第32話 飛び込んでみよう

「小巻さん? だよね」

 長い黒髪。

 シャープな顔のラインに、つんと高い鼻。

 控えめな唇。

 振り向いたその人は、紛れもなく、小巻さんだ。

 半袖のブラウスに夏っぽい水色のスカートで、少しおしゃれした小巻さんが、僕の目の前にいる。


「小巻さんでしょ?」

 僕が問いかけても、小巻さんは答えなかった。

 びっくりしていて、普段から大きな目をもっと見開いている。


 会えなくなってまだ一ヶ月くらいしか経ってないのに、もう、十年くらい会ってないみたいに、懐かしい。

 告白した観覧車が、遠い昔のことのようだ。

 そのあと付き合うようになって、放課後、デートしてた時の思い出が、セピアカラーでよみがえってくる。



「よかった、無事だったんだ」

 こうして見る限り、小巻さんの様子に変化はなかった。

 服装もしっかりしてるし、顔がやつれているなんてこともない。

 長い髪も艶々だし、ちゃんと美容室とかにも行ってるみたいだ。


 まず、そのことに安心する。



「こんなふうに、騙すみたいにして、誘い出してしまって、ゴメン。でも……」

 僕は謝った。


 だけど、小巻さんは何も言わずに後ずさりする。

「こんなことしたくなかったんだけど、でも、突然いなくなって、小巻さんが心配だったし、どうしても、もう一度会いたくて」

 僕が言うと、小巻さんは首を振った。

 ぶんぶんと首を振って、その長い髪が乱れる。


「違うの」

 小巻さんが小さな声が聞こえた。


「えっ?」


 すると小巻さんは、突然、僕に背を向けて走り出す。

 逃げるように、通りを向こうへ走っていった。


「あっ、ちょっと待って!」

 僕が慌てて追いかけようとしたら、丁度、すぐ横の居酒屋から、大学生くらいの集団が出てきて、歩道を塞いだ。

 僕は人混みにはばまれて、身動きとれなくなる。

 そのうちに、小巻さんはどんどん先に走っていく。


「すみません。通してください」

 僕は、大学生の集団をなんとか抜けて、小巻さんを追いかけた。


 歩道を行く人と何度もぶつかりそうになりながら、小巻さんの白いブラウスの背中を追いかける。


 ここで逃げられたら、もう、一生、小巻さんと会えないような気がした。


 小巻さんを見つけたドキドキが治まってないうちに全力疾走してるから、心臓がはち切れそうだ。



 やっとその背中に追いつきそうになったところで、小巻さんが手を挙げて、タクシーを止める。

 開いたドアに、小巻さんが滑り込んだ。

 僕の手が、小巻さんに触れそうになったところで、タクシーのドアが閉まった。


「小巻さん!」

 僕はタクシーの窓に手をついて呼びかける。

 ガラス一枚隔てて、小巻さんと目が合った。


 ごめんなさい。


 車の音と雑踏で声は聞こえなかったけど、小巻さんの口がそんなふうに動いた気がした。

 小巻さんが乗ったタクシーは、僕を置き去りにしてそのまま走り出す。


僕はしばらく車道を走って追いかけたけど、タクシーは信号に引っかからず、そのまま夜の街に消えてしまった。


 僕は、歩道に戻って、ガードレールにもたれて座り込んだ。

 まだ、心臓が暴れている。


 同じように走ってきた和麻呂と園乃さんが、僕に追いついた。




「ばかやろう。慎重にやらなきゃいけないのに、なんで突然、声かけたりしたんだ!」

 和麻呂が僕に強い口調で言った。


「ごめん」

 和麻呂が言うことはもっともだ。

 ふらふらと車から出て声をかけた僕が馬鹿だった。

 でも、目の前に小巻さんがいて、その背中を見詰めていたら、自然に体が動いていた。

 いつの間にか、車から降りて、声をかけてたんだ。


「これで、もう、小巻さんは二度とオフ会とかに出てこないだろうな。完全に彼女を探す手掛かりがなくなった」

 和麻呂が言う。


 和麻呂が言うとおり、これで小巻さんは完全に警戒してしまっただろう。

 オフ会どころか、あの掲示板に書き込んだり、アクセスしたりするのも止めてしまうかもしれない。


 小巻さんの居場所を知る、唯一の手掛かりが絶たれた。

 自分から、希望の芽をんでしまった。


 和麻呂の肩の上で、スマートフォンの超子様と笑子さんも、渋い顔をしている。



「もう、しょうがないよ。瑞樹君だって、夢中だったんだから」

 園乃さんがそんなふうに言って僕をかばってくれた。


 園乃さんのスマートフォン、竜人は、哀れんだような視線で僕を見ている。




「あれ、そういえば、花圃ちゃんは?」

 和麻呂が訊いた。


「えっ?」

 和麻呂に言われて、僕は初めて自分の肩の上を見る。

 そこにいるべき花圃がいなかった。

 ジャケットの胸ポケットにも、内ポケットにもいない。

 まさかと思って探ったけど、ズボンのポケットにもいないし、体にすがりついてるなんてこともなかった。


「あの人混みの中で、落としたのかも」

 大学生の集団とすれ違ったときに、落としたのかもしれない。

 僕は大学生とすれ違った居酒屋の前に戻って、その辺を必死に探した。


 僕は小巻さんのことに夢中になっていて、花圃がいなくなったことさえ、気付いてなかった。

 小巻さんがいなくなった上に、花圃までなくすなんて……


 歩道の脇の側溝や、放置自転車のかごの中、自動販売機の裏とか探したけど、花圃はいなかった。

 大学生が出てきた居酒屋の受付で、スマートフォンの落とし物がなかったか訊いたけど、そんな落とし物は届いてないって言われる。


「落ち着け、笑子さんに電話をかけてもらうから」

 和麻呂が言って、笑子さんが頷いた。

 笑子さんがすぐに花圃を呼び出してくれる。


 でも、中々繋がらないみたいだ。

「電波が安定しなくて、繋がりません」

 笑子さんが言う。


「『端末を探す』の機能で探してみよう。あれなら通話より微弱な電波で居場所が分かるはずだ」

 和麻呂が言った。


 僕達は園乃さんの車に戻って、和麻呂がノートパソコンを開く。

 僕のアカウントでログインして、花圃の居場所を探した。


 こうして、和麻呂になくした花圃を探してもらうのは、これで二回目だ。



「おい、花圃ちゃん、凄いスピードで、移動してるぞ!」

 和麻呂が言う。

 途切れ途切れだけど、花圃の位置が地図上に赤い丸で表示された。

 それを見る限り、花圃は、道路上を車が走るようなスピードで移動している。


「もしかして、小巻さんが乗ったタクシーに紛れ込んだんじゃないの!」

 園乃さんが興奮した声を出した。


 僕が花圃を落としたんじゃなかったってことか。

 僕が小巻さんの肩に触れそうなくらい近づいた、あのどさくさで、花圃が僕の肩からタクシーの中に飛び込んだとか、タクシーのどこかにすがり付いてるとか、そういうことだろうか?


 僕のことを思って、花圃が必死に小巻さんに食らいついたのかもしれない。



「花圃ちゃんから、和麻呂様宛にメールが来てます。電波が悪い中で、送ってきました」

 和麻呂のスマートフォン、笑子さんが言った。


「読んで!」

 和麻呂が言う。


「私、今、小巻さんのタクシーに乗ってます。足元に隠れてます」

 花圃が送ったメールを、笑子さんがそんなふうに読み上げた。

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