雨の音。

  ザーッ。

  何かを叩きつけるように激しく。


「……あめ」


  花は自分の部屋で植物に水をやっていたが、ふとその音に気づいた。

  朝、夜月を見送ったときのことを思い出す。彼は傘を持っていかなかった。


「夜月、大丈夫かな」


  雨の日はいつも少しだけ不機嫌になる夜月。音を聞くだけでも昔の嫌なことを思い出してしまうから……。

  一通り水をやり終えると、花は玄関に向かった。そこにはやはり黒い傘が立てかけてあった。


  何がそうさせたかはわからない。花はその傘を手に取り、扉を開けた。今まで1度も自分では開けたことのなかった扉を。

  外に出るのは初めてだった。物心ついてからずっと、花は夜月の家で過ごしていた。彼女は夜月の家以外の場所を知らない。


  屋根のあるところを抜けたとたん、冷たい雨が打ちつけてきた。花の長い髪を濡らし、ワンピースを重くする。雨の日に着るには適していない服だ。裾は元々フリルで膨れており、それがさらに水を吸収してべとりと足にまとわりつく。


「や……づき」


  夜月の家の周りは人通りの少ない道路に囲まれている。きょろきょろと辺りを見回し、花は歩き出した。

  雨のせいで視界はぼやけている。

  見通しが悪く、道の先はわずかな明かりのみ。


  それでも花が引き返すことなく歩き続けたのは、当てがあったからではない。

  ただ信じていたのだ。

  自分が夜月を見つけられないはずがないと。


  やーづきはどっこかな。

  激しい雨の音にかき消されながら、花は歌った。

  やーづきはどっこかな。やーづきはどーこー。

  相変わらず音程もリズムもメロディーも、全てがどこか外れていた。


  どれぐらい歩いただろうか。元来た道もわからない。

  生まれてこのかた身体を鍛えたことのない花の足は、そろそろ限界を迎えようとしていた。

 

「夜月……どこ……?」


  ぺたん。花は地面に座り込んだ。

  冷たさを感じる感覚も鈍くなってきている。足がひりひりと痛む。


「夜月……」


  黒い傘を握ったまま、花は雨に打たれ続ける。いつもはふわふわしているやわらかい髪が、顔の輪郭をはっきりさせるように貼りついている。


「お嬢さん」


  その声が降ってきたのは突然だった。


「そんなところでどうなさいました? 足が傷だらけですよ。靴はどうしたんです?」


  雨の向こうで花を見下ろす影。花は顔を上げた。


「や……づき、は」

「ヤヅキ?」


  影は首を傾げた。やがて雨をかき分けるようにして花の元へ顔を寄せた。


「……なるほど、君は夜月の人形。面白いこともあるものですね」


  影は傘を差していた。黒いサングラスをかけた若い男。


「僕は夜月の知り合いです。一緒に来ますか?」

「……え?」


  影が花に向かって手を伸ばした。


「さあ」


  花はじっとその影を見つめる。とても優しそうな影。穏やかで、親切で。


「………………」


  首を振った。花は無言で首を何度か横に振った。


「君は夜月を待ちますか?」

「………………」


  こく。花がうなずく。

  影は静かに手を引いた。


「そうですか。君は賢い。僕を拒んだのは正解ですよ。しかし」


  影が薄く唇を開いて笑う。黒いサングラスの奥で、一瞬赤い光が放たれた。


「彼の元に残るのが正しい選択かは僕も知りません」


  にやりと笑ったその口から尖った牙が見えた。

  影が遠ざかっていく。

 

  ザーッ。

  雨の音。


「や……づきは、どこ、かな……」


  花はかすれた声でつぶやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る