第6話 カメラ機能を使ってみよう
「起きて」
薄ぼんやりととした光景の中で、そんな声が聞こえた。
「起きて」
目を開けると、僕の目の前に女の子が立っている。
「起きて」
シャープな輪郭に高い鼻、少し茶色がかった長い黒髪。
いつも僕が電車で見掛ける、あの、彼女だ。
「起きて」
僕達は電車に乗っていて、ガタゴトと、レールの振動が伝わってきた。
彼女は席に座っている僕の前に立って、僕を見下ろしている。
「起きて」
ほんのりとピンク色の、彼女の控えめな唇が言う。
「起きて」
彼女がそう言って僕に顔を近づけてくるから、その長い髪が僕の膝に触った。
「起きて」
彼女は僕を見ているのに、どこか遠くを見ているような、
「起きて」
その目は言外に、何か僕に訴えかけているみたいだ。
「起きて」
「起きて」
「起きて、ほら、起きなさい!」
目を覚ますと、スマートフォンの花圃が、耳元で大声を出していた。
花圃は机から枕元に下りて、僕のほっぺたをぺしぺしと
「ほら、いつまで寝てんの! 学校、遅れるわよ!」
さっきのは夢だったみたいだ。
電車で一目惚れした、あの彼女が目の前に来て、僕に何か訴えかけた夢。
それが夢だったのは残念だけど、今の僕には、夢で会えただけで幸せだ。
「おはよう」
僕がしょぼしょぼの目で言うと、
「おはよ。やっと目を覚ましたわね、ほら、とっとと、顔洗ってらっしゃい」
花圃が、母親みたいに言った。
昨日の夜セットして、花圃の目覚まし機能を初めて使ってみた。
ツンデレ設定の花圃は、大声とキックで僕を起こしてくれるらしい。
力を加減したキックはまったく痛くないけど、ぺしぺしされるのは気になるから、確実に目が覚めると思う。
目覚ましとしては、合格だ。
「あんたが眠ってる間に、メールが12件届いてるわよ。うち7件はスパムメールとして処理したわ。残り5件、読み上げてもいいけど」
花圃が言う。
「お願い」
僕が頼むと、花圃が肩に乗って、耳元でメールを読み上げた。
どれも、僕の数少ない友達からの、他愛ないメールだ。
花圃の機種を勧めてくれた和麻呂から、「スマートフォンどんな感じだ?」っていう、メールもあった。
スマートフォンマニアの和麻呂としては、新機種が気になるらしい。
登校したら、和麻呂に花圃を思いっきり自慢してやろう。
「あらあら、女の子からのメールは一件もないのね」
全部のメールを読み終わったあとで、花圃が言った。
「ごめん」
なんか、謝ってしまった。
「まっ、私があなたを独り占めできるから、別にいいんだけど」
花圃が言う。
そう言って、顔を真っ赤にした。
「ば、馬鹿! 変なこと言わせるんじゃないわよ!」
こんなふうに突然、デレの部分を出してくるから、花圃のことが愛らしく見えてくる。
洗面所で顔を洗って着替えをしながら、花圃に口頭で伝えてメールの返信をしてもらった。
天気予報と、ニュースのトピックも聞く。
トピックの中には、取り立てて興味を惹かれるようなニュースはなかった。
「はい、顔を見せて。鼻毛なんか出てたら、女の子にもてる以前の問題だからね」
花圃に洗い上がった顔をチェックされる。
「瑞樹! ご飯よ、下りてらっしゃい」
一階から、母が呼ぶ声が聞こえた。
「今行く!」
僕は花圃を肩に乗せて、一階に下りる。
キッチンには、僕の弁当を用意している母と、テーブルについてトーストを
東京まで新幹線通勤している父は、朝早く出掛けていて、もう家にはいない。
大学が昼からで、まだぼさぼさ頭の姉の
毎日のことだけど、自分のスマートフォンにそんなことまでやらせている姉には、正直、呆れる。
「おはよう」
僕が言うと、
「おはよう、早く食べなさい」
母が言って、
「んはおう」
パンを齧ったまま、姉が言った。
「
ミズキだけが、手を休めて言う。
この中で彼が一番、丁寧だ。
僕は、トーストとハムエッグ、サラダとコーンスープに、ホットチョコレートで、朝食を済ます。
テーブルの隅では、ミズキと花圃が挨拶を交わしていた。
