1.09 異世界へ
「ノワエさん、お待ちしていましたよ」
相変わらず鬱陶しい太陽と、周りからの視線を浴びながらやって来たのは天馬総括協会の本部。
ここに来ることは事前に連絡していたので、ローナさんは受付で待ってくれていた。私たちが入ってくると立ち上がり、そのまま十畳ほどの個室に案内される。
「どうも。忙しいのに悪いわね」
今日わざわざここに来たのは別世界へ行く申請をするためだ。
「今回も人探しですよね?」
頷く。
一般の魔族と天使が別世界に行けるのは百年に一回、期間は最長一か月間と決まっている。でも私はちょっとだけ特別扱いをしてもらっているので、二か月間は別世界で生活することができる。
その二か月間の間、姉さんの腹心であるジャヒーの妹、シアナを探す。
「ええ。今度はどこの世界を紹介してくれるの?」
シアナはずいぶん昔に魔界から追放されたらしく、ジャヒーはそれを止めなかったことをずっと後悔していた。
その話を聞いた姉さんは父さんに交渉し、ジャヒーを別世界に送りシアナを探させていた。しかし色欲領も暇ではない。月日が経つほど彼女は色欲領になくてはならない存在になり、長期間不在にするのは徐々に難しくなっていった。それにシアナはもう四千万年も昔に追放されているので、生きている望みはかなり薄い。こんなこと言うのは野暮かもしれないけれども探すだけ無駄だ。
けれども何とか時間を作って別世界に行こうとするジャヒーと、それを可能な限り実現しようとする姉さんの姿勢を見ていると、いたたまれなくなったというか、なんだか年中暇な私が場違いのように思えて、私が代わりに探すと言ったのだ。
申請や適性試験なんかが面倒くさいのは知っていたけれども、憧れの別世界に行けるのと、なんだかんだと色欲領の魔族たちにはお世話になっているから、それのお礼がしたい気持ちが勝った。
それに私が異世界に行って、ジャヒーの気持ちが少しでも晴れるなら安いもんだ。
「今回はこちらの世界です」
ローナさんが渡してくれた書類を確認する。リストラリアと書いてある。
別世界にしては珍しく、魔力が豊富にあるみたいだから、息苦しさはそれほど感じないだろう。
あと小さい世界というのも嬉しい。大きな世界だとどうしても複数回に分けて調べないといけないけれども、このくらいの大きさなら一回で調べきることができる。何回も同じ世界に行くのは色々と不都合があるんだよね。主にメンタル的な部分で。
「わかった。ここへ行くわ」
ぶっちゃけた話、どの世界を探したらいいかなんて皆目見当がつかないから、選定はローナさんに任せている。
「わかりました。じゃあここにサインを……」
私は渡された申請書に署名していく。書く枚数が多いのと、世界によって内容が少しずつ違うからいちいち目を通さないといけないのが面倒くさい。この手の書類はちゃんと目を通しておかないと、後々面倒なことになる。初めて別世界に行ったときにそれでやらかして、コンサンシュからかなり怒られた。
「ローナさん。エルンテって今暇かな?」
「エルンテ……。ああ。あのすごく髪の毛が長い子ですよね?」
ルルカが頷く。
「今日はアンスリューム様の部隊は、西の洞窟に行っているはずです」
「何かあったの?」
ペンを走らせながらローナさんに尋ねる。
「つい先日、洞窟イルカが大量死しているのが見つかったんですよ。それの調査です」
「へぇ。何か地殻変動でも起こるのかしら?」
洞窟イルカはその名の通り洞窟に棲むイルカで、体長は二十センチほどで百匹から二百匹程度の群れを作って生息している。洞窟イルカが大量死すると、大地震や巨大ハリケーンなどの天災が起きると言われている。まぁ多分迷信だろうけど、念のため洞窟内に亀裂がないか、辺りの魔力が乱れていないかなど、地殻変動の予兆がないかを調べに行くのだ。
「起こらないといいですけど。ちょっとアンスリューム様に繋げてみましょうか」
ローナさんの思い切った行動に思わず手が止まる。
