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 腹ごしらえを済ませ、兵士たちとの雑談も終えたところで、ラウルは食堂を後にした。入ってきた時と同じ玄関口から、兵舎の外に出る。

 並木道の続きを徒歩で進む。ほどなくして並木道は途絶え、右手に倉庫の列が見えてきた。それも素通りして直進すると、倉庫の背後に、赤い煉瓦造りの威圧感ある建物が現れる。その数は四棟。軍人階級の人間が勤務する、内勤用の建物だ。

 そのうちの一つに目標を定めると、ラウルは近くまで寄って入り口を覗き込んだ。開け放たれた扉の向こうでは、軍服姿の男たちがせわしく行き交っていた。扉の上には「作戦部」の文字が書かれた板が掲げられている。ここが作戦部。戦場の最前線で動く男たちにとって、要となる部署だ。まさに、彼らの命運を握る場所。

 ラウルは、三角巾で吊るした自分の右腕を見やった。

 この腕をなくしたのも、数年前の作戦部が無茶な作戦を立てたせいだ。

「現場を知らん人間が作る作戦やからなぁ…。しゃーないっちゃあ、しゃーないけど」

 それでも、前線の人間としての立場から言わせてもらえば、自分たち兵士が使い捨ての駒のように扱われることには、我慢がならなかった。無謀とも言える作戦が失敗して多くの仲間が命を落としてゆくたびに、深い憤りばかりが胸に募った。

 だが彼ら作戦部の軍人からしてみれば、一兵卒の死などは、戦死者リストに加えられてゆくだけの単なる数字に過ぎない。だからこそ、どれだけ無茶な作戦であっても、必ず遂行しろと前線に伝えるのだ。自分たちは、前線とは離れた安全な場所から、指示を送るだけなのだから。

 ラウルは作戦部の建物の周囲を、ぐるりと歩いて回る。

 窓越しに中の様子が見て取れた。どの部屋にも机がたくさん並び、その上は書類の山であった。たくさんの軍人たちが、気難しい顔で、あるいは笑いあいながら、自分たちの業務をこなしている。

 そういえば、とラウルは思う。上級士官用の建物に入ったことは、今まで一度もない。

 というのも、当然のことながら、下級兵士は上級士官用の業務施設に立ち入ることが許されていないからだ。ラウルが持っている「伍長」の袖章では不十分なのだ。

 しかし作戦部の建物なら、兵舎よりももっと有益な情報が手に入るのではないだろうか。

 ラウルは足を止め、建物の中を見つめる。やって、みるか。見つかってしまえば、その時はその時だ。何とか言い逃れればよい。

 とは言ったものの、どのようにしてこの堅固な建物に入ろう。入り口には衛兵が控えているし、窓から侵入しても、中にいる軍人にその現場を押さえられてしまうことは必至だ。

 ラウルは指先で自分の鼻筋をなぞりながら、考え込む。

 侵入方法を模索して立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられた。

「ちょっと兄ちゃん、そこを通してくれるか」

 振り返ると、作業着姿の中年男性が立っていた。荷物を渦高く積み上げた台車を、両手で支えている。彼はその台車を押して、目の前の業者用搬入口に向かおうとしているようだった。作戦部に出入りする、仕入れ業者の人間なのだろう。

「あ、ごめん」

 ラウルは慌ててその場を飛び退く。男は台車を押して、空いた道を先へと進んだ。搬入口の前で台車を止めると、両開きの扉の片側だけを半分ほど中に押し開ける。そのまま台車を通そうとして――そこでつかえた。扉が反動で戻ってきてしまったのだ。男はそれでも無理やりに台車を通そうと奮闘する。

 ラウルは慌てて男の元に駆け寄った。そして、閉じかけている扉を左手で支えてやる。

「開けといたるわ」

「お、悪いな、兄ちゃん」

「ええって、ええって」

 にっこりと笑って、男を中へと促した。男は更に台車を押し進める。扉はもう一枚立ちはだかっていた。ラウルは先に立ち、それも開いてやる。

 台車は無事に二枚の扉を通過した。しかしその上に載っている積荷はぐらぐらと揺れていて、はたから見ているとあまりに不安定だ。この男一人で支えながら運ぶのは困難ではないだろうか。そう思ったラウルは、左手で積荷の片側を支えてやる。

「おっちゃん、オレ、こっち支えるわ」

「おぅ、助かる」

「これくらい、お安い御用や」

 ラウルは屈託のない笑顔を向ける。だが男はラウルの顔をまじまじと見つめ、そして呟いた。

「兄ちゃん、変わった言葉を使うんだな。どこの出身だい?」

 しまった、とラウルは一瞬だけ青ざめる。うっかりして、いつもの口調に戻ってしまっていた。

「あ、ああ、せやねん。オレ、田舎者やからさ、言葉おかしいやろ? まだ六地区に出てきたばっかで、慣れへんことだらけやねん」

 引きつった笑顔のまま、とりあえず言い繕ってその場をしのぐ。男もそれ以上は訊いてこなかった。ラウルはそっと溜息をつく。気を付けなければ。

 二人で台車を押しながら、作戦部棟の廊下を進む。男は納品庫の前で台車を停めた。

「ここでいいよ。後は一人でできるから。本当にありがとうな、兄ちゃん」

「どういたしまして」

 男に手を振り、ラウルは元来た道を帰る。コンクリートの床を颯爽と歩き、そして、はたと足を止めた。周囲を見渡す。

 いつの間にか、作戦部の中に侵入できているではないか。

「ありゃ? ホンマに入ってしもたで。何やしら、えらい得した気分やな」

 思ってもみない幸運に、ラウルは頭を掻く。ややあってから、にやりと笑った。折角だからこの機会を利用しない手はない。

「まずは何しよかな。まさか軍人さんたちの輪の中に、こんにちは、って入っていくわけにはいかんしなぁ。どないして情報収集しよ。新兵器についての資料とかは、やっぱり研究所の方にあるんやろか」

 廊下のど真ん中でぶつぶつと呟いていると。

 かつかつ、という、コンクリートの床を打つ小気味よい音が聞こえてきた。ラウルは音のした方向に首を巡らす。

 前方から、人影が三つ近付いてきた。

 ラウルは慌てる。作戦部棟内を伍長階級の人間が歩いているのは不自然だ。兵舎とは事情が違う。さすがに見咎められるだろう。

 そう思ったが、隠れている余裕もない。むしろこんなところで下手な行動を取ったりすれば、不審がられることは確実だ。このままやり過ごすほうが賢明か。考えている間にも、三人組の姿はこちらにやってくる。何か、適当な言い訳を考えなければならない。

 喉元を鳴らして唾を飲み込む。大丈夫だ、落ち着け。

 見たところ、三人ともラウルと同年代くらいだ。しかし整った正装用軍服を着ていることからも、れっきとした「軍人」であることがうかがえる。三人のうち中央を歩く人物の襟元には、二段ラインで深緑色の階級徽章が付けられていた。陸軍大尉だ。ということは、その両脇に控えているのは彼の部下だろうか。何にせよ全員が、単なる「兵士」階級であるラウルよりも上級士官だということになる。ラウルは廊下の端に移動して道を譲り、左手で敬礼の姿勢をとる。

 三人組は談笑をするわけでもなく、押し黙ったまま廊下を進む。軍靴ぐんかの響く音が、ラウルの緊張を更に煽る。彼らとラウルの距離は狭まるばかりだ。

 大丈夫や、何とかなる。

 自分に言い聞かせ、敬礼のまま中空を見つめる。このまま通り過ぎてくれと、切に願いながら。しかし、そう都合よく事が運ぶはずはなかった。

「おい、お前」

 呼び止められ、ラウルは心の中で舌打ちした。

「ここは下級兵士が立ち入っていい建物ではない。知らないとは言わせないぞ、伍長」

 大尉を挟んだ男のうちの一人が、ラウルの袖章に目をやり、厳しい声で咎める。彼の襟元には二段ラインの臙脂えんじ色徽章。中尉階級だ。

 詰問に対し、ラウルは敬礼の姿勢を崩さず、なおも中空を見つめたまま答える。

「はっ、もちろん存じ上げております。自分は、右腕の診察を受けるため、この建物の先にある施設病院へ向かう途中であります」

 とっさに思いついた言い訳だった。施設の見取り図が頭に入っていたからこそ出てきた台詞だ。

 ラウルの言葉に、もう一人の中尉が苦笑する。

「そう堅くなるな、伍長。施設病院へ行くのに、何故この建物に入る必要がある? 普通に外から行けばいいではないか」

「はっ、この建物を通った方が近道だからであります」

「近道ぃ?」

 最初の中尉が顔をしかめる。そして次に吹き出した。

「大胆な奴だな、お前。施設病院への近道に、上級士官専用の建物を通るのか。気に入ったぞ。名前は?」

「第三歩兵師団所属、バーナード・セアン伍長であります」

 無論、偽名だ。

「セアン伍長、今回だけは見逃してやるが、次回からは近道をせずに正規の道のりで病院へ向かうんだな。他の士官に見つかったら大事おおごとだぞ。―ところで、その右腕は戦傷か?」

 会話を続けるので、ラウルもそれに合わせる。

「はっ、先のザルム戦役の時に受けたものであります」

「ザルムか。終戦間際のやつだな。もう少し早く戦争が終わっていれば、お前も右腕を負傷せずに済んだかもしれない。時機が悪かったな」

 それは無理だろう、とラウルは心の中で一人苦笑する。ラウルが実際に隻腕になったのは、もう何年も前の話だ。

「まあ、その世界大戦だってもう終わった。これからは俺たち軍人も、内勤が主だ。負傷兵であっても活躍の場は十分にあるんだから、諦めずにがんばれよ」

「もったいなきお言葉、誠にありがとうございます」

 ラウルは改めて敬礼を取る。二人の中尉はラウルの肩を軽く叩くと、その場から去ってゆく。相変わらず、中央には大尉を挟みながら。

 このときラウルはふと気付いた。あの大尉は、先ほどから一言も言葉を発していない。上官を差し置いて部下が話し続けるというのも、妙な気がする。思わず首を傾げた。

 とはいえ、そのことについてゆっくりと思索しているような心の余裕はない。奇妙な大尉一行が立ち去ると、ラウルはすぐさまその反対方向へと歩を進める。

 ラウルは三人に聞こえないよう、そっと息を吐いた。

「はぁー、危機一髪やな」




 一人の大尉と二人の中尉は、大胆な伍長と別れた後も廊下を再び歩き出した。無機質な軍靴の音が響き渡る。

 二十歩ほど歩いたところで突如、中央を歩いていた大尉が足を止めた。二、三歩遅れて部下も立ち止まる。彼らの上官は首を巡らせ、こちらを振り返る。視線は、部下の背の更に後ろに向けられていた。

「どうしました、ゲイラー大尉」

 一人が尋ねる。しかし返答はなかった。大尉は、遠ざかってゆく先ほどの伍長の背中をじっと見つめている。再度の部下の呼びかけにも答えない。やがて、表情を一つも変えずにぼそりと呟いた。

「……直感」

 その言葉の意味が理解できずに、二人の中尉は顔を見合わせ、肩をすくめる。

 自分たちよりも年若いこの大尉は、いつもこの調子だ。ろくに会話というものを行わない上に、たまに口を開いても本当に必要最低限の単語しか発さない。今だって、たとえこちらが言葉の真意を尋ねても、教えてくれることは決してないだろう。

 二人は軽く溜息をつく。もう慣れてしまった。

 やがて、伍長の背中は廊下の角を曲がって消えていった。呆れ顔の部下には構わず、ロウ・ゲイラー大尉はその角をじっと凝視していた。

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