(2)-2
無意識のうちに足は山の方へと向いていた。
少し息が切れてきたので、デュカスは走るのをやめた。村の燃える様子が遠くに聞こえるほど、離れた所まで来てしまっていた。静まり返った木々の中、自らの荒い呼吸だけが耳に残る。
ぐい、と目尻の涙を拭った。今はまだ、心を緩めてはならない。自分に言い聞かせる。
背中のイニャキ少年を気遣って首を後ろへ傾けると、虫のように細い細い息遣いが感じられた。出血がひどく、デュカスのシャツは彼の血で濡れて、重みを増しているほどだった。早く彼を何とかせねば。他のことを考えるのは後だ。とりあえずイニャキを助けるのだ。改めて確かめるまでもなく、イニャキの容態はかなり深刻だ。せめて何か医療器具でもあればよいのだが、この奥深い山の中では、それは無理な話だ。一体どうすればよいのだろう。イニャキ一人を助けることすら、今の自分にはとても困難だ。
――助けを求めれば。
隣村に助けを求めれば、イニャキのことも手当てしてくれるのではないか。
もと来た道と、目の前に続いている道とを交互に見て、そんなことを思った。この道をこのまま行けば、山をひとつ越えて隣のセゲド村に辿り着く。あの村はデュカス達の村とは折り合いが悪いが、怪我人が出たとなれば手当てぐらいはしてくれるだろう。この惨状を訴えれば、他の村人たちのことも助けてくれるかもしれない。デュカスは背後の少年をそっとうかがった。問題はイニャキの体力がそこまで持つかどうかだ。
「もうすぐ助かるからな、がんばれよ」
呟くと、とりあえずイニャキを背中から下ろして道端に横たえた。応急処置をしておくだけでも随分違うはずだ。すでに少年の顔色はひどい土気色に変わっている。
いつも村で怪我人が出た時と同じように、まずは手早く自分のズボンのベルトを外して、イニャキの体の下に敷く。真っ赤に染まった傷口は少年の下腹部の辺りにあった。確か心臓から傷口への血の通り道を塞げと、大人たちに教えられた。それを思い出して、へその少し上辺りをベルトできつく縛り上げる。痛みのためであろう、イニャキ少年の口から微かな呻き声が漏れた。
「少しの辛抱だからな、我慢してくれ」
再び彼を担ぎ上げようとした。――が、突如鼻を突く悪臭を感じてデュカスは動きを止めた。煙にも似た匂いだ。本能的に不穏さを察知し、少年を横抱きにしたまま、辺りに気を配りつつ、そろそろと道の端にある窪みの中に身を潜めた。匂いは、どんどん近付いてくる。その間に、できるだけ窪みの奥深くへと体をにじり寄せた。何故こんなことをしているのか自分でもわからなかった。ただデュカスの中にある警鐘が鳴り響き、身を隠せ、と命じていた。
息を殺して、匂いの主を待つ。
「うわー、ここから見ても、よぅ燃えとるなぁ」
突如頭上から声が降ってきて、デュカスは心臓が止まるかと思うほどにびっくりした。恐る恐る視線だけを動かすと、今隠れている窪みの真上に当たる場所から、男が二人、村の方を眺めているらしかった。彼らの動きが直接把握できるわけではない。先程までイニャキ少年の応急処置をしていた道に映った彼らの影が、その行動を露にしているのだ。反対に、男たちの位置から窪みの中は死角になっていた。二人はこちらの存在に気付かず話を続ける。
「これでもう、この村も全滅やな。なんやえらい、あっけのぅ終わってしもたけど」
不穏な言葉に、デュカスの心臓がひときわ高く鼓動した。「全滅」――それでは、こいつらが村を襲撃したのか。握り締めたこぶしに力をこめる。
息を潜めて男たちの動向を見守った。影法師が肩に担いだ細長いものを見る限りでは、二人とも手には銃を持っているらしい。銃――見たことはないが噂には知っている代物だ。何でもすさまじい殺傷力を持っていると聞いた。見つかれば即、あの銃で殺されてしまうだろう。彼らが少しでも目を自分たちの足元へやれば、デュカスの姿を発見するのは造作のないこと。彼らの目線がこちらへと向かないよう、デュカスは必死で祈った。
どく、どく、という自分の鼓動だけが、耳にやけに大きく響く。男たちにも聞こえてしまうのではないかと、懸念するほどに。
「あんだけ徹底的にやったんや、さすがに誰も生きてへんやろ」
「せやな。それにしてもあの村、なんやねん。若い女が少ないやんけ。ほとんどがじじい、ばばあ、おばはんと子どもばっかりや。けったくそ悪い」
「でもお前、女に手ぇ出したって、さっき言うとったやん」
「せやけど、何人かで共用やで。おもんないわ」
「そんな贅沢言うなや。
そう言って男たちは、下卑た笑い声を辺りに響かせた。
デュカスの脳裏に、テーブルの上でぐったりと横たわる姉の姿がよみがえった。投げ出された四肢、引き裂かれた衣服、忌々しい凌辱の跡――。あれは、こいつらの仕業なのか。
胸の内が熱くなった。激しい怒りが沸き起こるのを感じる。鼓動がさらに早くなった。その流れは一瞬にして体中を駆け抜け、デュカスの心を支配した。――しかし、と更にこぶしを握り締め、デュカスは必死で自らの感情と格闘する。今怒りに任せて彼らの前に姿を現そうものなら、イニャキ共々殺されてしまうのは目に見えている。