「大丈夫?」
「たぶん大丈夫だと思います。重要来客からの通信となれば怒りはしないでしょう」
ローナさんが懐から出した水色の水晶に魔力を送る。少しすると、相変わらず無駄にイケメンな男、アンスリュームの顔が浮かび上がる。
「どうしたんだローナ。ってノワエとルルカもいるじゃないか」
私たちの名前に反応したのか、ムースがひょっこりと顔を出して手を振る。やっぱり一緒にいるのね。
「どーも。申請に来てやったわよ」
「なんだそんなことか。天界を奪いに来たのかと思って身構えたぞ」
「全世界最強のあんたがいるのに、天界を奪えるわけないでしょ?」
「ノワエを除けば確かに最強だな」
「あら、世辞を言っても力の差は引っくり返らないわよ?」
「世辞ではない。真実だ」
「冗談はほどほどにしてよ。どう考えても私の方が弱いわよ」
「何を言っているんだ。俺の方が弱いだろう」
「あらあら。どっちの方が弱いか決着をつける必要がありそうね」
「望むところだ」
「ちょっとノワエ様、脱線してる!」
スパンッ! といい音が部屋に響く。どこから取り出したのか、ルルカにスリッパではたかれた。
同じタイミングで、アンスリュームはムースに後頭部を殴られていた。骨が陥没するような鈍い音が聞こえる。ムースって本当に手加減ってものを知らない。
「ごめんごめん」
「ってかさ、いつも思うんだけど、なんでどっちが弱いかで争うの?」
「強くなったらわかるわよ」
自分が一番強くなりたくない。追われる身じゃなくて追う身でいたい。この気持ちは圧倒的な力を手にしないとわからない気がする。
ちなみにこんなことを言っているけれども、お互い本気で戦ったとして、アンスリュームに勝てる確率は五割より下だと思う。ちなみにヴァルハルトはどう頑張っても無理。手も足も出ない。
「わかりたくないから一生弱いままでいいや」
ルルカはそこらの上級魔族にひけ劣らないから、現状でも十分強い魔族だけれども、いかんせん比較対象が悪すぎる。
今この場にいる最も弱いローナさんにすら、簡単にひねられるだろう。
「で、ノワエ、何の用事だ?」
「アンスリューム、エルンテいる?」
私が口を開く前にルルカが水晶を独占する。ルルカを見て、水晶に映るアンスリュームは「そういうことか」と呟いた。
「エルンテ! こっちに来い!!」
こちらにやってきてアンスリュームと少し話した後、水晶を覗いたエルンテはルルカの顔を見て驚き固まる。
「やっほ。会いに来たよ」
「え、でも手紙には何も……」
「ほら、異世界への申請に行くって書いてたでしょ?」
「あ、今日だったのね」
「うん。行く日が決まったら連絡しようと思ってたけど、ノワエ様って書いた通りだからさ」
くすくすと笑うルルカとエルンテ。一応プライバシーってものを尊重して、手紙の中身は確認していないのだけれども、ルルカが手紙の中で私のことをどう書いているのかが気になってきた。絶対ろくでもないことを書いている。
「でもルルカ、今は仕事中だから会えるのは夜遅くなるよ」
「あ~。やっぱそだよね~」
ポリポリと後頭部をかくルルカ。
私の方を向き、「ノワエ様、何とかして」と目で訴えてくる。無茶を言うな。
いくらアンスリュームとムースがエルンテのことを心配していて、せっかくできた友達と楽しんでほしいと思っていたとしても、彼女だけひいきするわけにはいかない。
アンスリュームも出来れば二人で遊んでほしいのか、何か良い方法はないかと考えている。
一番簡単な方法は、エルンテの仕事が終わるまで私たちがここにいることだろうけど、私たちは天界に長い時間滞在することができない。
父さんは総会に出席するように言ったくせに、私が天界の連中を抱き込んで、大魔王の座を奪うのではないかと危惧しているのだ。もちろん私はそんなつもりはないけれども、父さんの横の領土を治める姉さんと仲が良く、閻魔大王であるヴァルハルトとも仲が良く、さらに協会の天使たちとも仲が良いなんて、むしろ「大魔王の座は狙っていません」と証明する方が難しい。だから父さんの言うことももっともだ。それでも総会に出席しないし、私が別世界に行くことは許可している。こういうところの父さんの考えが読めなくて怖いんだよね。
