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欧州――第6地区。5日目。


 執務室の机の上には、様々な書類が散乱していた。前線での戦況報告、戦闘による犠牲者や建造物の被害を数値化したもの、救援物資を輸送する際のリストなど、その内容は多岐にわたる。日付はどれも数年前、最も新しいものでも半年前とある。

 それらに一通り目を通しながら、ハルト・シュタイナーは軽く溜息をついた。そして既に溢れかけている灰皿の中に、新たな吸殻を押し付ける。

 秀麗な眉をしかめ、物憂そうに金髪を掻き上げると、文字の羅列をにらんだ。

 退役手続きが、こんなにも面倒なことだとは知らなかった。これらの書類を項目別に整理したのちに、一括して陸軍上層部に提出しなければならないとは。ハルトの士官としての経歴はまだ五年と浅いほうだがしかし、五年分の書類と睨み合うなど、考えただけで眩暈がする。しかも今机の上に出ているのは全て尉官時代のものであり、最終的にはこれに少佐――現在の彼の階級だが――時代の書類が加わることになるのだ。

 とうとう根負けして、ハルトは無造作に手の中の書類を机の上に放る。紙の舞う音と、なめらかに滑る音が聞こえた。

 その時、何の予告もなしに、部屋の扉が軽い音を立てて開けられた。文字通り山のような書類にうんざりしていたのも手伝って、ハルトは眉根を寄せて、入ってきた相手をねめつける。

「ノックくらいできないのか」

「……申し訳ありません」

 彼の不機嫌さを知ってか知らずか、相手は憮然とした顔で呟いただけであった。その表情には、『申し訳なさ』のかけらも見当たらない。いつものごとく横柄とも言える態度でまっすぐにこちらに歩いてくる男を見やり、ハルトは溜息をついて苦笑した。

「仮にもオレは、お前の上官だぞ」

 男の軍服の襟元には、ハルトより一階級下、すなわち大尉である事を表す徽章が付けられている。男はハルトの直属の部下にあたるのだ。

 しかしそれに対しても、相手は眉一つ動かさず、かわいげのない口調で次のように答えただけであった。

「……申し訳ありません」

 穿った見方をすれば無礼とも取れる部下の態度を、ハルトは再び苦笑するだけにとどめる。ただの部下というにはあまりに気の置けないこの男に対し、今さら細かいことをとやかく言うつもりはない。自然、ハルトの口調も砕けた形となる。

「お前、知ってたか? 入隊前の生活に戻るっていうだけで、こんなにたくさんの紙を相手にするんだ」

 机の上を顎でしゃくった。部下はそれを目線で追っただけで何も言わない。

「何が悲しくてこんな、もう過ぎてしまった出来事の書類をまとめないとなんねえんだよ、ッたく。上層部のおっさんたちだって、どうせ全部を読むわけじゃなかろうに」

 ぶつぶつと呟くハルトに対し、部下は相変わらず憮然としたまま頷いた。どうやら同意見らしい。

 長い付き合いにもかかわらずハルトは、この部下の仏頂面以外をおよそ見たことがない。極端に表情が乏しいのだ、この――ロウ・ゲイラーという男は。ほぼ無反応に近い彼を相手に、ハルトは続ける。

「第一、なんで最後の最後まで、この堅苦しい服を着ないといけないんだよ。退官式があるわけでもねぇんだから、最後くらい好きな格好で仕事させてくれても、誰も文句は言わんだろうが」

 ハルトは、陸軍から支給されているこの正装用の軍服が大嫌いだった。

 これはハルトが軍人になる前から、そのデザインは変わっていない。紺色の生地に、折り返した袖口の白いライン、とすっきりした色合いを見せており、腰の辺りは黒いベルトで固定されている。上着の前を留めているのは、外からは見えない銀の内ボタン。大きく開いた襟元には、各々の階級徽章が縫い付けられている。下級兵士達の間では、いつか軍人の仲間入りを果たし、この服を着ることが、最大の憧れとされている。

 しかしハルト自身は昔から、こんなものに憧憬の念を抱いたことは一度たりともなかった。おまけに、いざ自分が着用するとなると、その実用性のなさに閉口した。常に糊が効いていて、動きにくいことこの上ないのだ。着ているだけで、異様な圧迫感を覚える。

 上官たちの前ではおとなしく着用しているが、ハルトとしては、前線に出て行くときに着るような軽装ジャケットの方が性に合っている。

「ま、この服とも、すぐにおさらばだけどな」

 そう考えると、心が軽くなる思いだ。

 一通りの愚痴を言い終わり、少しだけ胸が晴れた。ハルトは改めて、この間ずっと黙ったままだったロウに向き直った。

「で? わざわざここにきたからには何か用があるんだろ? ロウ・ゲイラー大尉」

 問われて、ロウは思い出したように顔を少し上げた。

「トールキン中尉からの、第三十八地区における報告書」

 こちらも砕けた口調で、目の前の上官に対して薄い紙束を差し出す。ハルトは黙ってそれを受け取ると、ざっと目を通した。紙面を読み進めてゆくにつれ、彼の表情が曇る。

 一通り書類を黙読した後も、眉根を寄せ、ハルトはしばらく考え込んでいた。首筋に片手をあてがうと、何も言葉を発さず、中空のただ一点をじっと見つめている。ロウもまたそんなハルトに言葉を促すでもなく、ただその沈黙の中に身を置いた。

