Ⅲ
よく晴れた日の朝。
町の外れにある石造りの大きな家の扉が開いた。
「夜月、早く早く!」
ワンピースの裾をはためかせ、ひとりの少女がくるりと回った。
「待て、花。靴を履け。裸足は駄目だ」
「くつ?」
花は呼び戻されて家に入り、白い編み上げのブーツを履いて再び出てきた。不思議そうに軽いステップを踏む。
「歩くとコツコツいう……なんか変」
「そういうものだ。裸足で外を歩くと、傷だらけになる」
カラスの羽根のようなコートを着こんだ夜月が花のあとからついて出てくる。季節は冬。身を切るような寒さの中、花はいつものワンピースの上に白いカーディガンを羽織るだけである。
「寒くないか?」
「うーん、少し寒いけど、こうしてれば」
ふふっと笑って花は夜月の腕に自分の腕を絡めた。
「ねえ、今日はどこにいくの?」
夜月との初めての外出。花の心は嬉しさに踊っている。
「最近お前が菓子作りに凝りすぎるせいで、俺にはわからない材料の買い出しを頼まれるからな。お前が直接行った方が効率がいいだろう」
「ふふっ」
花は夜月の腕に顔をすり寄せる。
「夜月、優しいねー」
(今日は一段と甘えてくるな……そんなに出掛けるのが嬉しいのか)
夜月は花の頭をなで、前に進むようにうながす。それならもっと前に連れ出せばよかった。実を言うと怖かったのだ。花を家の外に出すと、もう戻ってこないのではないか、自分は花を見失ってしまうのではないかと。
花が上目遣いで夜月を見た。
「そうだ、夜月はいつも外で何をしてるの?」
「仕事だ」
「どんなお仕事?」
「教師」
「きょうし……?」
「人にものを教える。花の知っている言葉に言い換えると……“先生”だ」
「先生! この前読んだ本に出てきたよ」
クマの先生が主人公の絵本を少し前に読んだばかりだった。記憶の中の優しくて強いクマ先生と目の前の夜月とを比べ、夜月の方が格好いい、と密かに思う花。
「夜月は先生だから、難しい言葉をいっぱい知ってるの?」
「いや……」
夜月は曖昧に言葉を濁し、足を進める。
しばらく歩き、ぽつぽつと何軒か民家が見えるようになった頃だった。
「ねえ、夜月。夜月は私の家族?」
突然の花の問い。大抵の場合、花はふと思いついたことを尋ねるのでその問いは唐突なのだが、それほど夜月を困らせる問いはこれが初めてだった。
何しろ夜月はその問いに対する答えを持ち合わせていなかった。考えてみたこともない。花と自分は……家族なのか。
「……家族、か」
「お父さんとお母さんがいて、それが家族なんだって本に書いてあった。だから私ね、お父さんとお母さんって何かなって思って……夜月は私のお父さんでもお母さんでもないでしょ? 夜月は私の家族なの?」
「わからない」
夜月なら正しい答えを教えてくれると思っていた。花はふと昔の夜月の言葉を思い出す。夜月でも間違えることはある。必ずしも夜月の全てが正しいわけではない。
「言葉の解釈は結局のところ、本人がどう受け取るかだ。言葉の中では自分がいちばん正しい」
夜月は花の目を見ずに答えた。とても彼女の素直な目を前にしては言えない。その場しのぎの曖昧な答えだ。
花が聞きたがっているのはきっと、そんな答えではない。
夜月の答えを花は待っているのだ。夜月の正しいと思う答えを。
「うーん、よくわからないけど」
花は首を傾げた。
「もしも私に家族がいなくても、私は今のままで幸せ。家族なんていらない。夜月がいてくれれば、それだけで」
「……そうか」
「うん。夜月は?」
夜月は答えに詰まる。
「俺……は」
花はじっと夜月の答えを待っている。
「俺は昔、家族がいた」
「お父さんとお母さん?」
「そうだ。俺を産んだ人たち。……でももう死んだ」
「しん……だ?」
花はその言葉を知らなかった。しかし夜月の顔を見て、それがとても悲しい言葉であることを理解した。夜月はどんな表情も浮かべずに言ったつもりであったが、長い間一緒に過ごしてきた花にはわかった。夜月は今、とても悲しいことを思い出している。
「雨の日だった……俺があの人たちを、殺した」
「え……?」
「俺はあのとき初めて知ったんだ、自分が魂を喰う獣(けだもの)だということを」
「家族を食べた……の?」
「ああ」
夜月はうなずき、花の頭に手を乗せた。
「だからお前のことも……本当は手放すべきだった」
ゆっくりと、やわらかな髪に手を絡ませながらなでる。
「すまない……」
夜月が雨を嫌うのは、雨がそのときの記憶を呼び起こすからだろうか。大切な家族の魂を、口にしてしまったこと。
花は首をすくめる。夜月を元気づけなくてはならないと思った。
「私の魂って、美味しいのかな?」
そしていたずらっぽく笑った。
「ねえ夜月?」
「……そうだな、美味しいかもしれない」
「ふふっ。嬉しい」
夜月の手は花の頭から首を通って下り、肩を滑り、やがて彼女の小さな手を握った。花もそれを握り返す。
「私を食べていいのは、夜月だけね?」
冗談のような口調だった。しかし花の目は本気だ。
約束、と彼女は小指を出した。
「……花」
「約束して。本に書いてあった。大切な約束はこうやって、指切りをするの」
夜月はためらいながら花の細い指を見る。
「しかし花、その約束は」
「約束、してくれるでしょ?」
「………………」
花の目に真っ直ぐ見つめられて、夜月は片方の手を持ち上げた。花がすかさず指を絡める。
夜月は嬉しそうに指切りをする花を見て、自分の中でせめぎあうふたつの感情を抑えるのに必死だった。
愛しい花を今すぐにでも抱き締めたい。彼女のユリのような甘い香りを吸い込み、その小さな唇に口づけたい。
そして、そんな大切な人を……自分の側に置いておく恐怖。遠ざけておくべきなのだ。手の届かないところに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます