(3)-4
角を曲がったところで、ラウルは周囲に人がいないことを確かめると、目の前にあった手洗い場に駆け込んだ。幸いその中にも人影は見当たらなかった。
すぐさま個室へと直行すると、中に入り、鍵をかけた。
薄汚れた便器の蓋に腰掛け、長い息を吐く。
鼓動はまだ速い。さすがに今の展開には驚いた。実際あの場をよく言い逃れたものだと、我ながら感心する。
やはり、人通りの多い時間帯に分別なくうろつくのは無謀だ。夜になってから行動を開始した方がよい。それまではここで身を潜め、施設内の人通りが少なくなってきたら調査を開始しよう。やはり研究所に向かうのが一番無難だろう。研究所に侵入し、新兵器開発の情報を探ればよい。
しかし、本当に手頃な情報が見つかるだろうか。
そもそも自分が侵入者であることが誰かにばれてしまえば、この計画は失敗に終わる。それどころか、ラウル自身の身も危うくなるのだ。今回は調査対象が大きいだけに、それに伴う危険も大きい。先ほどは何とかごまかす事ができたが、この次も都合よくいくとは限らないのだ。
今さらながら、今回の調査が危険な賭けであることを痛感する。
目をつむり、眉間の辺りを指でつまんだ。
大丈夫や、自分の悪運の強さは知っとる。
言い聞かせながらも、大きな不安は拭えない。いつもの癖でつい煙草に手を伸ばしそうになるが、それを押しとどめる。こんなところで喫煙はまずい。再び溜息をつこうとした、その時。手洗い場の扉が開いて複数の声が入ってくるのが分かった。タイル張りの床に軍靴が鳴る。
ラウルは息を潜め、耳を澄ました。どうやら二人連れのようだ。声の様子から判断するに、両者共まだ若い。ひょっとしたら、兵卒から上がったばかりの新米軍人かもしれない。二人は用を足しながら、食堂の飯についてなど他愛のない話を続けていたが、ふと一人が声を曇らせた。
「なぁなぁ。最近、トールキン中尉の小隊、見ないよなぁ」
それに対し相手は、うん、と答えた。まだ少し子どもっぽさの残る声だ。
「あの人たち、またどこかの地区に派遣されてるらしいよ」
「またぁ? 確か、ついこの間も派遣任務があったばかりじゃなかったか? どこ行ってたかは知らないけどさぁ、小隊の奴らみんな、帰ってきた時すっげぇ具合悪そうだったぜ。なんっか、鬼気迫るものがあったよなぁ」
会話を切り出した本人は、若者らしい、憮然とした口調で呟く。
ラウルは眉をひそめた。一体、何の話をしているのだろう。
もう一人の若者は、同僚の言葉に同意した。
「言われてみれば、確かに。よっぽどキツイ仕事だったんだろうね。昨日の今日なのに、あちこち行かされて大変そう」
「そもそもあの人たちって、一体どこに派遣されてたんだ?」
「さあ? 俺は知らないよ。中隊長の方からも何の説明もなかったし」
「だよなぁ? シュタイナー少佐も水臭いぜ。オレたちに教えてくれてもいいのに。暗黙の了解のうちに、極秘任務扱いになってるよなぁ、あれは」
極秘任務という言葉に、ラウルの好奇心が
しかし、まさかここで彼らの前に姿を現して、色々と話を聞くわけにもいかない。
仕方ないので、二人の会話から拾える情報を整理する。
彼らの話によると、つい最近、二度ほど極秘の派遣任務が実行された。任務を受けているのは「トールキン中尉の小隊」であり、この場にいる二人は、そのトールキン中尉と同じ中隊に所属しているようだ。中隊長の名前は「シュタイナー少佐」。中隊長は、他の部下に対して、トールキン中尉たちの派遣先を公表していない。
二人はラウルが個室に入っていることには気付かないのか、声の調子を落とさずに話し続ける。
「極秘任務、ね……。仕方ないんじゃないの? 少佐には少佐なりの事情があるんだよ、きっと。上層部から口止めされてるとか。よくあることじゃないか」
