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 しかしロウ・ゲイラーは、報告書のこの箇所を読んだ時、どうも釈然としないものを感じた。

 たった一度の調査で、状況が把握できるものだろうか。ましてや、これほど大規模な爆撃ともなると、被害も尋常ではない。第三十八地区政府がまともに機能していない以上、世界各地区が人員を派遣し、実地調査を兼ねて被害者の救出を行うのが普通である。そうすることにより、被害にあった地区の復興に力を貸すことができるし、爆撃の情報を集めて今後に備えることもできる。にもかかわらず、今回の書類には、これ以上の立ち入り調査は禁止すると明記されている。この矛盾は、一体何なのだろう。

 勿論この書類に書かれた禁止事項は、トールキン中尉の独断ではない。派遣隊を指揮する欧州陸軍上層部からの要請だ。トールキン中尉は、それに従ったまでである。しかしなぜそのようなことが要請されたのかという理由は、どこにも記載されていなかった。上から口止めされているのか、それとも本当に何も知らされていないのか――恐らくは後者であろう。

 実に奇妙である。ハルトが報告書を片手に黙り込んだのも、おそらくはロウと同じことを考えたからに違いない。

 ――上層部は、何かを隠している。

 もう一つ、ロウが気にかけている事があった。

 トールキン中尉以下八名の兵士たちは、第三十八地区上陸に際し、軍上層部から、特殊な防護服を着ろとの通達を受けたというのだ。防護服とは、有毒ガスが使用される戦闘時などに着用する型の物だ。今回の場合は、大気中に漂う「微粒子」が体内に侵入しないように懸念してのこと、というのが軍上層部の意見だった。

 その「微粒子」が一体何なのか、トールキン中尉自身は勿論のこと、ロウにも分からない。だがあるいは――。

 ロウは目の前にいる少佐をそっとうかがった。

 あるいは彼なら、ロウたち尉官階級の人間が知りえない事も知っているかもしれない。しかしロウは何も聞かなかった。ただ、上官が次の言葉を発するのを待っていた。

 沈黙を破ったのは、ハルトの静かな声だった。

「この――微粒子云々に関して、オレは何も知らされてはいない。上層部の人間だけで勝手に通達したことだ」

 まるでロウの心の内を見透かしたかのような口調。ロウは黙って聞いている。それを確かめると、ハルトは続けた。

「ただ、防護服を着用した理由についてなら、考えられる可能性はいくつか挙げられる。単に、舞い上がる噴煙の中で視界を確保する為か、この爆撃に毒ガス弾が使用されていたか、はたまた細菌兵器が使用されていたか。――それとも、オレたちの知らない、全くの新型兵器が使われていたか」

 さすがに冷静な分析である。

「まあ、どれも推測でしかないけどな。上のおっさんらが何を企んでいるのか、全く不明だ。こっちにまで何も伝わっていない以上、オレの口からは確かなことは言えない」

 ロウは頷いた。

 上層部が自分たちだけで秘密裏に事を運ぶのは、そう珍しいことではない。こういう時は下手に詮索しない方がよい、というのが、彼ら軍人たちの間にある暗黙の了解だ。

 ところで、とハルトは手の中の書類をはためかせた。

「オレはこの書類に署名して、上に回せばいいんだな?」

「お前の最後の仕事だ」

 えらく高圧的な態度の部下に、ハルトは閉口した。これではもはや、どちらが上官なのか分からない。やれやれと呟くと、懐中から煙草を一本取り出す。口にくわえると、慣れた手付きで火を点けた。

 それを見咎めたロウが、僅かに眉をひそめる。つかつかとハルトに歩み寄ると、まだ煙も出ていない煙草を、彼の口から引ったくった。そしてすぐさま、灰皿の中で火をもみ消す。

「……煙草は、体によくない」

 呟くと、自分より上背のあるハルトを見据えた。

 ハルトが大げさな素振りで口から煙を吐き出す。渋面を作って見せた。

「口うるせぇ奴だな」

 その言葉を無視したロウは、黙ったままポケットの中をまさぐると、無表情で、ハルトに向かって手の平を差し出した。その上には飴玉が一つ、鎮座していた。口が淋しいのならこれでも舐めていろ、そういうことである。見た目からは信じ難いことにこの男は、常にこういった菓子類を携帯しているのだ。しかし。

「ありがたいが、今はいい」

 手振り付きで丁重に断られ、ロウはその飴玉をポケットの中に戻した。恐らくは後から彼自身の胃袋に入る事になるのだろう。甘党であることを微塵も感じさせないその男は、やはり無表情のまま口を開いた。

