Ⅱ
雨の音。
ザーッ。
何かを叩きつけるように激しく。
「……あめ」
花は自分の部屋で植物に水をやっていたが、ふとその音に気づいた。
朝、夜月を見送ったときのことを思い出す。彼は傘を持っていかなかった。
「夜月、大丈夫かな」
雨の日はいつも少しだけ不機嫌になる夜月。音を聞くだけでも昔の嫌なことを思い出してしまうから……。
一通り水をやり終えると、花は玄関に向かった。そこにはやはり黒い傘が立てかけてあった。
何がそうさせたかはわからない。花はその傘を手に取り、扉を開けた。今まで1度も自分では開けたことのなかった扉を。
外に出るのは初めてだった。物心ついてからずっと、花は夜月の家で過ごしていた。彼女は夜月の家以外の場所を知らない。
屋根のあるところを抜けたとたん、冷たい雨が打ちつけてきた。花の長い髪を濡らし、ワンピースを重くする。雨の日に着るには適していない服だ。裾は元々フリルで膨れており、それがさらに水を吸収してべとりと足にまとわりつく。
「や……づき」
夜月の家の周りは人通りの少ない道路に囲まれている。きょろきょろと辺りを見回し、花は歩き出した。
雨のせいで視界はぼやけている。
見通しが悪く、道の先はわずかな明かりのみ。
それでも花が引き返すことなく歩き続けたのは、当てがあったからではない。
ただ信じていたのだ。
自分が夜月を見つけられないはずがないと。
やーづきはどっこかな。
激しい雨の音にかき消されながら、花は歌った。
やーづきはどっこかな。やーづきはどーこー。
相変わらず音程もリズムもメロディーも、全てがどこか外れていた。
どれぐらい歩いただろうか。元来た道もわからない。
生まれてこのかた身体を鍛えたことのない花の足は、そろそろ限界を迎えようとしていた。
「夜月……どこ……?」
ぺたん。花は地面に座り込んだ。
冷たさを感じる感覚も鈍くなってきている。足がひりひりと痛む。
「夜月……」
黒い傘を握ったまま、花は雨に打たれ続ける。いつもはふわふわしているやわらかい髪が、顔の輪郭をはっきりさせるように貼りついている。
「お嬢さん」
その声が降ってきたのは突然だった。
「そんなところでどうなさいました? 足が傷だらけですよ。靴はどうしたんです?」
雨の向こうで花を見下ろす影。花は顔を上げた。
「や……づき、は」
「ヤヅキ?」
影は首を傾げた。やがて雨をかき分けるようにして花の元へ顔を寄せた。
「……なるほど、君は夜月の人形。面白いこともあるものですね」
影は傘を差していた。黒いサングラスをかけた若い男。
「僕は夜月の知り合いです。一緒に来ますか?」
「……え?」
影が花に向かって手を伸ばした。
「さあ」
花はじっとその影を見つめる。とても優しそうな影。穏やかで、親切で。
「………………」
首を振った。花は無言で首を何度か横に振った。
「君は夜月を待ちますか?」
「………………」
こく。花がうなずく。
影は静かに手を引いた。
「そうですか。君は賢い。僕を拒んだのは正解ですよ。しかし」
影が薄く唇を開いて笑う。黒いサングラスの奥で、一瞬赤い光が放たれた。
「彼の元に残るのが正しい選択かは僕も知りません」
にやりと笑ったその口から尖った牙が見えた。
影が遠ざかっていく。
ザーッ。
雨の音。
「や……づきは、どこ、かな……」
花はかすれた声でつぶやいた。
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