天界には長時間いられない。ならエルンテが魔界に来る。いや、それだと父さんは私が反旗を翻したと思い、絶対に手を出してくるだろう。まぁ反旗を翻すも何も、そもそも私は父さんサイドではないけど。
天界もダメ。魔界もダメ。ならば別世界。そこで閃いた。
「アンスリューム、エルンテ貸してくれない?」
「貸す……? お前まさか……?」
「そう。エルンテをこの世界に連れて行くわ」
途中まで署名した紙の束をアンスリュームに見せる。アンスリュームは驚いた顔をした後、大きなため息を吐く。
「お前な、そんなことを言われて、許可できると思うのか?」
「え、ダメなの? この前、お願い事を聞いたのに?」
お願い事とはルルカとエルンテが友達になることだ。別にこれ、お願いでもなんでもないんだけどね。
この二人は波長が合うらしく、私たちの予想をはるかに超えた仲良しだ。そのせいで別の心配ごとが出てきた。
「しかしだな……」
「いいんじゃない別に。エルンテも外の勉強ができるいい機会じゃん」
悩むアンスリュームと、どうしたものかと戸惑うエルンテ。それを見かねたムースが横から話に加わる。
ちなみにエルンテは、ムースの部下となる天使長守護隊のメンバーではなく、アンスリューム直属の部下だ。だからエルンテの運用の決定権はアンスリュームにある。
「ほら、私は期日守らないでしょう? お目付け役として派遣すればいいのよ」
先ほど私は特別に二か月滞在期間があると言ったけれども、それすらも守らない。いや、守らないって言っても一日二日の話だからね。誤差範囲です。
「……わかった。ただし、エルンテがいる以上、期間の延長は一切認めない。いいな」
「あら、いつもは認めてくれていたの?」
「そういうわけじゃないが……。お前もわかっているだろう?」
「わかってますって。今回はちゃんと帰ってきます」
いつもはなんだかんだと誤魔化してもらっているが、さすがに天使が同行するとなるとそうもいかない。
私がちゃんと帰ってこなかった場合、一番迷惑を被るのはエルンテだ。それはさすがに避けたい。
「なら許可しよう。ローナ、エルンテの申請も頼む」
「はい」
話を黙って聞いていたローナさんが眩しい笑顔で答えた。
魔界から別世界に繋がる門は向日葵畑のすぐ傍にある。天界へ行く際もこの扉を使う。
申請が終わった私たちはカーラの家を目指す。カーラの家で姉さんと落ち合い、報告をしてから家まで送ってもらうためだ。
全く関係のない話なのに、勝手に集合場所にされたカーラは、「いい迷惑よ」と言いながらもちゃんとお茶とお菓子を出してくれる。本当に破壊魔神の通り名が合わない魔族だと思う。
姉さんと落ち合うだけなら城に行けばいいのだが、城だと姉さんの玩具になってしまい、私は色々と搾り取られた状態で家に戻らなければならない。別世界に行く前にそうなるのは正直勘弁してほしい。だからそうはならないカーラの家を待ち合わせ場所にしたのだ。
……まぁカーラの家でやったこともあるんだけどね。
「あら~。ノワエちゃんお帰りなさい。喉乾いたでしょ。ほら、貪りついていいのよ」
畑と同じ、向日葵とお日様の香りがするリビングに入ると、姉さんが腰をくねくねさせながら近づいてきた。
「下着をずらすな近寄るな。ただでなくても暑いんだから」
「あら。じゃあ冷たい方が良いかしら?」
「……相変わらず淫魔って便利な体してるわね」
淫魔はその体を使って他の魔族を骨抜きにして生きてきたわけだけど、相手の好みっていうのはそれぞれあるわけで、それにある程度適応できなければいけない。そのため淫魔たちはある程度体を変えることができる。例えば髪の色を変えたり、顔を変えたり、あと胸やお尻なんかも弄ることができる。