――頼む、早く、消えてくれ。
道の上で揺らめく黒い影をにらんでいると、つとその影が動いた。頭上で草を滑る音が聞こえ、二人が道端に降り立つのが視界の端に捕らえられた。
二人とも軍服ジャケットを着て、まるで戦場の兵士のようないでたちだ。それぞれ手に持った武器が、鈍い金属の輝きを放っていた。あれが、銃か。
「なあ、この辺、なんか血の匂いせん?」
「お前、自分の服よう見てみぃな。返り血で真っ赤っかやで」
相変わらずこちらの存在には気付かない二人の青年を、デュカスは食い入るように見つめた。その顔には見覚えがある。言葉使いからも分かることだが、隣村セゲドの者だ。
口調こそ平常を努めているものの、今の彼らは、目を赤く血走らせ、悪鬼の如き形相を浮かべている。その表情に、デュカスは背筋に冷たいものを感じた。
ふと、青年のうちの一人が呟いた。
「なぁ、ほんまにこれで……よかったんかな」
「はぁ?」
「いや、なんか……」
口篭もるのを、もう一人の青年が殴りつけた。
「あほか、お前! 今は余計なこと考えたあかん。俺らのやったことは正しいんや。これは正しいことなんや。ええな?」
「……うん、そうやな」
お互い釈然としない表情で、二人は頷き合う。気まずそうに目をそらせ、どちらともなしに歩き出した。がち、がち、と彼らの銃がぶつかり合う金属音が、足音とともに遠ざかってゆく。
完全にその音が消えていったのを確認してから、デュカスは大きく息を吐いた。鼓動はまだ早鐘を打ち、今さらのように足に震えが回ってきて、立ち上がることもままならない。
――あいつら……。
男たちの消えていった方へと目をやる。あれは、セゲドの村に続く道。――今から、イニャキをつれて向かおうとしていた。しかし襲撃がセゲド村の連中によるものと分かった以上、彼らに助けを求めることはできない。イニャキの手当てを頼むこともできない。
なおも座り込んだまま、自分の腕の中で衰弱してゆく少年を見つめた。一体どうすればいいのだろう。明らかにイニャキは先程よりも更にぐったりしている。早く、ちゃんとした手当てを施してやらねば。
ふとデュカスは、イニャキの胸が上下していないことに気付いた。まさか、と胸騒ぎを感じて、少年の肩を揺さぶる。
「おい、イニャキ!? おい!」
その呼びかけに、イニャキ少年はうっすらと目を開く。デュカスの口から、一瞬だけ安堵の息が漏れる。
イニャキは焦点の合わない目で虚空を見つめ、唇を微かに動かした。
「ここ…どこ……? デュカ…兄ちゃ……?」
しかしその声は、蚊が鳴くように細い。デュカスの名を呼ぶと、少年は見る見るうちに目に涙を溢れさせた。
「兄ちゃん…痛い……痛いよぅ」
すでに紫色に染まった唇を震わせながら、イニャキはしきりに痛い痛いと繰り返して涙を流す。デュカスにはどうしてやることもできない。そっと彼の傷口に触れると、赤い液体が手のひらに残った。新たに出血している。血に染まった手の平を少年の頬に当てると、その顔は驚くほど冷たかった。彼の顔に死相が出ているのは、誰の目から見ても明らかだ。震える手で、デュカスはイニャキの頬を包む。
「イニャキ、しっかり…。大丈夫だから…」
それが気休めの言葉にしかならないことは分かっている。しかし何か言わずにはいられなかった。己の言葉の無力さに歯噛みしていると、イニャキが再び唇を動かした。彼の言葉が聞き取れるよう、デュカスは耳を彼の口元に近付ける。
「ごめ…ね、兄ちゃ…」
何の事だか分からなかった。眉をひそめたデュカスに、少年は続ける。
「僕…のせい……カヤお姉ちゃ…が……。僕のこ…助け…から……」
デュカスは思わず少年を見た。土気色のその顔は、自らの血と涙でぐしゃぐしゃだった。目はデュカスの方を向いてはいるが、焦点が合っていない。それでも少年は必死で、目の前にいる「兄ちゃん」に伝えようとする。
「デュカス兄ちゃ……ごめん…なさ…」
目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
「イニャキ、お前はっ…、お前はちっとも悪くない! お前のせいなんかじゃない!」
その言葉を聞くと、イニャキは少し安堵したように、片頬を引きつらせた。微笑ったのだ。大怪我をしている者とは思えないほどの、穏やかな笑み。姉が、その最期に見せたような。
「イニャキ! しっかりしろよ、イニャキ!」
鼻の奥がつんと痛むのをこらえ、デュカスは少年の肩を揺さぶる。両手で、冷たくなった少年の頬を包み、彼の体を抱きしめた。すでに息はなかった。
自分の体が、痙攣でも起こしたように震えているのを感じた。目に熱いものが込み上げる。イニャキ少年の穏やかな顔に、大きな滴が落ちた。
「…っくしょー……」
デュカスは喉の奥で小さく呻く。地面に爪を立て、土を握りこみ、何度も何度も、同じ呟きを洩らした。
村から立ち昇る炎が空の朱と一体化し、もうすぐ夜が来ることを告げていた。
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