(3)-2
赤い煉瓦で造られた兵舎は、ところどころ壁がひび割れており、その歴史を感じさせる。入り口の扉を押し開け、ラウルは堂々と中に入った。
格好だけは、どこから見ても陸軍兵士なのだ。誰が彼のことを部外者だと疑おうか。事実、すれ違う兵士たちは誰もラウルを見咎めない。中には、右腕の三角巾を見て、見舞い代わりのガムや果物を投げてよこす者もいたほどだ。そんな彼らに対して、ラウルも明るく感謝の言葉を述べた。
鼻唄を歌いながら板張りの廊下を歩く。一歩進むごとに、ラウルの足元で床がきしんだ音をたてた。漆喰で塗られた白い壁と古い木枠で縁取られた扉が、廊下に沿って延々と続く。壁には掲示板が掲げられ、何枚もの張り紙が重なるようにして画鋲で留められていた。張り紙には、兵士たちへの連絡事項などがタイプ打ちされた文字で書かれている。それらを懐かしい気持ちで眺めながら、まずは兵舎の中にある食堂へと向かった。
時間帯のせいもあってか、食堂は若い兵士たちで混み合っていた。昼の演習の前に腹ごしらえをしようと、彼らは配膳の列に殺到している。ラウルもその最後尾に並んだ。四角い盆を手に、自分の順番を待つ。
遥か前方に並んでいる兵士たちの間から歓声が湧く。どうやら今日の昼食のスープには、肉の細切れが入っているようだ。軍属の人間であっても、下級兵士の食事は上級士官と違って
食糧事情の悪さは、今もラウルたちの頃も変わらない。
給食だけでは空腹感が満たされず、食堂にある缶詰を夜中にくすねてくる、そんなことは日常茶飯事だった。共犯者は同じ中隊の仲間だ。上官に見つからないように、皆で数種類の缶詰を回し食いしたものである。果物の缶詰ともなると、中に入っている果汁を必ず誰かが一人で飲み干してしまう。それが原因で真夜中に喧嘩が起こることもしばしばあった。
ラウルはそっと笑みを浮かべた。
下士官用の兵舎に来ると、いつも懐かしいことばかり思い出す。
列が進み、ラウルの順番が回ってくる。今日の主食は、先ほど若い兵士たちが騒いでいた肉の細切れ入りスープだ。あとは、パンと、味気のないマッシュポテトと、干し肉のように硬い焼きベーコン。やはり侘しい。給仕係の若い兵士に、せめてスープを大盛にしてくれるよう頼んだが、それは無理だと一言で拒否された。仕方なく、並盛で我慢する。十三地区の司令部だともっと融通が利くのに、総司令部の給仕係はいつもケチだ。
給食の乗った盆を片手に、空いている席を探す。狭い食堂には長机が整然と並んでおり、机と机の隙間を埋めるかのように座った兵士たちは、体を丸めて食事を貪っていた。あちこちのテーブルから、若い兵士たちの話し声が響いてくる。非常に活気のある光景だ。
ラウルは適当な空席を見つけ、そこに座った。同じテーブルには、ラウルよりも三つか四つは若い青年たちが席についており、雑談交じりの昼食を楽しんでいた。
こういう席では、交流を兼ねた情報収集がしやすい。
「なぁ、ちょっと、そこの塩取ってくんない?」
ラウルは早速身を乗り出し、テーブルの中ほどにある塩の瓶を指差した。当然のことながら言葉の訛りは隠す。
「はいよ」
瓶の一番近くに座っていた赤毛の青年が、隣の若者にそれを手渡した。何人かの手を経てラウルの元へと塩が辿り着く。ラウルは礼を言うと、肉の細切れ入りスープに塩を勢いよく振りかけた。それを見た向かい席の若者が、そばかすだらけの顔をしかめる。
「お前、そんなものに塩かけるのかよ。しかもそんなにたくさん」
「悪いか?」
「邪道だ。スープってのは元々味がついてるだろ」
「いやいや、これが実は美味いんだって。お前もやってみるか?」
にっこりと笑って塩の瓶を突き出したが、若者は激しく首を振ってラウルの誘いを拒否した。
「食わず嫌いは損だぞ」
ラウルはおせっかいな忠告をすると、スープをすすり、満足げな笑みを浮かべる。そばかすの若者は、信じられないといった風に首を振り、肩をすくめた。
「なぁなぁ、ずっと気になってたんだけど、さ」
塩を回してくれた赤毛の青年が、たわしの様に硬いパンをちぎりながら、一同を見渡す。
「戦争が終わったはいいけどさ、俺たちって、これからどうなるわけ?」
彼の言葉に、みな一様にお互いを見やる。答えたのは、ラウルの向かいに座るそばかす青年だった。彼は手の中でフォークを弄ぶ。
「どうなるも何も、とりあえずは後方待機だろ。演習だってやってるじゃないか」
「だからそれは、あくまでも今日明日の話だろ? そりゃ今は、また何が起こるか分からない状況だし、待機しておく必要もあるんだろうけど。でも長期的に考えてさ、俺ら下級兵士の需要って、これからもあるわけ?」
「さあ? でも状況が落ち着いてきたら、今みたいに大量の兵士を常駐させておく理由もないよな。―と、なると」
「やっぱさ、俺ら、用なし?」
「ってことになるかもな。上級士官なら、何かとやる事はあるんだろうけど」
そばかすは肩をすくめた。上級士官というのは軍人階級の人間のことを指す。
「んー、確かによぉ」
隣のテーブルの兵士がこちらに体を向け、話題に入ってくる。彼はラウルと同じくらいの年齢だろうか。縮れた黒髪に褐色の肌をしている。欧州の中でも南部出身者かもしれない。
「今の時期、軍人なら仕事は山ほどあるみたいだぜ。奴ら、戦後処理の業務に追われてるじゃん。でもよ、その分、俺たちが手持ち無沙汰になってんだよな」
テーブルを囲んでいた兵士たちは皆、彼の言葉に頷いた。
「内勤職に、俺たち兵士は不要だもんな。現にほら、あそこの部隊、前線から帰ってきて即行、解隊されたらしいし」
「え、どこの部隊……ああ、第八か。だってあいつら、ろくに戦功挙げてないだろ」
「指揮官が腑抜け野郎だからさ、いっつも駆けつけるのが遅いんだよ」
「来たら来たで、要領悪いから足手まといになるだけだったよな」
「解隊されても仕方ないぜ、あれは」
何人かがそれに対して相槌を打った。
「つまり、役立たずは
ラウルがポテトを口に運びながらけろりと言うと、兵士たちは口を噤み、苦い顔になった。彼らもそれを他人事だと一蹴することはできない。兵士の需要がないのだとすれば、戦功に関係なく、今の時期はどこの部隊でも解隊の可能性があるのだ。
「解隊云々はともかく、さ。お前、故郷に帰る?」
赤毛が自分の隣にいる兵士に尋ねる。相手は首を傾げ、いや、と答えた。
「みんな、帰らないのか?」
訊いたのはラウルだ。兵士たちは揃って首を横に振る。
「だってさ、やっぱり給料いいもんな、軍属だと」
「同感」
「オレも」
「田舎帰っても、畑耕すだけだし」
彼らの言い分は、ラウルにもよく理解できる。下級兵士とはいえ、軍属の人間の給与額は他の仕事に比べて遥かに高い。
「何? お前、帰んの?」
そばかすが訊いてきたので、ラウルは慌てて首を振った。
「まさか。みんなと同じ理由で、ここに残るつもり」
ラウルの言葉に対しそばかすは、やっぱそうだよな、と一人納得していた。そしてまた、指先で器用にフォークを回して遊ぶ。
「でもよ、案外、俺らの仕事って残ってるんじゃねぇの?」
言ったのは縮れ毛である。
「前線での戦闘行為はなくなったけどよ、各地の復興作業とか、人手が足りてねぇじゃん?」
「それに駆り出されるってことか」
「あー、あり得る」
「でも僻地に飛ばされるのだけはゴメンだぜ」
「
皆口々に、自分の懸念を放出する。それをそばかすが牽制した。
「おいおい、お前ら。仕事欲しいのか、欲しくないのか、どっちだよ」
「仕事は欲しいけど、楽なやつがいい。三食寝床付きなら最高」
「それでよく生き残ったもんだぜ。お前は一生蛭に血でも吸われてろ」
呆れ顔のそばかすに、若者はわざとらしく肩をすくめた。
ラウルは彼らの会話を黙って聞いていた。炭の塊と見紛うほどに焦げたベーコンをかじりながら、考え込む。
戦争は確かに終わった。人々の生活には平穏が訪れた。
しかしその一方で、兵士階級の人間は自分たちの役割を見失っている。今までは戦場で武器を手に戦うということが彼らの務めだったが、戦闘行為の止んだ現在、彼らには戦うべき相手がいない。軍人階級の人間と違って内勤職に携わることもできないため、何をすればよいのか全く分からない。上からの命令が下されない以上、動くことができないのだ。
「兵士は自らの意思で行動を起こしてはいけない」、この鉄則がある以上、彼らは何もできない自分たちの状況にもどかしさを抱えたまま、ただひたすらに上からの通達を待つのみだ。
これから彼ら兵士たちがどういった役割を担ってゆくのか、それはラウルにも想像がつかない。全ては、今後の状況次第であろう。