この前ミズキに見てもらったとき、花圃の充電は切れていたから、この二台が言葉を交わすのは、これが初めてだった。
二台は向かい合って頭を下げ、握手をする。
ビジュアル的には握手にしか見えないけど、二台はバックグラウンドで、膨大な情報を交換しているんだろう。
「まあ、瑞樹のスマートフォン、可愛いじゃない」
花圃ことが初見の母が言った。
母は、まだ携帯電話を使っている。
スマートフォンは難しそうだからと、当分、替えるつもりはないみたいだ。
「よろしくお願いします。お母様、お姉様」
花圃はそう言って、母と姉に頭を下げた。
ツンデレ設定のくせに、母と姉に対しては礼儀正しい。
朝食を急いで食べて、僕は家を出た。
最寄り駅まで15分、自転車を飛ばす。
落とすといけないから、花圃は肩に乗せないで、制服のブレザーの胸ポケットに入れた。
ポケットから上半身を出した花圃は、前を見て周囲に目を走らせている。
「そこ、左折してガード下の道に
自転車でも花圃がナビゲートしてくれた。
僕の自転車のスピードと、もうすぐ踏切にさしかかる急行電車の位置から計算したみたいだ。
おかげで、僕はいつもより5分早く駅に着いた。
普段ギリギリで抜ける改札を、今日は余裕を持って通ることが出来る。
僕は、いつもと同じ電車、いつもと同じ車両に乗り込んだ。
世界は先週とまったく変わってない。
でも、僕の胸ポケットには、今、花圃がいた。
それだけでなんか、自分が新しくなったような気がする。
乗り込んだ車内は、通勤通学の時間だから、それなりに混んでいた。
都会みたいにぎゅうぎゅう詰めではないけど、座ることはできない。
僕はいつもと同じ位置で、つり革を持った。
「あの子でしょ?」
走り出した電車の中で、花圃が僕の耳元で囁く。
「うん」
僕は答えた。
いつもと同じドアの脇に、彼女が立っている。
今日の彼女は、水色のスプリングコートに、ボーダーのニットを着ていた。
その大きな目で、
今朝、夢で見てしまったから、いつもより、余計にドキドキした。
可愛いけど、やっぱり、彼女はどこか
「写真撮っておいてあげましょうか?」
花圃が囁いた。
「お願い」
僕は小声で短く言う。
「分かったわ。もう、世話が焼けるわねぇ」
花圃が、憎まれ口をたたきながら、顔のデュアルカメラを彼女に向けた。
顔のデュアルカメラとは、すなわち、花圃の目だ。
昨日の夜、パソコンでマニュアルを読んだところによると、この機種は、顔のデュアルカメラで、活動している間はずっと動画を撮影していて、そこから必要な静止画を切り出すらしい。
しばらく、ばれないように横目で見ていたら、突然彼女が「くしゅん」って、くしゃみをした。
カワイイ。
シャープな印象の彼女が、「くしゅん」って可愛い声を出したのだ。
そういえば、彼女の声、初めて聞いたような気がする。
「今のくしゃみのシーン、切り出してGIFアニメにしてあげるわね」
花圃が言った。
さすがは花圃、僕の萌えポイントを分かってる。
でも、あんまりやり過ぎると、盗撮するストーカーみたいになっちゃうから、ほどほどにしてほしい。
すると、僕と花圃の熱い視線に気付いたのか、ふいに彼女がこっちを見た。
僕はさり気なく目を逸らす。
ところが、僕の肩の上の花圃が、勝手に彼女に向けて手を振り始めた。
「おい! 何してるんだ」
僕は、びっくりしたのを隠して、なるべく口を動かさないようにして、小声で花圃に言う。
「いいじゃない。別に」
花圃はそう言って、手を振り続けた。
手を振る花圃を見て、彼女がクスッと、笑ったような気がする。
そして彼女はまた、窓の外に視線を戻した。
いつもの物憂げな表情に戻る。
僕たちのこと、怪しまれなかっただろうか。
まったく、朝から花圃には冷や冷やさせられる。
それから電車を降りるまで、僕は気が気ではなかった。
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