そして姉さんほどの淫魔になると、ほとんどなんでもできるようになってしまうのだ。色欲の魔王に頼めば、どんな妄想も現実にしてくれる。というのは嘘ではない。
私も細かく分けると淫魔族に属するわけだけど、血が薄すぎて淫魔らしいことは何もできない。胸を大きく見せる魔法だけは会得したけど。
私が座ると、カーラが無言で紅茶を出してくれる。
「ミルクはいるかしら?」
私の横にやって来た姉さんがまた下着をずらす。
「いらないわ。ストレートの方が好きだし」
私は下着を元の位置に戻す。
「やんっ。色欲の魔王のミルクが飲める機会なんて早々ないわよ?」
「いりません。それにそんなもん飲んだら発情して大変なことになるわよ」
姉さんの、というか淫魔の体液には、性的興奮を高める成分が非常に多く含まれている。姉さんの話だと抑えようと思えば抑えられるらしいけど、自分たちの最大の武器をわざわざ抑えようとする淫魔はいない。というか淫魔は基本的に性的なことが大好きだから、仮にもっと強い武器があっても抑えようとはしないだろうけど。
その効力は魔力に依存するんだけど、魔王族で魔力が多い姉さんの体液に侵されると、恐ろしいほど高く飛べる。一般魔族だったら息を吹きかけただけで白目向くんじゃないかしら。下手したらあの世に行ってしまう。そのくらい強力なのだ。
「え、でも横から、今日もお姉さんのミルク飲みましょうねぇ~。って感じのイレアナの声と何かを吸う音、結構聞こえるけど」
「………………………」
否定できないのが悔しい。ちなみについこの間の夜はそんな感じだった。
「ノワエ、別に性的なことは悪いことじゃないし、恥ずかしいことでもないわよ?」
カーラが棚からケーキを取り出してくれる。美味しそうな夏みかんのケーキだ。
「それはわかってるわよ。ただ、私と姉さんの場合は普通じゃないでしょ」
「あら、普通のプレイがお望みだったのかしら。でも子供できちゃうわよ?」
「私たちはできないでしょうが」
魔王族はその身に子供を宿すことが出来ない。
諸説あるんだけど、体内に別の命が宿ると、魔王族に備わる防衛本能が働いて殺してしまう。というのが有力な説だ。
「ならカーラちゃんに産んでもらいましょうか」
「いやよ。あなたたちの子供なんて死んでもごめんだわ」
「あらら嫌われちゃった。じゃあルルカちゃん……はちょっと無理そうね」
「だね。たぶん死んじゃうよ」
魔王族の子供が必ず魔王族とは限らないんだけど、仮に魔王族を身ごもってしまった場合、母体はその大きすぎる魔力に耐えられずに、出産の際にほとんどが死んでしまう。私の母さんも私を産んですぐに亡くなったらしい。だから私は母さんを全く知らない。
魔王族を産むとなれば、魔力が豊富にあるカーラでも運が良くないと生き残れないだろう。それほど、体の中に大きな魔力が宿るって大変なことなのだ。
「でも本当に子供を宿せないのかしら?」
姉さんが私のお臍の下あたりを軽く押す。私の大事なところが刺激されて少し気持ちいい。
「試してみたら?」
「カーラ、あんたまで何言ってんのよ」
「でも今日はルルカちゃんがいるから、あんまり派手なことはできないわね」
先ほどまで私のお腹を突いていた人差し指を唇に当てて、残念そうな顔をする姉さん。
「あ、お気になさらずどうぞ」
ルルカは巻き込まれたくないのか、さっさと私を売り飛ばした。
私と姉さんの痴態は、認めたくないけれども日常的なものだし、ルルカやディースは見慣れているからどうとも思わないのだろうけど、助けるそぶりくらいはしてもいいんじゃないだろうか。
そういえばルルカが来てから一週間くらいの時に、姉さんが悪乗りしてルルカの目の前で思いっきり私を蹂躙したことがある。あの時はさすがのルルカも目を点にして、口が開きっぱなしになっていたっけ。あの時の表情は今でも忘れられない。
私がクスクスと笑うと、ルルカと姉さんが怪訝そうな顔をする。カーラは相変わらずつまらなさそうに私を見ている。
