(4)ー4
ラウルが日中、浴室で身を強張らせていたまさにその時のこと。
欧州陸軍アドルフ・ハイマン大佐(四十六歳)は、小さな溜息を一つついた。髪と同じ灰褐色の目を
その瞳に映し出されているのは、紺碧の軍服を着た男たちが、神妙な顔で居並ぶ光景だ。幅広の長机を挟んで左右に列するさまは、まるで何かの儀式のようですらある。
欧州陸軍第六地区総司令部、作戦部棟第二会議室。
重苦しい空気が場を満たしていた。やけに造りのよい調度品の色味が、尚更そう思わせるのかもしれない。
樫の木の無垢材を彫って作られた
会議の席についているのは、ハイマンを含め、全部で二十名足らず。いずれも軍服の襟元に、佐官階級であることを示す三段ラインの
しかしその年齢層は、驚くほどに低い。大半が二十代後半から三十代後半といったところで、中には、ハイマンの年齢の半分も生きていないような人間もいる。そのような若い人々が、ハイマンと同じ佐官階級として肩を並べているのだ。十年前ならば考えられなかったような光景が、今、この狭い会議室には広がっている。
これはひとえに、先の大戦における戦力の疲弊を意味していた。
四半世紀続いた世界大戦、その終盤はまさに、総力戦だった。たくさんの人間が従軍し、たくさんの人間が戦地へと送られ、そしてたくさんの人間が死んだ。戦死した軍人の中には、軍歴の長い老兵や年長者も数多くいた。ハイマン自身は戦死を免れることができたものの、銃弾の飛び交う戦場で同輩が
若い人間ならば徴兵などでいくらでも補充できるが、経験の深い年長組はそうもいかない。戦争が長引けば長引くだけ、彼らはその数を減らしていったのである。度重なる出撃で、毎度全員が無事に帰って来られるはずもないのだ。
ゆえに、やむなく空いてしまった尉官・佐官階級の席には今、年長者に負けぬほどに経験を積んだ若い人間達が、当然のように座っている。
もちろん、前線へ赴いていた者ばかりではない。士官学校を卒業して内勤業務に携わり続けていた、いわゆる出世街道を
しかしそういった若い人々と同じ卓を囲むのが、ハイマンは好きだ。
彼らの持つ激しさは、言い換えれば熱意に繋がる。がむしゃらで己を信じて疑わない、若者特有の傲慢なる熱意に。
それはかつてハイマンの内にも静かに燃えていたものであり、半世紀近く生きた今なお、どこか手放しきれずにくすぶっているものでもある。若い人間と仕事をしていると、彼らの見せる剥き出しの熱意に触発され、ハイマン自身もまだまだ負けてはおれぬと密かなる闘争心を燃やすことができるのだ。
だから、自分と同年代の人間が、陸軍総司令部の敷地外に住居を構えているのに対し、ハイマンは――未だ独り身であることも手伝って――陸軍の中で兵舎生活を送っている。相部屋の人間こそいないものの、軍人になったばかりのひよっこたちに混じって毎日寝起きしているのだ。
元々が寡黙な性格の為、普段は自室でたいていのことを済ませるのだが、時には食堂で飯を食い、時には共同シャワー室で垢を落とし、時には売店で日用品を購入する。自然、そこで暮らす若い人々との間にも、接点が増える。接点が増えると、信頼関係も築かれる。
中には、ハイマンの、上層部に最も近い立場である「調停役」としての肩書きに魅力を覚えてか、下心ありきで近付いてくる者もいる。しかし大半の若者達は、そういった
同輩たちには怪訝そうな顔をされるが、ハイマン自身は、この生活をやめて陸軍の外に家を購入するつもりなどない。
世代の異なる集団と暮らすのは、確かに気を揉むことが多いし、それは向こうとて同じだろう。しかしハイマンは、この口数の少ない性質が幸いしてか、不思議なことに若い人間からよく慕われていた。
どうやら、あまり口やかましく説教しないことや、限られた言葉で的確な助言を与えること、相談内容を漏らさぬ口の堅さなどが歓迎されているようだ。もっとも、ハイマン自身がそのことを知ったのは、ごく最近になってから――同輩たちに指摘されてからのことなのだが。
