よく晴れた日の朝。

  町の外れにある石造りの大きな家の扉が開いた。


「夜月、早く早く!」


  ワンピースの裾をはためかせ、ひとりの少女がくるりと回った。


「待て、花。靴を履け。裸足は駄目だ」

「くつ?」


  花は呼び戻されて家に入り、白い編み上げのブーツを履いて再び出てきた。不思議そうに軽いステップを踏む。


「歩くとコツコツいう……なんか変」

「そういうものだ。裸足で外を歩くと、傷だらけになる」


  カラスの羽根のようなコートを着こんだ夜月が花のあとからついて出てくる。季節は冬。身を切るような寒さの中、花はいつものワンピースの上に白いカーディガンを羽織るだけである。


「寒くないか?」

「うーん、少し寒いけど、こうしてれば」


  ふふっと笑って花は夜月の腕に自分の腕を絡めた。


「ねえ、今日はどこにいくの?」


  夜月との初めての外出。花の心は嬉しさに踊っている。


「最近お前が菓子作りに凝りすぎるせいで、俺にはわからない材料の買い出しを頼まれるからな。お前が直接行った方が効率がいいだろう」

「ふふっ」


  花は夜月の腕に顔をすり寄せる。


「夜月、優しいねー」


(今日は一段と甘えてくるな……そんなに出掛けるのが嬉しいのか)


  夜月は花の頭をなで、前に進むようにうながす。それならもっと前に連れ出せばよかった。実を言うと怖かったのだ。花を家の外に出すと、もう戻ってこないのではないか、自分は花を見失ってしまうのではないかと。


  花が上目遣いで夜月を見た。


「そうだ、夜月はいつも外で何をしてるの?」

「仕事だ」

「どんなお仕事?」

「教師」

「きょうし……?」

「人にものを教える。花の知っている言葉に言い換えると……“先生”だ」

「先生! この前読んだ本に出てきたよ」


  クマの先生が主人公の絵本を少し前に読んだばかりだった。記憶の中の優しくて強いクマ先生と目の前の夜月とを比べ、夜月の方が格好いい、と密かに思う花。


「夜月は先生だから、難しい言葉をいっぱい知ってるの?」

「いや……」


  夜月は曖昧に言葉を濁し、足を進める。

  しばらく歩き、ぽつぽつと何軒か民家が見えるようになった頃だった。


「ねえ、夜月。夜月は私の家族?」


  突然の花の問い。大抵の場合、花はふと思いついたことを尋ねるのでその問いは唐突なのだが、それほど夜月を困らせる問いはこれが初めてだった。

  何しろ夜月はその問いに対する答えを持ち合わせていなかった。考えてみたこともない。花と自分は……家族なのか。


「……家族、か」

「お父さんとお母さんがいて、それが家族なんだって本に書いてあった。だから私ね、お父さんとお母さんって何かなって思って……夜月は私のお父さんでもお母さんでもないでしょ? 夜月は私の家族なの?」

「わからない」


  夜月なら正しい答えを教えてくれると思っていた。花はふと昔の夜月の言葉を思い出す。夜月でも間違えることはある。必ずしも夜月の全てが正しいわけではない。

 

「言葉の解釈は結局のところ、本人がどう受け取るかだ。言葉の中では自分がいちばん正しい」


  夜月は花の目を見ずに答えた。とても彼女の素直な目を前にしては言えない。その場しのぎの曖昧な答えだ。

  花が聞きたがっているのはきっと、そんな答えではない。

  夜月の答えを花は待っているのだ。夜月の正しいと思う答えを。


「うーん、よくわからないけど」


  花は首を傾げた。


「もしも私に家族がいなくても、私は今のままで幸せ。家族なんていらない。夜月がいてくれれば、それだけで」

「……そうか」

「うん。夜月は?」


  夜月は答えに詰まる。


「俺……は」


  花はじっと夜月の答えを待っている。


「俺は昔、家族がいた」

「お父さんとお母さん?」

「そうだ。俺を産んだ人たち。……でももう死んだ」

「しん……だ?」


  花はその言葉を知らなかった。しかし夜月の顔を見て、それがとても悲しい言葉であることを理解した。夜月はどんな表情も浮かべずに言ったつもりであったが、長い間一緒に過ごしてきた花にはわかった。夜月は今、とても悲しいことを思い出している。


「雨の日だった……俺があの人たちを、殺した」

「え……?」

「俺はあのとき初めて知ったんだ、自分が魂を喰う獣(けだもの)だということを」

「家族を食べた……の?」

「ああ」

 

  夜月はうなずき、花の頭に手を乗せた。


「だからお前のことも……本当は手放すべきだった」


  ゆっくりと、やわらかな髪に手を絡ませながらなでる。


「すまない……」


  夜月が雨を嫌うのは、雨がそのときの記憶を呼び起こすからだろうか。大切な家族の魂を、口にしてしまったこと。


  花は首をすくめる。夜月を元気づけなくてはならないと思った。


「私の魂って、美味しいのかな?」


  そしていたずらっぽく笑った。


「ねえ夜月?」

「……そうだな、美味しいかもしれない」

「ふふっ。嬉しい」


  夜月の手は花の頭から首を通って下り、肩を滑り、やがて彼女の小さな手を握った。花もそれを握り返す。


「私を食べていいのは、夜月だけね?」


  冗談のような口調だった。しかし花の目は本気だ。

  約束、と彼女は小指を出した。


「……花」

「約束して。本に書いてあった。大切な約束はこうやって、指切りをするの」


  夜月はためらいながら花の細い指を見る。


「しかし花、その約束は」

「約束、してくれるでしょ?」

「………………」


  花の目に真っ直ぐ見つめられて、夜月は片方の手を持ち上げた。花がすかさず指を絡める。

  夜月は嬉しそうに指切りをする花を見て、自分の中でせめぎあうふたつの感情を抑えるのに必死だった。

  愛しい花を今すぐにでも抱き締めたい。彼女のユリのような甘い香りを吸い込み、その小さな唇に口づけたい。

  そして、そんな大切な人を……自分の側に置いておく恐怖。遠ざけておくべきなのだ。手の届かないところに。


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