笑いを抑えるために紅茶を飲む。今日も少し酸っぱいカーラの紅茶。でもとても心が落ち着く。
私は一呼吸おいてから資料を取り出し、姉さんの前に置く。
「さて、と。次行く世界の説明をするわね」
五分ほど説明をした後、お仕事モードに入った姉さんは資料をじっくりと見ていく。その間、私たちは静かにお茶を楽しむ。
「今度こそ、シアナちゃんがいるといいんだけどね」
しばらくしてから、そう呟いた。
姉さんだってわかっているはずだ、ジャヒーの妹はもう見つからないって。
要因はいろいろあって、まずシアナのような弱い魔族は、別世界の移動に耐えられない可能性がある。さらに別世界が天界のように闇属性の魔力が少ない場所だと、魔力の少ないシアナは一年も持たずに衰弱死してしまう。魔力が少ないから別世界が崩壊するって可能性は極めて低いけど、現地住民や魔物、動物なんかに襲われてしまった可能性もある。生きている要因を上げる方が難しいほど、シアナの生存率は低い。
それでもジャヒーが、私財をなげうってまでシアナを探すのはどうしてなのか。それはわからないけれど、彼女が本気なことは間違いない。そして、それは姉さんも同じだ。
「……全力を尽くすわ」
「……お願い」
その後、少しだけ姉さんと打ち合わせをして、私たちは解散した。
「ありがとう姉さん」
「どういたしまして」
姉さんに空間を繋げてもらって、私は愛しのボロ洋館に帰ってくる。
「じゃあまた迎えに来るわ」
私が頷くと、姉さんは最後に投げキッスをしてから空間を閉じる。あと二週間もすればまた空間を裂くことになるので、私は空間を軽く修復しておく。
ルルカが館の扉を開けてくれる。立て付けの悪い木製のドアが、ギィギィと音を立てて開く。いつものことだけど、今日は私を歓迎しているみたいに聞こえた。
「おかえりなさいませ。ノワエ様」
中に入るとディースが頭を下げてくれる。こうして家に帰ったら誰かいるっていうのはやっぱり心地いい。
「ただいま。夕飯は?」
「もうすぐ用意できます。ルルカ、手伝って」
「は~い」
(じゃあ私は資料でも読んで待ってるか……)
ディースに続いてリビングに入ると、玉ねぎを焼いた少し甘い匂いが充満していた。カーラの家でケーキを食べけれども、年頃の女の子はあの程度じゃ足りない。私のお腹が匂いに反応して、早くご飯をよこせと要求してくる。
ディースは頭を下げてから、ルルカは「すぐ作るね~」と言いながら厨房に入っていく。
何か軽い物を出してもらおうかと思ったけどやめて、席に座って分厚い資料を確認していく。
リストラリアは本当に小さな世界だ。人間が住んでいる大陸はたったの一つ。その周りには無数の島が点在しているらしいけれども、人が住める大きさの島は無く、また海を渡るという発想がないみたいで、島は海鳥や水生生物の住処らしい。
人間界にしては珍しく魔力が多くて、五百年ほど前まではソードと呼ばれる、人間の形をした戦闘種族がいたらしい。その戦闘能力は驚くことなかれ、中級魔族程度だったらしい。中級魔族なんていうと弱そうに聞こえるけど、別世界の種族のほとんどが一般魔族以下、よくて下級魔族どまりだ。私が見てきた世界の中では断トツで強い。
資料をめくっていくと、簡単な歴史が書かれていた。そのソードと呼ばれる種族がいた五百年前に戦争を勝ち抜いた、エル・フィリア王国が大陸を統一したようだ。この世界が見つかり、協会が調査したのは三百年前ということだけれども、その時はまだ統一国家が続いていたらしい。今はさすがにそんなことないだろうけど、二百年の間存続しているってのは相当すごい。
良い匂いが私の仕事(?)の邪魔をしてくる。この匂いはシチューだ。お腹が早くしろと訴えかけてくる。
あとリストラリアは様々なスープが主食らしい。野菜や肉類もあるらしいけど、基本的にはスープを飲むことでお腹を膨らませる。そしてエル・フィリア王国はデザート王国としても有名らしい。私の興奮は今、最高潮だ。
「ノワエ様、お待たせ」
目の前に置かれた野菜たっぷりのシチューにお腹が大きな音を立てて反応する。私の頭の中もシチューのことでいっぱいだ。
資料をどこに置こうか悩んでいると、水を持ってきたディースが受け取ってくれる。
ルルカは私と一緒に食べるのだけれども、ディースは相変わらず私と一緒には食べない。でもたまに我が儘を言ってディースと一緒に食べる。せっかく同じ屋根の下で暮らす家族なんだから、そういうところはもっと楽にしてほしいんだけどね。
「いただきます」
大きなジャガイモとをぱくり。うん、今日も美味しい。ディースの料理は本当に美味しい。本当に真面目で欠点のない、私には勿体ない素晴らしい従者だと思う。
ルルカと他愛のない話をしながらシチューを食べる。私にとって至福の時。
美味しい物はすぐに無くなるし、楽しい時間はあっという間に過ぎる。ゆっくり食べていたつもりだったけれども、すぐにお皿が空になった。
「ごちそうさま、今日も美味しかったわ」
「お粗末さまでした」
軽く頭を下げるディース。
私たちの食器を片づけて、今度はイチゴふんだんに使ったロールケーキを持ってくる。これもとても美味しそうだ。
私って結構いい生活をしているけど、仕送り金額は二人を雇っているとは思えないほど少ない。でも週に一回くらいはフルコースだし、そうでない日でもこうしてデザートなんかが付いてくる。食材もそこそこ良いのを使っているし、このボロ洋館も我慢できるところはボロのままだけれども、本当に危ない個所はケチることなく直している。さらに二人のお給料も仕送りから捻出しているから、ディースのやりくりは相当上手い。たまに家計簿を見せてもらうけど、よくもまぁそんなに上手く回せるなと思う。
まぁそれもディースが信じられないくらい低賃金なのと、ルルカが我慢しているから成り立っているだけだ。
私が、例えば色欲領なんかで働ければこうはならないんだけど、父さんは私とその従者が特定の組織に属し、賃金を得ることを禁止している。たまに姉さんから依頼があるけれども、あれだって成功報酬などはもらっていない。普段の仕送りに含まれているのだ。
姉さんからの仕送りだって、姉さんが父さんとかなり根気よく交渉してくれたからある物だ。あれがなかったら今ルルカはここにいないだろうし、私たちはもっとひもじい生活をしていただろう。
デザートを食べ終わると、後片付けをするためにルルカが席を立つ。私は資料をもう一度確認する。
リストラリアは最近見つかったということもあって、まだまだ調査が進んでない世界の一つだ。ローナさんからはついでにいろいろと調べてください。と、調べてほしいことが書かれた紙を渡された。これを埋める義務は無いのだけれども、私はこっそりとシアナの捜索を協会にもお願いしているから、無下に断るわけにもいかない。さすがに全項目埋める気はないけどね。
(さて、どんな世界が待っているのかしら……)
別世界に行くのは慣れてきたけれども、胸の高鳴りはやっぱり止められない。頭では落ち着かないといけないってわかってるんだけどね。これからしばらく眠れない夜が続きそうだ。
「はい。これでオッケーよね?」
二週間後、私たちはまた天界に来ていた。
「……はい。問題ありません。腕輪を持ってきますから、少しお待ちくださいね」
私たちがサインした同意書やら契約書を確認してから、ローナさんが席を外す。
「また腕輪かー」
「仕方ないよ。私たちがそのまま行ったら、世界が崩壊しちゃうから」
ルルカの横に座るのはエルンテ。前に会った時よりも髪の毛がふわふわと動いているのは、ルルカと一緒に旅ができて嬉しいからだろう。
ヴァルハルトまでとは言わないけど、アンスリュームもお堅い性格をしているから本当に許可するとは思わなかった。少し前のアンスリュームだったら考えられない。
「あなたたち二人だったら、腕輪をつけなくても大丈夫だと思うわよ」
