(5)ー2

 ふと気付けば、眉間の辺りがいやに力んでいる。デュカスは重い息を吐き出した。

 ひとまず旅装を解こう、そう思い、まずは手にしていた長細い包みを壁に立てかける。布にくるんであって一目では判別しにくいが、それは一振りの剣だ。今のデュカスにとっての、唯一の所有品。唯一、故郷の村から持ち出せたものである。

 次に、羽織っていたパーカーを脱ぐと、コート掛けに掛けた。そのパーカーも、下に着ているぶかぶかのシャツも、少し長めのジーンズも、デュカス自身のものではない。友人の好意に甘えて借りたものだ。

 部屋の隅に洗面台があることに気付き、デュカスはそこで顔を洗うことにした。

鈍色にびいろの蛇口を軽くひねると、申し訳程度にちょろちょろと水が流れ出てくる。それでもデュカスは、思わず戸惑ってしまう。水道。使ったことがないわけではないが、少なくともテト村には―自分の生まれ育った村には、存在しなかったものだ。

 井戸水や小川の水を汲み上げて使っていたデュカスにとって、今のように壁に繋がったパイプから水が出てくるという現象を目にすると、やはり不思議な気分になる。

 しかし――と、生温い水で顔を洗いながら、デュカスは思う。テト村を出た以上は、こういった生活習慣の違いにいちいち戸惑っているわけにはいかないのだ。

 蛇口を止め、傍らに備え付けられていたタオルで顔を拭く。そして、ふと呟いた。

「あいつは……なんでこの街に来たんだろう」

 隣村からの襲撃によって焼け落ちた、故郷の村、そこでデュカスはハルトと再会した。そのテト村を後にして山を下りてからは、山の麓にある町ウラカで、自分の村と隣村セゲドの確執の根深さを目の当たりにすることになった。セゲド村がなぜテト村を襲撃したのか、その経緯についても話を聞いた。

 その後は、半ば無理やりにこの首都カストヴァールに連れてこられたのだが、わざわざこの街に来なければならなかった理由を、デュカスは未だにハルトから聞かされてはいない。

 洗面台から離れると、デュカスはベッドの端へと腰掛けた。ぼんやりと、宙を見つめる。

 実を言うと、このカストヴァールの街に来たのは、今回が初めてではない。ずっと昔、まだ幼い頃に、父親に連れられて来訪した記憶がある。

 なぜ、山奥のテト村からこのような都会の街にまで出かけてきたのか、なぜ、母親と姉は同行せずに、父親とデュカスの二人だけで来たのか、それはデュカスも覚えていない。しかし、父に肩車をしてもらって街の中を見て回ったことは覚えている。父と同じ高さから眺める町は、とても華やかに見えた。

 両親が揃って列車の事故に遭ったのは、それからしばらくしてからだった。デュカスが五歳の頃のことだ。悪天候の中でカストヴァールへ向けて出発した列車は、山間部を走行中に脱線を起こした。デュカスたちの両親以外にも、たくさんの犠牲者が出たという。

 二人がまたあの華やかなカストヴァールの街に出かけるのだと聞き、砂糖菓子を土産に頼んだことを、今でも覚えている。事故の後、二人がもう帰ってくることはないのだと姉や大人達から言い聞かされたが、どうしても納得できず、父ちゃんと母ちゃんは土産を買ってきてくれるんだとか何とか、そんなことを泣き喚いた記憶もある。五歳のデュカスには、死というものが何なのかさえ、全く分からなかった。ただただ、もう父親と母親に会えないのだということだけが、悲しくて仕方なかった。

 とはいえ、その後は姉と二人、お互いに支えあって幸せに暮らしていた。

 両親が遺してくれた家と畑と、そして彼らの墓を守りながら、二人で生きてきた。決して裕福な暮らしではなかったけれど、不満はなかった。日々の糧があればそれで十分だった。村の人々とも仲良く、まるで皆が家族のように、楽しく朗らかな生活を送っていたのだ。

 それなのに。

 あの日――村が襲撃を受けた日を境に、自分は全てを失った。最愛の姉も、大切な友人も、帰る処も、全て。

 顔を歪め、デュカスは己の右手を見つめる。そしてそのまま、手の平を強く握りこんだ。

 あの日、あの時、あの業火の中で、デュカスが手を放しさえしなければ、姉は死なずに済んだかもしれない。自分がその手をしっかりと握ってさえいれば、彼女は今この瞬間も、デュカスの隣で朗らかに笑っていたのかもしれないのだ。