 執務室の中の時間が、ゆっくりと流れた。

 開け放たれた窓の外からは、飛行訓練場のプロペラ音が聞こえてくる。恐らくは〝大事に備えて〟いつでも出動できるようにしてあるのだろう。もう、戦争は終わったというのに。

 ロウが今ハルトに手渡した報告書は、ハルトやロウの直属の部下であるトールキン中尉が作成したものだった。もちろんハルトに提出する前に、ロウもその内容をちゃんと点検してある。それは以下のようなことであった。



 今日から数えて五日前のこと。

 ここ欧州より遥か東に位置する、亜州第三十八地区において、大規模な爆撃があった。正確な数は現在不明だが、爆撃された都市の数は一つや二つではない。

 それがあまりに突然で、あまりに不合理な出来事であることは、子どもでも理解できる。

 何故ならば、世界中を巻き込んだ戦争に終止符が打たれ、各参戦地区が和平合意に応じたのは、つい先月のことだったからだ。『皆が手を取り合って再び平穏な世界を構築しよう』、そういった内容の平和宣言が世界政府から発表されたことは、人々の記憶にも新しい。

 「地区」という呼び名ではあるものの、実際には国家と同義である。百余りの地区が世界には存在し、各地区はそれぞれが独立して、政治、経済、法律などを管理しているのだ。地区の代表者として外交の表舞台に立つのは、古くから血筋を守ってきた王であったり、民によって選出された大統領であったり、様々だ。それぞれの社会の体制としても、資本主義を掲げるところもあれば、社会主義または共産主義を掲げるところもあり、全てのことが地区によって異なる。

 幾つかの地区が集まると、「州」という行政単位でまとめられる。欧州、亜州を含めて、現在は全部で八つの州がある。そして各州から代表者を集め、国際的な問題を検討する最高機関として設けられたのが、「世界政府」である。

 先の大戦に関して言えば、小地区同士の小競合いが発展して、州を、ついには世界中をも巻き込んでの戦争となっていった経過がある。大まかな図式としては、欧州・亜州・露州から成る西側陣営と、米州・豪州から成る東側陣営とに分かれての戦争だった。当然のごとく世界政府の内部でも州ごとの分裂が起こり、世界政府は統括機関としての役割を失っていった。

 戦争に参加していない州が率先して、何度も和解策が図られたものの、どれも成功せず、戦況は悪化するばかりであった。しかしさすがに開戦から二十年も経った頃、どの地区でも物資や戦力が不足し始めた。それと並行して、世界中で厭戦気分が高まりつつあった。そこでようやく世界政府が、本来の結束を取り戻し始める。その世界政府を中心として、本格的な和平交渉に乗り出したのが、約半年前。各地区が合意に応じて正式に終戦を迎えたのは、先月に入ってからのことだ。最終的に、勝敗のない結果となった。四半世紀近くも世界中を巻き込んでおいて、利を得た地区は、一つもない。

 ともあれ現在は、どの地区も自分達の国家の戦後処理に追われており、今更この第三十八地区を攻撃する余裕もなければ、筋の通った理由もなかった。

 問題の第三十八地区というのは、亜州の中でもやや北部に位置する、南北に伸びた形状をした島国で、四方は全て海に囲まれている。先の大戦中には欧州率いる西側陣営にくみし、全国の主要港を、燃料や武器の供給地として欧州・亜州・露州連合軍の為に解放していた。島国という地理的特徴を活かした役割である。現在は、戦時中に軍事目的で使用した港を一つずつ閉鎖させている途中のはずである。

 その島国の方角から、五日前、天に向かって伸びる光の柱と噴煙が、幾つも目撃されたというのだ。第三十八地区の周辺地区からこのような奇妙な報告を受けた欧州は、何が起こったのかを確かめるために、急きょ問題の島国に対して連絡を取ろうと試みた。ところが島国上空に異常発生している電磁波らしきものが邪魔をして、通信自体が全く不可能となっていることが判明した。

 そこで欧州は世界政府と協議し、陸軍小隊を幾部隊か直接派遣して、かの地を調査させることにしたのである。

 そのうちの一部隊が、リチャード・トールキン中尉の部隊だったのだ。

 もっとも、爆撃の直後は火災と噴煙がすさまじく上空からも迂闊に接近できなかったので、彼らが第三十八地区に上陸したのは、光の柱が目撃されてから三日後のことである。

 トールキン中尉の報告によると、現在確認できる限りでは都市中枢部の建物はほぼ壊滅状態、生存者も皆無に等しいということだ。勿論、公共機関や政府の指揮系統なども正常には機能していない為、かろうじて生き残った人々にも満足な救援は為されていない。無数の死体に囲まれ、瓦礫の陰に隠れるようにして、いつ来るとも知れない救いの手を待ちわ侘びている人間は、一人や二人ではない。

 死の匂いのみが漂う世界。トールキン中尉は報告書の中で、この島国のことをそう表現していた。今まで潜り抜けてきたどの戦場よりも凄惨だ、と。恐らくはその地に立った者にしか分からない、想像を絶する世界なのだろう。

 爆撃を行った地区、および爆撃の理由についての詳細はまだ明らかにはなっていない。とりあえず世界政府の推測としては、目標となったのは大都市の郊外にある軍事施設や飛行場、港湾施設、その他民間の兵器工場であろう、ということであった。

 なお書類の末尾には、「この件に関する、以後の立ち入り調査を禁ずる」、との文章が見られた。

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