「ん、そうなんだけどな。なんっかさ、トールキン中尉の姿が見えないから、活気が湧かないんだよなぁ。シュタイナー少佐自身も急に除隊しちゃうし。あの二人がいないと、中隊全体の空気が締まらないぜ」
「ほんと、ほんと。二人あってこその我が中隊なのにね」
「士気が下がるよなぁ」
若い二人は悄然と溜息をつく。用はもう足し終えただろうに、まだ立ち去らない。身だしなみでも整えているのだろうか。
「俺なんて、せっかくシュタイナー少佐の中隊に配属されて喜んでたのに」
「え、マジかよ? お前ひょっとして、シュタイナー少佐に心酔してるクチか」
「心酔なんて大げさなものじゃないけど、尊敬はしてるよ」
若者は、きっぱりと言い切る。対して、彼の同僚は言葉を濁した。
「オレは……苦手だな、あの人。なんっか、怖ぇもん」
「確かに、俺たちに対しては厳しい顔しか見せないもんね。でもそうじゃないと、この仕事は務まらないでしょ」
「お前なぁ、知ったようなこと言うなよなぁ。まぁ、確かにあの人はすごいとは思うけど」
何がどうすごいのかは分からないが、「シュタイナー少佐」という人物は、部下の間でも一目置かれる存在であったようだ。きっと、歴戦を潜り抜けてきた老練の士なのだろう。寄る
「次の中隊長は誰になるんだろなぁ」
「移動してきた部隊から、新しい人が赴任するらしいよ」
「ちゃんと務まるのかねぇ」
同僚の言葉に、片割れは子どもっぽい声でくすくすと笑う。
「あのゲイラー大尉と対等に渡り合える人なんて、そうそういないと思うよ」
「同感。オレたちよりも先に、まずはゲイラー大尉を
「副隊長との交流が持てない、っていう理由ですぐに辞めちゃったりして」
「それ、洒落になんねぇよ」
言いながらも、二人はお互い笑いあう。かつ、という軍靴の鳴る音が、狭い手洗い場の中に響いた。彼らが足を踏み出した音だ。
「さぁて、そろそろ持ち場に戻るとするか」
「退屈な内勤業務の再開だね」
「それを言うなよなぁ」
二人は床を踏み鳴らし、手洗い場を出てゆく。蝶番のきしむ音が聞こえ、やがて扉が閉められた。足音も遠ざかり、手洗い場には再び静けさが戻る。
ラウルは便器の蓋の上で、しみじみと感慨にふける。上官に関する噂話で盛り上がる、というのは自分にも覚えのあることだ。懐かしいものである。
しかし、とラウルは眉根を寄せる。
自分がかつて在籍していた部隊の指揮官は、とんでもない人間だった。今の若者たちが話していた「シュタイナー少佐」のような、尊敬に値する人物ではない。
演習時には散々にラウルたち新兵をいびりまくったくせに、いざ実戦に出るとなると砲弾の音に怯えて肝を潰し、自分は終始後方からの指示を出すだけ。しかもその指示内容は彼の混乱ぶりを如実に表すものばかりだった。地図すらろくに読めない男なので、ラウルたちの部隊は敵の防衛線に足を踏み入れかけたこともある。
あいつのせいで、何度となくこの命が危険に晒された。右腕の切断だけで済んだのは奇跡だと思えるほどだ。
「つくづくあいつは、指揮官向きやなかったよなぁ……」
ラウルは溜息とともに吐き出した。そして、はたと我に返る。
今の若者たちの会話を聞いているうちに、先ほどの緊張感はどこかへ飛んでしまった。完全にいつもの平静さを取り戻している。
腕時計に目をやると、まだ二時過ぎだった。軍人の勤務が終わる時刻までは、まだまだ長い。この建物の中で下手に身動きが取れない以上、ここで――この薄汚れた便器の上で――夜を待たねばならない。ある意味、拷問だ。
ラウルは天井を仰ぎ、やれやれと溜息をつく。
「早ぅ、夜にならんかなぁ」
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