ルルカとエルンテの魔力を足すと一般的な魔神族くらいの魔力になるだろうけど、今回行くリストラリアはそれくらいなら耐えられるほど魔力が多い。一般魔神族どころかルルカの魔力でも崩壊する世界も多い中で、それ以上の許容がある世界は本当に珍しい。エルンテに関してはリストラリアに行くのに腕輪すら必要ない。
「じゃあノワエ様、待ってる?」
「遊びに行くわけじゃないのよ? あんたら、二人でシアナを探して、これのチェックもできるの?」
ローナさんから渡された三十枚以上の紙を見せると、ルルカがあさっての方向を向いて口笛を吹く。それを見てエルンテがクスクスと笑っている。
今回の旅の目的はエルンテにもきちんと伝えてある。エルンテには何の関係もない話なんだけど、彼女は快く手伝うと言ってくれた。こんな良い子なのに、仲間外れにするなんてやっぱり天使どもは。と思ってしまう。決めつけるのはいけないことなんだけどね。
「お待たせしました」
ローナさんが持って来た腕輪を填めるとなんだか体がだるくなる。でもいつもよりはマシだ。魔力が豊饒にある世界は嬉しい。世界によっては歩くのも億劫なほど魔力を制限されるしね。まぁこの腕輪は、私には一切効かないわけだけれども。
ルルカの腕輪がちゃんと効力を発揮していることを確認してから私は立ち上がる。
「さて、行きましょうか」
ローナさんに連れられて、私は天界にある異世界の扉へ向かう。
「ちゃんと期日を守ってくださいね」
「わかってるって」
「いつも延びても何とかなっていますけど、今回はエルンテさんもいますから、きっちりとお願いしますよ」
「はいはい。頑張って帰ってくるわ」
「絶対にですよ」
「はぁ、わかったわよ。事故らない限りはきちんと帰ってきます」
「はい。では、お気をつけて」
いつにもましてローナさんの笑顔が怖い。ローナさんは強くないけど、怒らすとかなり怖いからなぁ……。
「さて、ルルカ、エルンテ、準備は良い?」
「うん。いつでもオッケーだよ」
「はい。私も大丈夫です」
私は扉に手をかざす。すると扉が青紫色に光る。
ローナさんにも手伝ってもらって、扉の先をリストラリアに繋げる。
「これでオッケーかしら?」
「……はい。問題ありません」
ローナさんがゆっくりと手を放す。
「じゃあ行ってくるわ」
「お気をつけて」
私が魔力を扉に込めると、扉が一気に開き、目を開けていられないほどの光が私たちを包み込む。そしてその光に掴まれるような感覚とともに扉に引きずり込まれる。方向も感覚も全てが無くなった真っ白な空間の中で私たちは佇む。どれだけの時間がたっているのかもわからない。完全な無の世界。しばらくすると一瞬だけ体が浮き、目の前を支配していた白い空間が消えていく。
ゆっくりと目を開けると森の中だった。木々の間から差し込む光は眩しいはずなのに、先ほどまでの空間のせいでむしろ暗く感じる。
見たことのない景色、感じたことのない風、そして闇属性の少ない世界。どうやら無事にリストラリアにたどり着いたようだ。
(ルルカとエルンテもいるわね……)
私の後ろには、いつも通り手を頭で組んでのんびりとしているルルカと、新しい感覚に少し戸惑っているエルンテが立っていた。
(さて、この世界にシアナは居てくれるのかしら……)
シアナを見つけたい気持ちと、それは叶わないだろうとわかっている頭。そして、見つけてしまえば私の定期的な別世界旅行は無くなってしまう。それらがぐるぐると渦を巻いて、ごちゃごちゃに混ざっていく。
私は大きく息を吸い込んで、いらない考えを吐き出す。未来のことは私にもわからない。私はシアナを見つけることと、この世界のことをできるだけ調べることの二つをしっかりやればいい。
「さて、行きましょうか」
「うん」
「はい」
私たちはエル・フィリア王国へ向けて歩き出した。
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