「なぜ……目覚めない?」


  影は顔を歪めた。

  彼女はいつまで経っても目覚めない。


  雪のように白い肌に長い睫毛が影を落とし、小さな赤い唇からはかすかな息が漏れている。

  美しい彼女は夢を見ているのだろうか。

  その姿のように美しい夢を。


「早く目をお開けなさい。君はもう僕のものなのですから」


  影は彼女の側に手をつき、顔を近づけた。彼女の発する甘い香りを吸い込む。

  溜め息が漏れた。

  ああ、彼女は美しい。


「もうすぐ夜が明けます。君にとっての新しい夜明けです。君が目覚めたとき、いちばんに目にするのは僕だ」


  そのときまで待とう。彼女が目覚めるまで。なに、時間はいくらでもある。

  時間は無限に。

  影も彼女も。

  どちらも時の流れに支配されることなく存在している。


  風が吹いた。


  ……来たか。


  扉がノックされた。

  影は彼女の眠る部屋に鍵をかけ、音が鳴り続ける玄関に向かった。扉を開ける。


「おや、遅かったですね。君ならもっと早く駆けつけると思っていましたが」


  楽しそうに笑ってサングラスをかけ直す。

  扉の向こうで彼がうなった。


「……和泉、お前」

「僕が予想していたより君は慌てていないようだ。いったいどういうことでしょう」

「花はどこだ」


  彼の顔には怒りが浮かんでいた。いつも感情を表に出さない彼が、獣のように低くうなりながら影を鋭く睨んでいる。


「花を……あの子をどうした!?」


  影はそんな彼を面白いと思った。

  やはり彼女は素晴らしい。彼にこんな表情をさせるとは。

 

  彼女は渡さない。彼を騙してでも。


「君も知っているでしょう。彼女は賢い。自ら身を退きましたよ」

「違う。俺が聞いているのは」

「彼女が今どこにいるかということですか? それならここにはいませんよ。全くの無駄足です」

「どこにやったんだ!?」

「彼女は自分の意志で行動しています。僕には関係ありません」

「答えろ……」

「ひとつだけ君に教えて差し上げましょう。彼女はもう君とは会わないそうです」


  それを聞いた瞬間、夜月の身体から力が抜けた。だらりと腕が垂れ下がり、放心したようにつぶやいた。


「もう……会わない?」

「はい。君は彼女にきちんと話しましたか? 君がもう何十年とその姿を保っていること、そしてこれからも君の身体は歳をとらないということを」

「……花に、話したのか?」

「いえ。僕には関係のないことです。ですが本来なら君が身を引くべきだと僕は考えています」

「お前に何がわかる」

「僕は生涯孤独なので、誰かをなくす苦しみはわかりません。しかし彼女を苦しめることを君ができますか? 彼女は君が思っているよりも賢いですよ。互いが苦しくなる前に早く手放すのが最善であると思いますが」


  影が述べるのは反論の余地がない正論である。彼は悔しさをあらわにして唇を噛みしめた。


「お帰りください。君が取るべき行動は、彼女を諦めておとなしく自分の穢れた運命を受け入れることではないですか?」


  バタン。扉が閉まった。



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