 デュカスは唇をぎゅっと噛み締める。この、右手が。この右手が、全てを――…。

 無意識のうちに、その手は左の二の腕へと触れていた。触れた箇所には、包帯が巻かれてある。姉を助けようとした際、デュカス自身も燃え盛る炎の中に体を叩きつけられ、そのときに負った火傷だ。

 瞼の裏には、今でもあの業火が鮮やかによみがえる。落ちてくる天井、焼け付く腕の痛み、そして――炎の向こう側で微笑む姉。

 胃の辺りが、まるで鉛でも入れられたかのように、急にずしりと重くなった。呼吸が浅くなる。鼓動が早鐘を打ち始める。吐き気が、こみ上げてくる。

 思わず座ったまま屈み込み、口元を抑えた。

 息が荒い。体から脂汗が吹き出てくる。喉の奥で、ひゅっという嫌な音が聞こえた。

 デュカスはしばらくの間、その姿勢で己の中からこみ上げてくるものと闘う。それは胃の腑のものなのかそれとも、荒れ狂う叫び声なのか。デュカス自身にも分からない。やがて大きく唾を呑み込むと、かぶりを振り、ゆっくりと重苦しい息を吐き出した。

 だめだ、このままではだめなのだ。あの日に立ち止まったままでは、いつまでも傷は癒えない。自分で前に進まなければ、何も変わりはしないのだ。分かってはいるものの、未だデュカスの足は、あの日に縫い付けられたままだ。

 口元を抑えていた両手で、そのまま顔を覆う。

 全てを失った自分は、これからどうなるのだろう。どうするべきなのだろう。

 テトの村が襲撃を受けた理由については説明を受けたが、正直なところ、デュカスには難しすぎてよく分からなかった。

 村同士の利権争いや銃の密輸云々など、大人の事情はデュカスにとってはどうでもよい。デュカスにとっての真実は、隣村セゲドが自分の村を襲撃したということ。それによって自分は、大切なものを全て失ってしまったということ。ただ、それだけだ。

 そして芽生えるのは、襲撃を行った人間に対する憎悪の心。セゲド村に対する、憎しみの感情しかない。

 しかし。と、デュカスは顔を上げ、先ほどまで自分が担いでいた背嚢はいのうを見つめる。ウラカの町を出るときに、友人のミトが用意してくれたものである。彼女もまたセゲド村の出身だ。

 セゲド村の人間にも、いい人はたくさんいる。それは分かっている。分かっているからこそ、やり場のないこの感情が、心の中でただ悶々と渦を巻くだけの結果になってしまうのだ。

 ふと、隣のベッドに目をやった。そこにはハルトの背嚢が無造作に放置されている。

 これから自分がどうするのか、どうなるのか。いずれにせよ、全ては彼次第だ。今のデュカスに、決定権はないに等しいのだから。デュカスの意思など、はなから考慮されていないのだから。

『もう帰るところはなくなったんだ。お前も――オレもな』

 ハルトから言われた言葉が、耳の奥にこびり付いて離れない。デュカスはそっと、重い息を吐いた。

 気分を変えようと、軽く伸びをしてからベッドの上にごろりと横臥する。

「あいつは、なんでこの街に来たんだろ……」

 もう一度呟いてみた。

 テト村を出る時に、ハルトは言った。自分にはやらなければならないことがある、と。しかしそれが一体何なのか、そして、なぜこの首都カストヴァールにまで来る必要があったのか、そういったことについては全く語られないまま今に至っている。

 デュカスは眉根を寄せる。

 ハルト本人にその詳細を尋ねたところで、どうせ教えてくれないことは目に見えているし、何よりデュカス自身、自分からあの男に話しかけるのがやはり躊躇われる。

 そういえばあいつは、どこかの国が爆撃を受けたとか、そういったことを言ってなかったか。詳しくは、よく覚えていないが。

 ともかく、ここで自分が考えていても仕方がない。今の時点では、いずれにせよハルトの行動に従うしかないのだ。

 そう結論づけると、デュカスは寝返りを打って天井を見上げた。天井の梁がかすんで見え、部屋の灯りがやけに眩しく感じられる。少しずつ瞼が重たくなってきた。くあ、と一つ欠伸あくびをすると、デュカスはその重力に任せて目を閉じた。ハルトはまだ、帰ってこない。

「そういやあいつ、どこ行ったんだろ……」

 小さく呟いたのを最後に、デュカスの意識は深い眠りへと落ちていった。

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