようとするんじゃねえ!」

 言っとくが好きだなんだとかは置いといての話だからな!?

 叫ぶジュストの顔は真っ赤で、ミラルダは死んでもいいと思って笑った。

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