(5)ー1
欧州――第13地区。9日目。
第六地区からは東に国境を二つほど越えたところ、欧州の中でも東端と呼ばれる辺境地域に、第十三地区は位置する。
欧州と露州の境目にあるこの国は、周辺諸国にとっても交通の要所となっており、首都であるカストヴァールを中心として、国内には放射状に鉄道が走っている。
カストヴァール。鉄道の発着地であるこの町には、三つの大きな駅が点在している。そのうちの一つ、カストヴァール西駅に今、五両編成の列車が滑り込んできた。尾を引くような汽笛を鳴らした
列車が完全に停まってしばらくしてから、次々に乗客が降りてくる。もうすっかり夜も更けたこの時間帯、人々は皆、宿を求めて、あるいは家路を辿るため、足早に列車からは離れてゆく。
その波が、少しばかり途絶えた頃。一人の男が列車の昇降口に姿を現した。
金色の髪に、薄水色の瞳。それなりに整った顔立ちをしているのだが、僅か、眉間に皺を寄せているせいだろうか、どこか近寄りがたい空気を
そして男の背後からは、男に比べるとかなり小柄な少年が一人、恐る恐るといった様子で顔を覗かせている。
少年――デュカスは、旅の荷を手にゆっくりと、列車のタラップから地面へと降り立つ。そして顔を上げた。
黒塗りの列車が何本も停車している広いプラットフォーム、見上げれば首が痛くなりそうなほどに高い丸天井、ぱたぱたと音を立てて次々に表示を変えてゆく発着案内板。何もかも、デュカスにとっては珍しいものばかりだ。駅構内全体がざわざわとしており、発車の汽笛や構内放送があちこちで反響している。声が幾重にも重なって聞こえてくる為、一体何を知らせる放送なのかが分からなくなるほどだ。
そんな周囲の様子に意識を奪われていると、同行者の低い声が頭上から降ってきた。
「行くぞ」
見上げると、声の主は既に歩き始めている。彼の金髪の後頭部だけが、こちらから見えた。
「どこに……行くんだ?」
その広い背に向かって尋ねてみるが、彼は――ハルトは立ち止まらない。
「ついてくれば分かる」
こちらを振り返らないままにそう言うと、人ごみの中へと消えていった。
このようなところで彼とはぐれてしまっては、なす術もない。見失わないよう、デュカスは慌ててハルトの長身を追った。
広い駅舎を出ると、目の前に大通りが伸びていた。もう夜も遅い時間だというのに、自動車や路面電車が行き交い、クラクションも鳴り響いている。
それらを横目に見ながら、二人は歩道を歩いて駅舎を後にした。信号のあるところで大通りを渡り、そしてまた歩道を歩く。デュカスはただ、ハルトが歩くのに任せてついてゆくだけだ。
そして辿り着いたのは、一軒の店。
ベッドの形を模した看板が掲げられているので、そこが宿屋であることが窺える。しかし外観はと言うと、何十年もの間風雨に晒されてきたのが一目で分かるような、古い佇まいの建物だ。何の躊躇いもなく、ハルトはその扉をくぐった。デュカスも彼に続く。
玄関口の小さなカウンターには、小太りの男が退屈そうな顔で腰掛けていた。夜半の来客に気付くと、のっそりと立ち上がり、大して愛想もないままに宿泊名簿を差し出す。ハルトも無言でそれに記帳する。文字の読み書きができないデュカスは、ハルトの背後でおとなしくしていた。ハルトが何も言ってこないところを見ると、彼がデュカスの名前も一緒に書いてくれたようだ。
とりあえず一部屋一泊分の料金を払うと、男から部屋の鍵を受け取り、細い螺旋階段を階上へと向かう。二人分の足音を吸収する分厚い
階段を昇りきったところで、一人の老人に遭遇した。きちんとした身なりのその紳士は、デュカスとハルトに対し、にこやかな笑顔を向けてくれた。ハルトが彼に軽く会釈をしたので、デュカスもそれにならった。建物は古くて汚いが、それなりに客は入っているようだ。
ある一室の前でハルトは足を止め、そして部屋の鍵を開ける。