ラウルが思案にふけっている間にも、兵士たちの会話は続く。
「そうは言ってもさ、十六地区の方ではまだ戦闘が続いてるよな?」
赤毛が縮れ毛に同意を求めた。縮れ毛はパンを頬張りながら頷いた。あぁ、とそばかすも声を上げる。
「確か、まだあそこから引き上げてない部隊もあったよな」
縮れ毛は再び頷く。他の兵士たちも心得たような表情になった。
「地元ゲリラが厄介だからな、
「大戦が終わっても、相変わらずなことしてるよなぁ」
「もう少しおとなしくなりゃいいのに」
「ほんと、ほんと」
「欧州の東部は、問題が多いよな」
「その上、三十三地区も近いし」
「三十三地区のことは露州が何とかするだろ。――まぁ、近いことに変わりはないけど」
「とにかく要注意地区の集まりだよな、東部地域は。現地の住民が一番大変だと思うぜ」
ラウルの自宅がある第十三地区も、欧州東部地域に位置する。しかも東隣には第三十三地区、南隣には第十六地区がある。彼らの言うところの要注意地区に囲まれているではないか。思わず、乾いた笑みが漏れた。
ラウルの出身地セゲド村は、第十六地区との国境に近い。彼らの話すゲリラ集団の話も他人事だとは思えないところがある。確かに、ゲリラ関連の事柄がセゲド村にも飛び火しかけているという話は、同郷人からも聞いた。先ほど誰かが言った通り、こういう問題で頭を抱えるのはいつも現地の人間なのだ。
ラウルはポテトにフォークを突き刺し、最後の一かけらを口の中に放り込む。
早食いの癖は、相変わらず治らない。口うるさい妹からは、胃腸を悪くするぞとよく叱られるが、ラウルにはこの速さが合っているのだ。これも職業柄だろうか。
適当に咀嚼すると、後は水で流し込んだ。
「そんじゃ、お先」
食器が空になったところで、ラウルは席を立つ。
彼ら兵士の現状が分かっただけでも、個人的な収穫はあった。潜入操作の本来の目的を履き違えそうになりながらも、ラウルは満足する。
よもや彼が部外者だとは
テーブル上は最初の顔ぶれに戻った。
「そういや、さ。あいつは一体どこの所属の奴だ?」
赤毛の言葉に、みな首を傾げる。そばかすが意外そうな顔をした。
「お前、知り合いじゃないのか?」
「違うよ」
「だって、塩渡してたじゃないか」
「いや、あれはさ、頼まれたからつられて……」
「え? じゃあ、どこの奴だ?」
そばかすが一同を見渡す。全員がそれぞれ、かぶりを振った。
「俺の部隊では見ない顔だぞ」
「俺のとこも」
「うちでも見ないな」
「って、ことは……?」
食卓の上に、沈黙が訪れる。ややあってから誰かが、あ、と呟いた。
「この間、新しく移動してきた部隊があったよな。あそこの奴じゃないか?」
赤毛も、ぱちんと指を鳴らす。少しだけ得意げに顔を輝かせた。
「きっとそうだ」
それにつられ、他の兵士も頷きあった。
「うん、そうに違いない」
「そっかそっか、そういうことか」
皆が皆、それぞれ都合のいいように解釈して納得した。まさか彼が侵入者だとは、夢にも思わない。そんなものである。
納得したところで、彼らの昼食は再開する。
一人がそばかすに声を掛けた。
「なぁ、そこの塩、取ってくれ」
そばかすはラウルが先ほど使っていた塩の瓶を、彼に手渡す。受け取った本人は、早速スープに塩を振りかけた。そばかすがぎょっとした顔になる。
「お前も、そんなものに塩かけるのかよ!」
「え、いや…。さっきの奴がすっげぇ美味そうに食ってたから。俺もやってみようかなーって」
「知らないぞ、俺は知らないぞ」
そばかすは怖いものでも見るような目で、塩とスープを見比べる。塩を手にした若者は、小さく笑いながらスプーンを手にする。
「大げさだよ、お前」
そして一口、すすってみる。周りの兵士たちは、緊張の面持ちで彼の反応を窺う。次の瞬間、彼は顔いっぱいに何とも言えない表情を浮かべた。慌てて水を手に取り、飲み干す。
涙目のまましばし呆然とし、ようやくのことで声を絞り出した。
「…塩っ辛い……」
それを見た兵士たちは、やれやれといった風に肩をすくめた。誰もが、自分が試してみなくてよかったと、密かに安堵していた。
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