第23話 防水性能を試そう
空には灰色の雲が次々に流れてきて、あっという間に空が覆い尽くされてしまった。
まだ四時過ぎなのに、辺りは真っ暗になる。
「雨が降りそうだから、帰ろうか」
小巻さんが言った。
「うん、そうだね」
残念だけど、僕はそう答える。
僕と小巻さんは、放課後のデートを楽しんでいた。
デートといっても、商店街をぶらぶらして、本屋を回り、「せるくる」でケーキを食べる、たわいない、それでいてすごく幸せな、いつものデートだけど。
「小巻さん、傘持ってきた?」
「ううん、朝晴れてたし、天気予報も雨なんて言ってなかったから、持ってこなかった」
今日の小巻さんは、なんちゃって制服だ。
チェックのスカートに、ワイシャツを腕まくりして、大きな紺のリボンを付けている。
「それじゃあ、これ、持ってって」
僕はそう言って、小巻さんに自分の折りたたみ傘を渡した。
この傘は、突然の雨に備えて、いつも鞄の底に入ってるヤツだ(入れっぱなしで出すのを忘れていたともいう)。
「駄目だよ。今にも雨降りそうだもん。瑞樹君が濡れちゃうよ」
小巻さんは僕に傘を返そうとする。
「大丈夫、自転車でぶっ飛ばして、降る前に帰るから」
僕はそう言って、押しつけるように傘を渡した。
「ありがとう」
小巻さんがほっぺたに笑窪を作って言う。
「こうやって傘を貸せば、返してもらうときにまた会えるっていう、高等戦術」
僕が言うと、小巻さんは「もう」って言って、クスクス笑った。
ホームまで送ろうとしたけど、小巻さんが雨が降る前に早く帰ってって言って、僕達は駅の改札で別れた。
改札で小巻さんの後ろ姿を見送ったところで、ぽつぽつと、空から大きめの雨粒が落ちてくる。
まずい。
僕は駅横の駐輪場の階段を駆け上がって、自転車をピックアップした。
駐輪場を出る頃には、雨は本降りになっている。
ゲリラ豪雨というのか、すぐに道路脇の側溝のところが、川みたいになった。
同じように駐輪場を出られなくなった人達が、駐輪場の屋根の下で雨宿りしている。
少し待ってみたけど、当分雨は止みそうになかった。
「母さんに車で迎えに来てもらおうか」
灰色の空を見ながら、僕は肩の上の花圃に言う。
「それじゃあ、電話かけてみる」
花圃がそう言って電話してみるも、家の固定電話は留守電になっていた。
続いて、花圃は母の携帯電話にかけてみる。
「お母様、出かけてるみたいよ。ここに来るまで、一時間半くらいかかるって」
花圃が肩をすくめて言った。
「雨の中を走ってくしかないかも」
駐輪場で一時間半も待っていられない。
雨は止みそうもないし、少し弱まった隙を突いて、自転車で走るしかなかった。
「花圃は、鞄の中に入っとく?」
僕は訊いた。
濡らさないよう、コンビニのレジ袋にでも包んで、鞄に入れておこうか。
「私はIPX8の防水性能を持ってるから、雨くらい大丈夫よ」
花圃が言った。
IPXっていうのは、防水性能に関する等級で、8は、最高ランクらしい。
「プールで泳ぐことも出来るくらいだし。水深5メートルまで平気だし」
花圃が誇らしげに言った。
どうでもいいけど、花圃、泳げるのか。
それならばと、花圃は胸ポケットに入れた。
「よし、行こう」
少し、雨が弱まったところで、僕は踏ん切りをつけて、雨の中に自転車をこぎ出す。
急な雨で送り迎えする車が増えたためか、駅から大通りまで、酷い渋滞になっていた。
商店街では店先の商品を片付けたり、傘袋を出したり、忙しそうだ。
途中、トラックに水をかけられて濡れ、深い水溜まりを突っ切って水しぶきを上げながら、僕は家路を急いだ。
雨は、強くなったり、弱くなったりを繰り返したけど、ずっと止まなかった。
僕は上に着ている服どころか、パンツまでびっしょり濡れてしまう。
「ちょっと瑞樹、どうしたの! ずぶ濡れじゃない!」
玄関のドアを開けると、姉が悲鳴に似た声をあげた。
「待ってなさい。そこから動くんじゃないわよ」
姉はそう言って、バスタオルを何枚も持ってきてくれる。
僕はそのまま風呂場に連れて行かれて、ずぶ濡れの制服を着替えた。
姉は僕の部屋から、着替えのスエットも持ってくる。
「髪もちゃんと拭きなさいよ。風邪ひいたら大変だし」
姉は言った。
普段、口が悪いくせに、こういうときは世話を焼く。
もう一人、母がいるみたいだ。
「大丈夫だよ」
もう夏だし、これくらいで風邪ひくわけがない。
僕だけじゃなくて、花圃もずぶ濡れだった。
花圃は、自分で濡れたスマホケースを脱ぐ。
カーディガンにシャツ、スカートからパンツまで、全部脱いだ。
ちょうどいいから、僕の制服と合わせて、花圃のスマホケースも洗濯してしまうことにした。