「……軍隊ここを辞めて、どうする?」

「どうもしねえよ。村に帰ってのんびり暮らすさ。――『約束』も、あるしな」

珍しくハルトが目元を和らげて言った。ハルトがこのような表情をするのは「彼ら」の事を思う時だと、ロウは知っている。

「〝カヤ〟と、〝デュカス〟?」

 問うと、ハルトは微笑って頷いた。そこには、いつもの厳格な少佐の顔など少しものぞいていない。純粋に故郷を思う、ただの一青年だ。

 ロウが再び机の上に目を落とすと、散らばった書類に埋もれるようにして、一枚の写真が確認できた。どの戦場へ行くにも必ずハルトが携帯していたセピア色のそれは、少し色褪せてところどころ端がちぎれている。映っているのは、まだ十代の頃、入隊前のハルトだ。照れ隠しのためか、少し拗ねた表情でこちらを見つめている。その隣には、柔らかに微笑む一人の小柄な少女、そして少女の服の裾を握り締めているのは、いかにも気の強そうな目をした幼い少年。ハルトにとって特別な意味を成す姉弟だ。実際に会ったことはないが、ロウも二人のことを話には聞いている。

 部下の視線に気付いたのか、ハルトも古ぼけた写真に目を落とす。

「今さらって気もするけどな。オレはあの村に帰る。もう十分すぎるくらいに、あいつを待たせてしまった」

 待たせる、それがどういう意味を持つのかくらい、聞かなくても分かる。

 ハルト自身は滅多と口にしないが、彼が帰郷を長年心待ちにしてきたのを、ロウは知っている。もう戦争も終わったのだ。彼が軍隊ここに縛られる理由は、ない。

「そういうお前はどうするんだ? 故郷には帰らないのか?」

 今度は自分が問われ、ロウはゆっくりとかぶりを振った。

「農場よりこっちの方が向いている」

 その答えにハルトは、確かにな、と小さく笑った。

 そして訪れる、いつもの沈黙。

 執務室の中を、やわらかい風が吹いた。

 ロウは、自ら進んで会話を行うような男ではない。自然、ハルトが口を閉ざすと、二人の間に沈黙が流れるのが常だ。しかしハルトがこの沈黙を苦に感じることはなかった。もう何年も、こうしてきたのだから。

 相変わらず憮然としたままの部下を、ハルトは横目に見た。この男とも、かなりの付き合いになる。明日を以ってハルトが退役してしまえば、ひょっとすると今後会う機会もないかもしれない。お互い、連絡を取り合うような殊勝なことは絶対にしないだろうし、住む場所も全く違うため、偶然に顔を合わすこともない。そう考えると、この男とゆっくり話すのも、今日が最後ということになる。ハルトが妙な感慨にふけっていると、珍しくロウが沈黙を破った。

「今夜、空けておけ」

 有無を言わせぬ命令口調。今夜、何か会議でもあっただろうか。その理由が分からずにハルトが怪訝そうな顔をすると、ロウは厳かに呟いた。

「酒瓶を持った連中が、お前の部屋になだれ込む」

「お、飲み会か、なかなか気が利くじゃねえか」

 上官や同僚が退役する時は、その人物を労って、皆でいつも以上に派手な宴会を開くのが常である。ところが。

「早く出て行け会、の方が妥当だ」

 表情一つ変えずに、ロウはそう言った。やはり可愛げのない部下である。いつものことながら、ハルトはわざとらしく舌打ちをした。

「で、面子は?」

「トールキン中尉が、手当たり次第声を掛けていた」

「主催はあいつか。ということは、いつもの顔触れだろうな」

 毎回酔いつぶれて、結局はハルトの部屋で沈没してゆく連中。その中でも一際大騒ぎをして皆を楽しませるのが、トールキン中尉だ。粗野な性格ではあるが、場を盛り上げるのがうまい。でも、と、ロウの口から残念な報告がされる。

「トールキン中尉本人は来ない」

 例の報告書の作成者は、現在体調不良で床に伏しているという。第三十八地区から帰還し、報告書を提出したと同時に、頭痛や嘔吐感を訴え、今日も休務中とのことであった。

「なんだ、風邪か?」

 ハルトの問いに、ロウは首を傾げた。彼も詳しいことまでは知らないらしい。ハルトは、不服そうに眉根を寄せた。トールキン中尉は部下の中でも、ハルトと張り合える唯一の酒豪である。ハルトにしてみれば、共に杯を酌み交わす相手がいないとあっては面白くない。

「誰かさんは全くの下戸だしな」

 目の前の部下に非難がましい目を向けたが、向けられた本人は全く意に介さない。

「じゃ」

 もう用は済んだと言わんばかりに、きびすを返した。その背中に向けて、ハルトは溜息をつく。

「おい」

 呼び止めると、ロウが怪訝そうに振り返った。そんな彼に対してハルトは、嘘くさい、爽やかな笑顔を送って見せる。

「せっかくなんだ、手伝っていけよ」

 しかしそれに対して返ってきたのは、何の躊躇いもなく閉められた扉の音のみだった。紙の山と共に取り残されたハルトは、小さく舌打ちをした。




 トールキン中尉、および彼の部下の怪死現象が報告されたのは、その翌日のことだった。

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