隣に座る男が足を組み替えたことで、ハイマンは物思いから覚める。
改めて、室内を見渡してみた。依然として重苦しい空気は変わらない。皆一様に、沈痛な面持ちで発表者の報告に耳を傾けているだけだ。
今日の議題は、昨夜起こった、陸軍の研究所における侵入者事件について。現在、研究所の責任者代理であるミハイル・ドゥーマ軍医が、事件当日の様子を仔細に報告しているところだ。そして自分は、仮にもこの会議の議長を務めている身である。
ハイマンは、もう一度すいと目を
「――以上が、昨日起こりました研究所への侵入者事件に関する、一連の報告です」
いつものような白衣ではなく、紺碧の軍服に身を包んだドゥーマ軍医は、一見すると医者には見えない。まるで、どこか前線の幕僚で指揮を取る、司令官のようですらある。白金の髪は整髪料でぴたりと撫で付けられ、背筋もまっすぐに伸びている。まだ若いのに、妙な落ち着きを持った男なのだ、彼は。
ハイマンは、うむと頷く。
「ご苦労だった。ありがとう、ドゥーマ中佐」
名前を呼ばれたドゥーマはしかし、席に着こうとはしなかった。報告書を手に立ったまま、ひたとハイマンを見据えてくる。
「ハイマン大佐」
その目は、彼の報告が真の意味ではまだ終わっていないことを訴えていた。
「私自身の見解を、述べさせていただいてもよろしいでしょうか?」
銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、ドゥーマは依然としてハイマンの顔から視線を外さない。
いつになく真摯なその表情が、物語っていた。彼はこの事件に関して、他の人間とは違う懸念を抱いているのだということを。ハイマンはもう一度頷き、先を促す。それを受けて、ドゥーマは室内の面々をぐるりと見渡した。
「本日ここにお集まりの皆様はご存知のように、欧州陸軍では現在、軍需部および薬学・病理学研究所で協力し、秘密裏に新型の兵器を製造中であります。そして今回の侵入者事件、これは、その新兵器の開発研究と関係があるものと、私は考えます」
その言葉に、ハイマンの隣に座っていた中年の大柄な男が、大仰なくらいに眉をひそめた。
「つまり、あれか。研究についての情報を探る為に、犯人は研究所に侵入した、と? 君はそう言いたいのか? だとしたらそれは、我々が新兵器の開発を行っているという情報そのものが、外部に漏れていることを意味するのでは?」
「はい、そのとおりです。先ほども申し上げましたとおり、今回の件で、研究所からは、ある死亡患者のカルテが盗み出されました」
カルテの患者名までは言わない。当然だ。その患者が――リチャード・トールキン中尉が死亡したことは、この場ではドゥーマとハイマン以外、誰も知らないのだから。その事実を知っているのは、トールキン中尉の病状を調べていた研究員および医師達と、彼の上官にあたるごく数名の者のみだ。
ドゥーマは続ける。
「侵入者と接触した研究員の言によりますと、犯人はカルテを奪って逃走する際に、研究員に妙なことを訊いてきたとのことです」
今度はハイマンも眉をひそめた。
「妙なこと?」
「はい。犯人はこう尋ねたそうです。我々陸軍が開発している新兵器のせいで、カルテの患者は死亡したのではないか、と」
室内に、ざわめきが走る。それらを目顔で抑えてから、ハイマンは口を開いた。
「その質問に対して、研究員はなんと答えたのだね?」
「新兵器はまだ完成していないはずだ、と」
ハイマンは眉間に皺を寄せる。隣の男からは、舌打ちが聞こえてきた。
「まだ完成していないはず」、その答えでは、欧州陸軍が新兵器の開発を行っていると認めたも同然ではないか。おそらくは犯人からの脅迫を受けての発言なのだろうが、しかし――。
ハイマンの考えを読んでか、ドゥーマが先を続ける。
「その研究員は、その直後に犯人によって側頭部を殴られ気を失いました。したがって、彼の口からはそれ以上の情報は漏れていません」
きっぱりとした口調。ドゥーマがそう言うのならば、確かなのだろう。ハイマンは黙ったまま頷く。対してハイマンの隣の男は、不満そうに鼻を鳴らした。
「犯人と接触したのなら、その場で捕らえてくれればいいものを」
憤然と呟いた彼の言葉を、ドゥーマは鮮やかに無視する。
「ともあれ、犯人が研究員に投げかけた質問からも、その人物が、我々の新兵器の存在を嗅ぎ付けていることは、間違いありません。軍内でもごく一部の人間しか知らないはずの、いわば超一級の機密情報が、どのようにして外部に漏れたのか。それは今のところ不明ですが、今回のように、外敵による研究所内奥部への侵入を容易に許してしまったことからも、我々陸軍の機密保持体制や対外警備体制に、大なり小なりの穴があったことは否めません」
だから、新兵器の開発という機密情報についても、どこから漏洩していても不思議ではない、ということか。
ハイマンは苦笑した。
ドゥーマの言葉は、言い換えれば、この部屋にいる誰かが情報を漏洩させた可能性もある、と疑心をぶつけているようなものだ。ここに顔を揃えているのは、彼が言うところの「機密情報を知っているごく一部の人間」なのだから。
室内の面々の様子をそっと窺ってみると、案の定、皆こわばった顔でドゥーマのことを見つめていた。中には、あからさまに不愉快な表情を浮かべている者もいるが、当のドゥーマ自身は、刺すような視線にも全く動じていない。依然として背筋を伸ばしたまま、痛くもかゆくもない様子で立っている。そんな態度が逆効果であることなど、もちろん承知の上だろう。相変わらず、敵を作るのが好きな男だ。
あれがなければ周囲からの覚えもよくなるだろうに、と思う一方で、あれでこそドゥーマだという気もする。彼が他人におもねる姿など、想像に
今の発言にしても、彼が重要視しているのは、皆の気分を害するか否かということではない。この場にいる面々に、どれだけの牽制をかけるかということ、その一点に尽きる。それによって情報の更なる漏洩を防がねば、どんどんと収拾のつかない事態に追い込まれる可能性があるのだから。
その、他でもないドゥーマ自身が、研究には部外者である男に対して件の新兵器について語ったことがあるのを、ハイマンは知っている。
もっとも、その男はもう退役して軍にはいない身だし、その男から更に情報が漏れたということは、まずあり得ない。しかし、ドゥーマのような男でも、他人に機密を漏らすことで、研究による重責を和らげたくなることもあるのかと、変に感心した記憶がある。
ぼんやりと過去を辿っていたハイマンは、ふと我に返って意識を現在に引き戻す。何かとすぐに考え事をしてしまうのは、年齢を重ねたせいなのかもしれない。認めたくは、ないけれども。
「あ、あの……。今回の犯人が、そのカルテと新兵器の開発を結びつけて考えた、その根拠は……一体何なのでしょう」
末席に座っていた若い男が、少しばかり遠慮がちに質問を投げかけた。皆の意識もそちらへと集中する。居並ぶ先輩達の視線を一斉に浴び、彼は恐縮そうに身をすくませる。
しかしその発言は、この場の全員が抱えている疑問を、非常に的確に代弁しているものだった。
ドゥーマは発言者である男に頷きを返し、そして再び一同を見やる。
「犯人が患者のカルテを盗み出し、なおかつ新兵器の存在について研究員に確認を取っているということからも、犯人が、患者の死と新兵器の開発を結びつけて考えたことは間違いありません。しかし、なぜその両者を結びつけたのか。そもそも、犯人が新兵器の情報について調査する、その目的は何なのか。それらの点については、残念ながらまだ明確には分かってはおりません」
ハイマンはこっそりと首肯する。
事件が起きてからまだ一夜明けたばかりで、犯人に関する情報は極端に不足している。不明な点についてはっきりと言明しておくのは、後から逐一揚げ足を取られるのを避けるためだ。ドゥーマの回答には隙がない。
ハイマンの隣で、男が体を揺すって卓上に身を乗り出した。
「あれだな、君の報告によると、研究所の職員が目撃した犯人は、我が欧州陸軍の格好をしていたというじゃないか。これは、陸軍内部の者による犯行と見ていいのかね?」
この問いに対しては、ハイマンが答えた。
「その点については、上層部の諜報機関が秘密裏に内部の人間を調べている。まあ恐らく、犯人が陸軍の格好をしていたのは、施設内へ侵入する際の偽装だろうがな」
「ではやはり、外部から仕掛けられたものである、と?」
「十中八九、そうだろう」
ハイマンの断言に、男は腕を組んで再び椅子の背もたれに体を預けた。うぅむ、と唸ってみせる。
「外部ということは、あれか、他州の軍隊からの密偵か。それとも、ゲリラの仕業か。ゲリラだとすると、あいつらじゃないか? ほら、十六地区の。『
男の言葉に、ハイマンとドゥーマは密かに視線を交わした。それに気付く者は、誰もいない。依然として落ち着き払った声で、ドゥーマは口を開く。
「確かに、密偵やゲリラによる犯行というのは、可能性として挙げられます。しかし今回の事件の場合、犯人に組織立った動きは見られませんでした。恐らくは単独行動と思われますので、この点を考慮すると、ゲリラの線は消えます」
「なるほど。奴らは、群れて行動したがるからな」
本気なのか冗談なのか、大柄な男はそう言って、ゲリラへの固定概念を披露した。ドゥーマは続ける。
「そして、他州軍の密偵にしては、色々と粗が目立ちすぎています。研究員の前に姿を現しておきながら、その研究員を銃で脅すだけに留めるなど、プロのする事ではありませんね。軍属の密偵ならば、情報だけを引き出してから、研究員を始末して逃走するはずです。そうすれば、あのように人を呼ばれて大事になることもない。今回の事件、これは――素人によるものです」
「素人――報道関係者か……」
「えぇ、恐らくは」
その意見に対し、「しかし」と挙手したのは、ドゥーマと同年代の男性だった。広報部の人間である。
「昨夜の騒ぎに関して、報道各社には侵入者のあったことを伏せ、単なる警報の誤作動ということで発表をしてあります。今のところ、この発表内容と矛盾する記事を書いた新聞はないようですが」
男の発言に、ドゥーマも頷く。
「私も、その点が引っかかっているのです。陸軍に侵入するという荒業をやっておきながらも、犯人はカルテや新兵器のことを記事にせず、沈黙を守っています。普通の新聞社であれば、このような特報を放っておくはずはないと思うのですが…」
それを受け、大柄な男が豪快に笑った。
「犯人の奴め、あれだ、逃げる途中で野垂れ死んだんじゃないか?」
これまた、冗談とも本気ともつかないことを言う。
ハイマンは、議場の面々を見渡す。ゆっくりと口を開いた。
「犯人の素性については、新聞社や出版社を通さない、地下活動型の報道関係者という可能性も考慮した方がいい。しかしそうなると、足取りを追うのは非常に難しい。町の外に逃げられたり、どこかに潜伏でもされたら最後だ。犯人が行動を起こす前に、こちらから迅速な包囲網を形成する必要がある」
皆の間に、改めて緊張が走ったのが分かった。ハイマンの隣で、大柄男が顔をしかめる。
「それにしてもあれだな、今回の事件については、一般の民間人だけでなく、陸軍内でもあまり広がってほしくない醜聞だな。天下の欧州陸軍が新聞屋に手玉に取られたなど、格好がつかんだろう。士気にも関わるぞ」
それを受け、先ほどの広報部の男が、困ったように口を開いた。
「しかし、事件のあった当夜は現場も混乱していた為、多くの下級兵士も侵入者捜索に駆り出されました。彼らの間には既に、侵入者ありとの情報が広がってしまっている恐れがあります。すぐにでも箝口(かんこう)令を敷いたほうが得策かと」
皆、一様に頷く。大柄な男が、ハイマンの方を見やった。
「その点について、上層部の意見は?」
「追って沙汰を下す、だそうだ」
室内に溜息の輪唱が満ちる。
このようにして左官階級の人間が頭をつき合わせて相談しても、結局は上層部の鶴の一声で、全てが決まってゆくのだ。同じ「軍人」という身分とはいえ、左官階級と将官階級を隔てている精神的な壁は、未だ陸軍内で高く構築され続けている。
「それでは、あれだな、今後の対応については、上層部からの通達待ちということだな」
まるで自らが議長であるかのように、男はそう締めくくった。それに続きドゥーマも、神妙な顔を作る。
「研究所の方でも、犯人についての手がかりを探るべく、調査を続けてみます」
そして彼は居住まいを正すと、その長身を折り、場の全員に対して頭を下げた。
「この度は、我々の監督不行き届きにより、皆様には大変ご迷惑をお掛けいたしました」
ハイマンは思わず苦い顔になった。ドゥーマの心境を慮ってのことである。
ドゥーマ軍医の本来の所属は、研究所ではなく施設病院の方だ。にもかかわらず、今回の件に関して研究所の責任者代わりに仕立て上げられているのは、皮肉なことに、彼のその高い
陸軍内でも、医師としての信頼が確固たるものとなっている彼は、医学的見解を求められて研究所にも出入りすることが多い。人手が不足していることも手伝って、例の新兵器製造に関しても少なからず携わっている。責任者不在という現在の研究所にとって、この事態の渦中にあり唯一頼れる存在だと認識されたのが、他でもない、彼――ミハイル・ドゥーマ軍医だったのだ。
いわば、日頃の有能さが災いして、負わずともよいはずの責任を全て押しつけられたということである。
事情は分かってはいるが、立場上、自分は〝彼に対して〟、今回の件の過失を問わなければならない。
「君も重々理解しているだろうが、今回の件は前代未聞の騒動だ。当分の間、第二波が来ることはないと思うが、今後このような事態が再発することのないよう、研究員達には厳しく指導してくれたまえ。それから、何か新しく分かったことがあれば、すぐに報告するように」
「承知いたしました」
表面上だけは
その後は、新たな質問事項が上がることもなかったので、議長であるハイマンは場の閉会を宣言した。
会議が終了し、皆が散り散りになるのを見計らって、ハイマンはドゥーマを呼び止めた。会議室には既に、二人の他は誰もいない。
「今回の件、君には災難だったな」
「いえ」
彼はにこやかな表情を返してくる。その目が笑っていないのは、いつものことだ。ハイマンは早速本題に入った。
「盗まれたカルテの患者――トールキン中尉は、確か例の第三十八地区の調査から帰還して、その後すぐに死亡したのだったな」
先日、欧州からは遠く離れた亜州の島国第三十八地区で、大規模な爆撃が起こった。爆撃を行った国家などについては依然として不明のままだが、爆撃直後、欧州陸軍からはいくつかの調査隊が現地へと派遣された。そのうちの一つが、リチャード・トールキン中尉率いる一個小隊だったのだ。ハイマンの抱える第一八九連隊、その中の第三番中隊に所属する面々である。
ハイマンからの問いに、ドゥーマは目を伏せた。先ほどまでの議場での刺々しさは消え、医師としての顔に戻る。
「トールキン中尉だけではありません。一緒に調査へ赴いていた部隊の人間、全員が死亡しました」
「ということはやはり、例の爆撃に使われた兵器、あれが原因と考えてよいのだろうか」
「ええ。十中八九、間違いありません。爆発の際に撒布された有害化学物質が地上に残留していて、彼らはそれを吸引してしまったのでしょう。昨日、私も遺体の解剖作業に立ち会いましたが……ひどいものでした。内臓が
「つまり、その有害物質による人体汚染で死亡したということかね?」
ドゥーマは頷く。
「彼らは防護マスクを着用して調査を行っていました。それにもかかわらず、全員が、帰還後わずか数日の間に死亡しています。このことからも分かるように、第三十八地区の爆撃に使用された兵器は、防護マスクさえも意味をなさないほどに強力な、残留した有害化学物質によって、爆撃の直接的な被害を受けなかった者さえをも死に至らしめることができるのです。そして――」
僅か、眉根を寄せる。
「そしてその特徴はまさしく、我々欧州陸軍が現在開発中の新兵器―放射能兵器と、全く同じものなのです」
二人の間に、しばしの沈黙が流れる。互いに目を合わさず、俯き加減に板張りの床を眺める。
やがて、ハイマンがゆっくりと口を開いた。
「遺族には、彼らの死についてどう説明するのだね?」
その問いに対しては、僅かな間があった。やがてドゥーマは、疲れたような声で呟く。
「説明も何も……いつもと同じですよ」
「〝ご子息は立派に戦功を挙げられて〟?」
「今回の場合は、第十六地区からの撤退に際してゲリラとの衝突があった、ということになるでしょうね」
それは、戦時中から幾度となく取られてきた手法だ。遺族に対しての説明が面倒な事例は全て、この「ご子息は立派に」の一言で片付けられてきた。今回もまた、然り。
ハイマンは思わず眉をしかめた。ハイマン自身に子どもはいないが、死亡した若者達の親の気持ちを考えると、毎度の事ながら、自分たち欧州陸軍の悪趣味さを認めざるを得ない。
暗鬱とした気分を振り切りたくて、ハイマンは話題を変える。
「それにしても、素人とは言え、相手はかなり頭の切れる奴だな」
相手というのが、今回の侵入者事件の犯人を指しているということに、ドゥーマは気付いたようだ。
「ええ。それに、陸軍の人間に成りすまして侵入してくるあたり、かなり大胆でもありますね。大胆かつ頭脳明晰。そういう人物は、非常に厄介です。ともあれ彼は――いや、もしかしたら女性が犯人なのかもしれませんが――、ともかくその人物は、トールキン中尉のカルテを見て、今頃はもう一つの可能性に気付いていることでしょう」
「欧州陸軍以外にも、恐ろしい兵器を開発したところがある、と」
ドゥーマは重々しく頷いた。そんな彼を、ハイマンはじっと見据える。
「君は、第三十八地区の爆撃がどこによるものなのか、見当がついているのではないかね?」
その言葉に、ドゥーマの表情が一瞬だけぴくりと動く。それは、洞察力のある者でなければ見逃してしまうほどの、ほんの小さなものであった。しかしその僅かな変化ですら隠すように、ドゥーマは目を伏せる。
「申し訳ございません。確たる証拠がない以上は、ただの憶測に過ぎませんので、今は何もお答えすることができません」
「君らしい返答だな」
「ただ、今回の爆撃がどの国家によるものであったとしても、第三十八地区の被害が甚大であったことは、派遣隊の報告書からも明らかです。今は、例のカルテを盗んだ犯人も沈黙を守っていますが、もしも爆撃の情報が世間に流布してしまえば、とんでもない混乱が巻き起こることは確実です。民間人をも標的とした大量虐殺兵器が、この世に存在しているのですから」
その懸念に、ハイマンも大きく溜息をつく。そして顔を上げた。
「欧州が開発中の新兵器は、まだ完成していない……それは、確かなのかね?」
「はい。兵器に化学反応を起こさせる為の鉱物が、なかなか手に入らないと聞いています。技術や設備は揃っていても、材料がないのでは、製造は滞りますからね」
そこで一旦言葉を切り、ドゥーマは自嘲気味な表情を浮かべる。