狭い室内には、ベッドが二つ、平行な形で並んでいた。壁際には暖房器具とコート掛けがあるだけの、いたって簡素な造りの部屋だ。
デュカスが所在なく部屋の隅に立ち尽くしていると、ハルトは入り口から見て手前側のベッドに、自分の担いでいた
「お前、飯はどうする?」
言われ、今が既に夜の九時を回っていることに気付く。しかし、先刻列車の中で軽く食べたところだったので、空腹は感じない。デュカスは首を振った。
「……いらない」
それを視界の端で確認したハルトは、おもむろに立ち上がる。
「じゃあ、適当に休んでおけ。オレは今から、ちょっと出かけてくる」
やはり、デュカスの方を見はしない。
言うだけ言うと、デュカスの返事も待たずにくるりと背を向け、部屋を出て行ってしまった。
ばたんという、扉の閉まる音。デュカスは一人、部屋に取り残される。ハルトの出て行った扉を見つめ、軽く嘆息する。
正直なところ、ほっとした。
この部屋で今、彼と二人きりになったところで、話すことなどありはしないのだ。ハルトがデュカスに話題を振ってくることもないし、デュカスからハルトに話しかけることなど、もっとありえない。
沈黙がもたらす空気のその重苦しさは、ここカストヴァールに至るまでの列車内で嫌というほど痛感した。つい先刻の四時間ほどの道中を思い出し、デュカスは眉根を寄せる。あれは苦痛だった。
そもそも、八年ぶりに再会した相手と、一体何を話せというのだ。
デュカスとハルト、二人の間には、昔から親愛の情など欠片もなかった。顔を合わせればいつも、ハルトの奴は幼いデュカスのことをガキだの何だのと罵り、散々に足蹴にし、挙句の果てには使い走りのような真似まで押し付けてきたのだ。デュカスが子どもだからと言ってハルトが容赦することなど、一切なかった。こちらが反抗の意思を示そうものなら、体格差を笠にきて、力技でもってデュカスを屈服させていたほどである。八歳も年下の相手に対して、だ。
そんな奴との間に、友好な関係が生まれようはずもない。
だからハルトには、ただ剣術を教えてもらえればそれでよかった。それ以上の接点など、デュカスは求めていなかった。
強いて言うならば、彼がデュカスの姉と一緒にいることが多かったから、成り行きでデュカスも彼と会話をしていたというくらいだ。姉の存在が緩衝材になっていたからこそ、仕方なく、共に飯を食ったり共に家事仕事を手伝ったりしていただけだ。ただそれだけだ。仲が良いか悪いかで言えば、悪いと断言することができる。
そんな二人のことを、姉のカヤはいつも、にこにこと微笑みながら見守っていた。
デュカスとハルト、二人がケンカをして泥だらけになった時も、剣術の練習中に庭先の郵便箱を壊してしまった時も、姉が二人を咎めることは決してなかった。いがみ合う二人の為に料理の腕をふるい、にっこりと笑ってこう言ったものだった。
『さぁ、とりあえず、ご飯にしましょ』
彼女がいたからこそ、デュカスはかろうじて、ハルトとの間に適当な距離を保てていたようなものだ。
しかしその姉は、もう――いない。
いない。頭の中で言葉にした瞬間、胃の辺りがどくんと鼓動した。デュカスの心の中、柔らかに微笑む姉の姿が、急速に色彩を欠いてゆく。
いない。姉はもう、どこにもいないのだ。
一度は認めたはずのその事実が、じわり、痛覚を伴って胸の奥に広がる。と同時に、左の耳たぶが熱を帯び始めた。左耳に
ぎり、と奥歯を強く噛み締める。
そう、姉はもう、死んでしまった。もう、どこにもいないのだ。それなのに。
それなのに、あいつは――ハルトは、今さらのうのうと帰ってきた。姉を置き去りにしたまま村を出て、勝手に軍隊に入り、ろくに連絡も寄越さなかった男が、八年もの歳月を経て突然に帰ってきたのだ。姉の、死んでしまった後で。
そんな相手と、一体どんな話ができるというのだ。
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