タオルで花圃を拭いて、髪をドライヤーで乾かす。
花圃の体は水を弾いて、さっと一拭きするだけで、乾いてしまった。
「ほらね、水に濡れてもなんともないでしょ?」
花圃が自慢げに言う。
水に濡れても、花圃はいつものようにちょこちょこ元気に動いていた。
さすが、最新機種のスマートフォンだ。
僕達がそんなことをしてたら、小巻さんから電話が掛かってくる。
「雨、大丈夫だった?」
僕は花圃を肩に乗せて、通話しながら自分の部屋に戻った。
「うん、ギリギリセーフで、家の前で降り出した」
僕は嘘をついた。
でも、これはついていい嘘だと思う。
「私も、瑞樹君から傘借りたおかげで濡れなかったよ」
小巻さんが言った。
良かった、小巻さんが濡れなかったなら、僕がずぶ濡れになった意味もある。
僕達はそのまま、長電話した。
雨のせいでデートを早めに切り上げて、消化不良だったし。
姉がちゃんと髪を拭きなさいって言った忠告を聞かずに、長電話したからか、僕はその夜熱が出て、見事に風邪をひいた。
「ほら、タオル替えるわよ」
花圃がそう言って、僕の額から、タオルを外す。
ゲリラ豪雨に襲われた翌日、僕は学校を休んでしまった。
熱を出して、自分のベッドでうなされている。
花圃が僕のおでこに乗せたタオルを、洗面器の水で濡らして交換してくれた。
深夜からずっと、花圃はひとときも休まずに看病してくれている。
バッテリーが切れそうになると、ちゃんと自分で充電台に乗った。
姉が、「ほらみなさい」て感じで部屋に来て、僕に無理矢理バナナとヨーグルトを食べさせる。
「食べないと元気にならないし、薬飲むんだから、胃の中に少しはなんか入れとかないとだめでしょ」
姉はそんなことを言って、僕の世話をした。
午前中は、そんなふうに熱でうなされて
「瑞樹君」
どれくらい横になっていただろうか。
うとうとしていたら、小巻さんの声が聞こえた。
静かに目を開けると、目の前に小巻さんがいる。
やばい、幻まで見るようになった。
「瑞樹君、大丈夫」
小巻さんが言う。
僕の目の前にいる小巻さんは、本物だった。
本物の小巻さんが、僕のベッドの脇に立っている。
「朝、電車に来なかったから心配してたら、和麻呂君に休んだって聞いて、花圃ちゃんに連絡して、お見舞いに来たの」
小巻さんが言った。
「ごめんね。私が傘持ってったから……」
小巻さんが表情を曇らせる。
「ううん。そんなことない。あの雨なら、どうせ傘さしてても濡れてたし」
小巻さんに、気にしないでって頼んだ。
いいって断ったのに、しばらく小巻さんが、花圃に代わって僕のタオルを替えてくれた。
小巻さんは僕の机の椅子に座って、ベッドに付きっきりでいてくれる。
小巻さんのみーしゃも、僕を心配そうに見ていた。
小巻さんがタオルを替えるたびに、顔が近づいて、ドキドキする。
喉が渇いて、小巻さんが水を飲ませてくれて、お土産に持ってきてくれた桃のゼリーを食べさせてくれた。
スプーンで
風邪で味が分からなかったけど、多分、僕が今まで食べた物の中で一番美味しかったと思う。
「そうだ、和麻呂君が、またダブルデートの計画立ててるって言ったよね」
小巻さんが僕に訊いた。
「うん」
「和麻呂君、みんなで海に行く計画立ててるみたいだよ。
小巻さんが言う。
和麻呂の奴、そんな計画を立ててたのか。
「それで、園乃さんと一緒に、水着、買いに行くの?」
僕は訊いた。
「うん、持ってないから、一緒に行こうかなって」
小巻さんが少し下を向いて恥ずかしそうに言う。
小巻さん、和麻呂の計画に乗ってくれるつもりなのか。
僕と一緒に海に行ってくれるのか。
「だから、早く風邪、直さないとね」
小巻さんが言った。
直す。絶対に直す。
だけど、小巻さんと海に行けるとか、園乃さんと水着買いに行くとか、そんなこと聞かされたら、僕はもっと熱が出てしまう。
「それじゃあ、ゆっくり休んでね」
二時間くらい僕を看病してくれて、小巻さんは帰った。
「良い子じゃない」
小巻さんが帰った後、姉が部屋に来て言う。
「これで私も、瑞樹の面倒見るのから解放されるかな」
姉はそんなことを言った。
言い返そうとしたけど、まぶたが重くなって、薬のせいか僕はそのまま眠ってしまった。
眠る前、最後に姉が僕の布団を直して、タオルを替えてくれたのを覚えている。
結局、僕は二日間学校を休んだ。
熱でうなされているのよりも、朝、小巻さんと一緒に学校に通えないのが、苦しかった。
三日後、やっと小巻さんに会えるって、いつもの電車の、いつものドアのところに行く。
そしたら、そこに、小巻さんはいなかった。
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