「そうは言っても、私自身も詳しいことは知らされていないのです。私が携わっているのはあくまでも、放射能による後遺症を調査する段階でしかないので。今現在、工場の方でどの製造段階に入っているのかなどは、全く伝わってきません」
正確に言うと、全ての工程を把握している人間など、いないのかもしれない。ハイマンは幾分暗い気持ちで、そうかと頷いた。
規模の大きな作戦や軍事行動になればなるほど、本来ならば、情報の徹底管理と周知が必要である。にもかかわらず、たいていの場合において、大切な情報はすべて分散し、全体図を把握している人間が皆無になってしまうのだ。
今回の新兵器開発においてもまた、例外ではない。戦時中ですら、何度となくそういった場面が見られたほどなのだから。
このような組織体制で、よくぞ二十年以上も戦いを続けることができたものだと、ハイマンは今になって思う。
「近日中に、その、兵器製造工場の方に視察が入る予定だ」
「視察……ですか。工場と言うと、第十六地区の?」
「ああ。上層部の人間は、工場の方から、新兵器に関する情報が漏れたのではないかと疑っている。陸軍内部の調査と並行して、諜報部の方から工場に視察団を送るそうだ。今現在、その人員選出と日程調整に頭を悩ませているよ」
ドゥーマは軽く瞠目する。
「そのような情報を、私に打ち明けてしまってよろしいのですか?」
「君ならば、絶対に口外しないからな」
そう言ってからハイマンは、目尻に皺を刻んだ。
「誰かに打ち明けないと心が落ち着かない、そういう経験が、君にもあるだろう?」
案外このようにして、機密情報は伝播され、漏洩してゆくものなのかもしれない。ハイマンは思った。ドゥーマも同じことを考えたのか、苦笑を浮かべる。
「上層部の調停役というのも、大変ですね」
そこで彼は、ふと表情を改めた。会議室の床に視線を落とす。
「いっそのこと、今回の犯人が、恐ろしい兵器の存在について早く世間に公表してくれたらと思いますよ。個人的にはね。そうすれば、少なくとも欧州では開発を断念せざるを得ない。戦後のこの時期に新しい兵器を製造するなど、国際世論からの非難は確実なのだから。さすがに上層部も、世界を敵に回したくはないはずだ」
独白のように呟いている。その目に宿っているのは、静かなる怒り。恐らくは、大いなる権力に対する怒りだ。
ハイマンは、そんなドゥーマの気を和らげようと、柄にもなく、おどけた様に肩をすくめてみせた。
「おやおや。新兵器の開発研究に携わっている者が、そんなことを言うのかね」
しかしドゥーマの表情は硬いままだ。
「携わっているからこそ、ですよ。あの兵器に使われている放射能というのは、とんでもないものです。実験に使われた動物達の末路や、今回のトールキン中尉たちの死は、尋常ではありませんでした。私は……私は、仮にも医者です。あんなにも禍々しいもの、生み出してはだめなのです。ましてや、実用化など」
整った顔を歪めるドゥーマは、いつになく感情的だ。彼がこのように言葉を吐き出すのを、ハイマンは久しぶりに見たように思う。手を伸ばすと、彼の背中を軽く叩いてやった。それはまるで、新米の兵士にしてやるように。
「何にせよ、戦争はもう終わった。そんな兵器は用済みなんだ。たとえ完成させたとしても使い道がないのだから、近いうちに、開発は断念せざるを得ないよ」
ハイマンの言葉を一つ一つ確認するように、ドゥーマはゆっくりと頷く。
「そう、ですね……。そうだとよいのですが…」
しかし二人とも、気付いていた。
一度大きな力の存在を知った者が、その力を容易に諦めるはずがないのだということを。たとえ使い道がないと分かっていても、己の権威を誇示する為に、その力を何としてでも手に入れようとするのだということを。
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