Ⅱ
「ねえ夜月。この字、なんて読むの?」
「どの字だ?」
「これ」
夜月の部屋で、ベッドに寝そべって絵本を開いている花。隣で難しそうな文字の連なる本を読んでいた夜月が本から顔を上げた。
「……アメ、だ」
「これが“雨”」
花は納得したように何度かうなずく。
「じゃあこれは?」
「カサ」
最近、花はよく地下の書庫から持ち出してきた絵本を読んでいる。そしてしきりに夜月に文字の読み方を尋ねるのだ。
「学習欲が出てきたな」
「夜月みたいに難しい言葉を少しでもわかるようになりたい」
「いい心がけだ」
「本当?」
嬉しそうな花の頭をなで、夜月はまた本に目を落とした。
(このままの花でいてほしいと思うのは、傲慢だろうか。花をずっと側に置いておきたいと思うのは)
幼い少女だった花は、日に日に成長していく。無邪気なばかりではなくなってきている。
花の言う「好き」は意味が変わってきている。夜月にもそれはわかる。それに漬け込んでいてはいけないこともわかっているのだ。
花が成長していくにつれ、夜月の元から離れていく気がしてならない。
(俺はあのとき……花を手放してやるべきだったのか……?)
もう花なしではいられない。花のいる日常を夜月は愛している。
「夜月。ねえ夜月。誰か来たみたい」
耳のいい花が何かの物音を聞きつけた。
「玄関から声が聞こえるの」
「……見てくる」
本を置き、夜月は立ち上がった。
玄関の扉が開いていた。誰もいない。
「お久しぶりです」
背後から声がした。夜月はハッと振り返る。
「呼んだのですが返事がないので、勝手に入ってしまいました。あのお嬢さんはどこです?」
黒いサングラスが不気味に光っている。
「和泉……お前、何をしに来た」
「あれから随分時が経ちましたね。しかし君は少しも変わらない」
「答えろ」
「君の人形は、君のことを受け入れましたか? 何年経っても姿の変わらない君のことを」
「答えろ……お前は何をしに来た!?」
夜月の瞳が鋭く赤い光を放った。
「……シニガミの娘に興味があります」
彼はにやりと唇をつり上げた。小さな笑い声を発しながら、夜月の首に腕を巻きつける。
「君から承諾をもらえなかったのは残念でした。穏便にすませたかったのですが」
「……手を……どけろ」
夜月はうめいて彼を睨んだ。彼は笑いながら夜月の首を絞める。
「君はこんなことぐらいでは死にませんね。僕も君を失うのは惜しいので、ふざけるのはこのくらいにしておきましょうか」
彼の絡みつく腕から解放され、夜月はかすれた大きな息をした。肺いっぱいに空気を取り込む。
「花をお前に渡す気はない」
夜月は低い声で告げた。
対して彼は笑みを収めることなく言う。
「君は何か勘違いをしているようですね」
「………………」
(なぜだ……なぜ、和泉は余裕を保っている?)
夜月が得体の知れない不安に襲われたとき。
背後で遠慮がちな足音が響いた。
「夜月、誰かお客さん……?」
夜月がなかなか戻ってこないので花が様子を見に来たのだ。
花を視界に入れた彼のサングラスの奥が光る。
「彼女は美しい。君には扱いきれないほどに」
そう言い残し、音もなく彼は消えた。花に見つかる前に退散したようだ。
「夜月?」
廊下に立ち尽くしている夜月の顔を花が心配そうにのぞきこむ。
「………………」
「……夜月」
無言で夜月は花を抱き寄せた。そのまま強引に唇を重ねる。
「どうしたの……?」
花はキスに応えたあと、不思議そうに夜月を見上げる。
夜月の様子がおかしい。今まで夜月は花を乱暴に扱ったことなどなかった。いつだって優しく、繊細な壊れ物を扱うようにそっとキスをする。
「……花」
かすれた声で名前を呼び、夜月の唇が花の首筋を這う。まるで夢の中にいるようなふわりと甘い香り。夜月は目を閉じ、花の豊かな髪を掻き分ける。
「くすぐっ……た、い」
花が首をすくめた。
「お前は世界を知らない」
花の耳元で、夜月が息だけでささやく。
「世界もお前を知らない……。お前を知っているのは俺だけだ」
花は背伸びをして夜月の頬にキスをした。
「夜月がいれば、私はそれだけで幸せ」
花は夜月にとらわれている。心も身体も。花の全てが夜月のもの。
その夜は空に紅の月が浮かんでいた。
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