不思議な少年
「そこにいるのは誰だ。」
いけないところに入り込んでしまったらしい、と咄嗟に慌てて逃げようとしたが、足下に踏みしめる足場は無く、むなしく空回りしてつんのめって倒れる羽目になった。
「驚いた、君は覚醒しているのかい。どうしてここへ。」
彼は、彼はと云っていいのか、男性とも女性ともつかない少年期にあるような美しい容貌で、長いちりちりの髪にシルクハットをのせて、使いづらそうな不思議なウェーブのかかった杖を持っていた。身に着けている衣服も、いったいどこから着てどうやって脱ぐのやら、見当のつかない代物で、色も鮮やかなのはすぐに分かるが、赤かと思えば黄色かなと、まばたきする間に目まぐるしく変わってゆく。まるで僕の認識と追いかけっこしてるみたいだ。
「ここはいったいどこなんだい。」
訳のわからないことばかりだけど、とりあえず根本的なところを聞いてみた。それでも彼は、僕の質問に答えるでもなく話を続けた。
「君はよっぽど現世に縛りがないのだね。ここには普通、眠っている時にしか来られないものなのに。ほら、下を見てごらん。夢を見ている人たちがいるだろう。」
確かにそこには濃い霧で隔てられたなかで、薄ぼんやりと夢の中なのか生き生きと動く人の姿があちこちにあった。その霧は幾重にも重なり、地上近くまで何層も何層も続いているようだった。
「この近くまで来ている人たちは、夢のなかで規律やしがらみから解き放たれて奔放に活動しているんだ。でも、多くの哀れな人たちは夢のなかでさえ縛りを断つことができなくて、現実と寸分違わない夢を見て地上を離れられないんだよ。」
「ちょっと待ってよ。それじゃあ、ここは夢の世界なのかい。僕はアルバイトの帰り道で、眠ってなんかいなかったよ。どうゆうことなんだい。」
「夢と現実の境目のはっきりしない人がいるって云うのは聞いたことがあるけど、ここに覚醒したまんま押しかけて来た人はおそらく君が初めてだよ。薬物かなにかの助けを借りて、ここへ上がり込んで来る輩もいるにはいるけれど、そういう人間は普通の状態ではないから、眠っているのと変わらないものさ。君はきっと普段から夢みたいなことばかり考えているんだろう。そうに決まっているよ。」すっかり決めつけられてしまったけれど、僕に空想癖があるのは確かで、否定できない事実だ。そうなると云うと、どうも僕の方に責任があるらしいので謝ることにする。
「僕がここに無断で上がり込んじゃったのは悪かったよ。謝るけどさあ、僕は家に帰るところだったんだ。今日はただでさえ遅くなっちゃったから、早く帰らないと親が心配してるはずなんだ。ここからどうやって帰ればいいんだい。」
急に時間が心配になってあたりを見回すと、なんだそこに時計があったのかと見るのだけれど針のゆくえがわからない。そこに壁などあったかなと思うが、今はある壁の上の方に時計は掛かっている。僕の部屋の時計とよく似た形だと思う間もなく、アルバイト先の、いや学校のに似た形に思えてきた。時計の針は確かに二本、長いのと短いのがそれぞれの方向を指しているのだが、幾ら眼を凝らして見ても何時だかわからない。
「安心したまえ、ここでは地上のような時間の流れはないのだよ。いつでもあって、いつでもないのさ。だけど、どうやって君がここから帰るのか、これは難しい問題だね。ここに来る人間はみんな眠っているのだから、意識が覚醒すれば自然に帰る訳だ。でも、君は覚醒したまま来てしまった。目覚めたまんま夢を見ているのだから、どうすればいいんだか、悪いけどわからないなあ。」
「おいおい、冗談じゃないよ。僕には家族だって、好きな女の子だっているんだから帰らなければならないんだよ。頼むよ、助けてくれよ。」
ふわふわの髪の毛の間から覗く彼の顔は、よくよく見ると僕の好きな山本さんによく似た可愛いウサギ顔だった。最初からこんな顔だったかなあ、だとしたら彼ではなくて彼女と云った方がいいのかもしれない。そんな物思いから我に返ってあっと気がつくと、僕はあのドブ川の脇の道に立っていた。眼の前にはウサギ顔の彼もいて、眼を丸くして感心していた。
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