幼い頃から食べ物を受け付けない身体だった。何を食べても戻してしまうのだ。両親は心配して医者に診せたが、点滴で栄養を補うしかないと言われた。食べては戻し、病院通いの毎日。

  このまま自分で栄養を吸収できなければ、命の危険があるとも言われた。彼は入院することになった。


  病院には彼と同じ症状の子供がいた。彼の顔の額から右の目尻にかけては大きな火傷のあとがあった。

  彼らはよく似ていた。共に食べ物を受け付けない身体で、歳も同じぐらい。その子供はずっと昔に両親を亡くし身寄りがないということだけが彼とは違う点だった。


  やがて妙なことがわかった。

  彼らは食べ物を口にしなくとも死なない。


  医者からそれを聞いた両親は、彼に会うのを避けるようになった。不気味な我が子。憐れな穢れた子供。

  彼の話し相手は同じ症状を抱えるもうひとりの彼だけなった。身寄りのない彼だけに。彼らは互いを理解し合った。誰にも理解されない彼らはほかの誰のことも理解しようとしなかった。互いがいればそれで十分だった。

 

  ある日彼は気づいた。

  周りの人間から自分を惑わせる香りがする。自分の中の何かを惹き付け、狂わせる。


  甘美なる香りが。


  彼は賢い子供だった。いや、もうその頃には子供と呼べる歳を越えていた。病院のベッドにくくりつけられている身体は既に成長しきっていた。

  自分は病人ではない。自分の居場所はここではない。

  縛られる生活を遵守する必要がどこにあるだろう。彼は自分の生活に疑問を抱いていた。


  ある雨の日のことだった。

  彼は狂った。


  気づくと目の前に両親が転がっていた。そこは見慣れた病院ではなかった。しばらく帰っていなかった自分の家。家具の配置や内装がいつの間にか変わってしまった自分の家。

  賢い彼はすぐに理解した。自分が彼らに何をしたか。自分の両親から何を奪ったのか。


  彼は家を飛び出した。

  雨の中を駆けた。行き先もわからず、前も見ずに走った。とにかく逃げたかった。

  自分のしたことから逃れたかった。


  信じたくなかった。おぞましいほど、自分の中に何かが満ちている。うごめいている。叫んでいる。


  彼はひとりで走り続けた。

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