第2章 黒い影
Ⅰ
「ふふんふーん。ふんふーん」
桃色のレースのエプロンがひらひらっと舞う。それと一緒に長い黒髪が踊った。腰まで伸びた髪は艶やかで、ユリのように甘い香りがする。
香ばしい匂いが漂ってきた。
「ふふっ。焼けた」
踊るような足取りで花はオーブンを開けた。ふわっと暖かい風が薫る。
ミトンをはめて、オーブンの中にあるものを取り出す。
「……いい焼き加減」
レモンを練り込んだ焼き菓子だ。綺麗な焼き色がついている。
「ふふふーん」
花は満足そうにその焼き菓子をテーブルに置いた。
ちょうどそのとき、玄関で音がした。
花はそれを聞きつけ、ミトンとエプロンを外してテーブルに置くとぱたぱたと玄関に向かった。
「お帰りなさい!」
鈴の音のような声。昔より少し落ち着いた雰囲気になった。
玄関先で並ぶと、花の身長は彼の胸の辺り。
「花、また裸足か?」
夜月は家に上がりながら無表情で尋ねる。
「床が冷えるだろう」
「ううん。いいの」
花はふふっと笑った。
「裸足の方が好き」
「相変わらずだな。……ん? この匂い」
ふと首を傾けた夜月の腕を花が取る。
「広間に来て! 上手にできたから、夜月にも見てほしいの」
まだ彼女の無邪気さは健在だ。夜月の複雑な表情も気にせず、広間まで引っ張っていく。
「スープしか口にしなかったお前が菓子作りに熱中するとはな」
毎日のようにいろいろな甘い匂いをキッチンに充満させている花は昔、固形物が苦手だった。幼いうちは消化器官が弱かったらしい。成長するにつれて、だんだんと食べ物の好みが変わっていった。
キッチンとひとつづきになった広間で、香ばしい匂いを漂わせている焼き菓子を自慢げに見せる花。
「ね、美味しそうでしょ?」
自画自賛だ。花は嬉しそうに焼き菓子を切り分ける。
「それにしてもお前、それを全部ひとりで食べるのか」
「ふふっ。甘いものはいくらでも」
「理解できないな」
「夜月も食べる?」
いたずらっぽく笑って花が小首を傾げる。ふわっと肩から髪が流れた。
「……ひとくち、なら」
夜月はほとんど聞こえないような声で言った。
花は驚いて瞬きをする。
「食べる、の?」
「ひとくちだけだ」
「優しいね……夜月」
そう言って花は頬を染めて笑った。
食器棚からフォークを持ってきて、焼き菓子をひとくち分だけ刺す。
「夜月。口、開けて」
「立ったままか?」
「いいから」
夜月は渋々口を開ける。鮮やかな赤い唇の奥で、鋭い牙が光った。花は背伸びをして、そこにフォークを入れる。
「………………」
じっと夜月を見つめる花。
口に入ったものをゆっくりと飲み込み、
「甘い、な」
夜月は言った。とたんに花の表情が変わる。
「うーっ。なあに、その感想」
かなり不満そうだ。
「思ったことを言っただけだ」
「甘いだけじゃ、美味しいのか美味しくないのかわかんない」
「俺は普段食べ物を口にしないから味の比較をする指標がない」
「もういいもん」
ふいっと顔を背けて、花は残った焼き菓子を食べ始めた。フォークを次々と口に運ぶ。
「夜月の言ってること、わかんない」
パクパクと恐ろしいほどの勢いで食べ進める花。
「私、スープ以外も食べたし、大きくなったのに。夜月の嘘つき」
「なんの話だ?」
「夜月が言ったんだよ。大きくなったら夜月の話もわかるようになるって」
「……まあ、お前には無理かもしれないな」
「うーっ。やっぱり嘘つきだ」
花がそう言ったとき、フォークがことっと床に落ちた。急に夜月に抱き締められて驚いたたせいだ。
「夜月……?」
「わからなくていい。お前はそのままで」
花の肩から手を回し、その長い髪に顔をうずめる。夜月の鼻を甘い香りが突いたが、それでも彼は体勢を変えずにいた。
「……大きくなったな」
(前は俺の腰ほどしかなかった……それが)
花は普段と様子の異なる夜月の行動に戸惑ったが、彼に抱き締められて嬉しくないはずがない。ほんのりと頬を染めて、自分の肩にかけられた夜月の腕を両手で握る。
「もっともっと、夜月みたいに大きくなりたい」
「……高望みしすぎだな」
「どうして? 夜月はどうやってそんなに大きくなったの?」
「気づいたときには俺は今の俺だった」
「不思議だね。夜月はスープもそれ以外も何も食べないのに」
「そう、だな」
ふと夜月が花を放した。床に落ちていたフォークを拾い上げ、
「新しいのを持ってくる」
と食器棚の方に向かおうとした。
「夜月」
「……なんだ」
「あのね。あの……」
花はためらい、夜月の背中に立った。そして後ろから夜月の腰に手を回す。
「あのね、最近夜月が頭をなでてくれないから、私のこと嫌いになっちゃったのかなって思ってたの」
「………………」
「私は夜月のこと大好きだけど、夜月は私を迷惑に思ってるんじゃないかって。そうだったら悲しいなって」
花のしょんぼり沈んだ声を聞いて。
クスッ。夜月が声を立てて笑った。
「お前は不思議なことを考えるな」
「だって」
「迷惑だったらとっくに手放してる」
花はそのとき初めて夜月の笑い声を聞いた。なんだか胸が熱くなって、真っ直ぐに夜月の顔を見るのが恥ずかしかった。
「夜月、大好き」
代わりにぎゅうっと力いっぱい彼を抱き締めた。
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