(2)-1

欧州――第13地区。0日目。


 黒い煙が空にたなびいていた。

 デュカスは思わず、両手で抱えていた紙袋を落とす。今買ってきたばかりの食料品は、重い音を立てて足元に着地する。紙袋の中に入っていた果物が、二つ三つ、ころころと林道を転がった。

「な…んだよ、あれ……」

 驚愕のまなざしで、一点を凝視した。視線の先には、遠く離れたところに村がある。

 周りはすべて山に囲まれた、小さな村だった。わずか十数戸の家を抱え、緑の中でひっそりと息づく、この辺りでは珍しくもなんともない、ごく普通の集落。

 つい数時間前に、麓の町まで買出しに行くからといって、デュカスはこの村を後にした。その村が、今は――。

「なんで燃えてるんだよ!?」

 怒鳴り声にも近い形で、デュカスは叫んだ。

 青く晴れた空には不似合いな黒煙を立ち昇らせながら、村は炎に包まれている。かなり距離をおいたこの場所からも、木々の合間にそれがはっきりと見て取れた。ただの火事なんかじゃない。火事ならば、村全体があのように一時に燃えるはずがない。

 胸の奥で、警鐘が鳴り響く。

 考えるよりも先に体が動いていた。弾かれたように村に向かって走り出した。

 狭い林道を全力で駆け抜ける。両側に迫るもみの木が、デュカスの視界から背後へと流れていく。石垣の門が、林道の先に垣間かいま見えた。村に近付くにつれ、炎の轟音に混じって、銃声や叫び声が聞こえてくるのが分かった。焦りはさらに高まる。一体、何が起こったのだ――。

 頭上を覆う並木がしばらく先で途絶えているのが、林道の終わりを示していた。村の入り口は、もう目前だ。遠目にも、いくつかの血だまりとその中に倒れる人間の姿を確認でき、うなじの毛がざわざわと逆立った。一体、何が――。

 村の中に足を踏み入れた瞬間、デュカスは思わず走るのをやめた。

 入り口から見て右手にある畑の中、何かが、横臥している。周囲の土の色を黒く変色させて。変色の原因は、その頭部から溢れた大量の液体。呼吸を整えながら畑に歩み寄り、デュカスは途中で、反射的に顔を逸らした。確認するまでもなく、血の出所の本人は死んでいた。

 背筋を冷たい汗が伝った。再び呼吸が荒くなる。

 しかし気丈にも彼はしっかりとした足取りで、今度は一軒の家の前にある二つの血だまりへと近付いていった。そこには、勢いよく燃える家屋を背景に、若い青年と幼い子ども、そして子どもの母親が倒れていた。母親は、子どもの上に折り重なるような格好だった。何かから子どもを守ろうとしたのかもしれない。

 濃厚な血の匂いが鼻をかすめる。

 急いで彼らのそばに走り寄ると、デュカスは深紅に染まった青年の上体を抱き起こした。

「おい、目ぇ開けろよ、なあ! セイにぃ!」

 祈るような気持ちで青年の肩を揺さぶった。しかし青年の体は人形のごとく無抵抗に傾いただけで、他は何の反応もない。その脇に倒れている親子も同じことだった。

 村の奥の方から、誰かが悶え苦しむ声が聞こえた。

 頭が、ぐらぐらする。

 吐き気をこらえて立ち上がると、燃え盛る村の家々を見やった。あまりの火の大きさに、呆然となる。

 獣だ、とデュカスは思った。

 理性をなくし手当たり次第暴れ狂う、赤い獣だ。たてがみにも似た炎の波は、どんどんと家や人々を飲み込んでゆく。その餌食となった人々の、助けを求める声やうめき苦しむ声が、彼の耳にも届いてくる。銃声はすでに止んでいた。

「なんで…だよ…」

 かすれた声で、もう一度同じ疑問を口にした。

 そして突如険しい顔つきになると、燃え盛る炎に向かって走り出す。家では姉が一人で、彼の帰りを待っているはずだ。

 無事でいてくれ――。

 姉もあの青年たちと同じような目に遭ってはいないだろうか。心臓が早鐘を打ち始める。走りながらも、脳裏には血の海に横たわる姉の姿が何度もよぎり、さらに焦りが募る。足を速め、村の最奥にある自分の家を目指した。

 村の中はまさに火一色の世界だった。目に付く全てのものが、燃えている。

 家屋は全て木でできているために、火の回りが速い。周囲にある物をも巻き込んで、更に炎を大きくする。そこここにある畑の中にまで、舐めるようにして火が広がっていた。各家々の庭先に植えられている花も、普段の美しさを感じさせず、赤い燃えかすとなって無残にも散ってゆく。

 燃えているのは、それだけではない。

 幾度か、火だるまになった人間が突如道の真ん中に踊り出て、デュカスに助けを乞うた。しかしデュカスにはどうしてやることも出来なかった。人々が自分に抱きつこうとするのをかろうじて逃れ、己の身を守ることしかできなかった。

 家々から火の粉が噴出し、行く手を阻もうとする。すでに何軒かの家は崩れ、本来あるべき道を大きく塞いでいる。もう、今自分がどこにいるのかすら分からなくなりそうだった。地響きのような音が聞こえて、また新たにどこかの家が崩れ落ちた。人々の悶絶の声と、家屋が勢いよくはぜる音と、そして崩れる音と。それらが、否が応でも焦燥を刺激する。

 いつもなら直線の道のりなのに、さまざまな障害物のせいで迂回を迫られ、家に辿り着くにはかなりの時間を要した。そしてようやく目の前に現れた自分の家を見て、デュカスは舌打ちした。彼の家もまた、炎の中だった。

 燃え盛る家に駆け寄りながら、彼は声を張り上げた。

「姉さ――ん!」

 目の前で火を噴いて踊る家は、いつもの何倍も大きく見える。足を止めて見上げると、それは今にも覆い被さってきそうなほどの威圧感があった。

 辺りを見渡しても、姉の姿はない。もう一度、姉の名を呼んだ。

「姉さん! どこにいるんだ!? カヤ姉さん!」

 返答はない。それどころかデュカス自身の呼び声すらも、炎の轟音によってかき消される。

「姉さん、いたら返事してくれ!」

 しかし姉の返答の変わりに聞こえたのは、ぎし、という家のきしむ音だけだった。この家も、他の家々と同様、もうすぐ崩れ落ちるのだ。

 触手のように伸びた火の手がデュカスの頭上をかすめる。ここにいては自分自身の身も危険だ。そう思ったとき、炎に包まれている家の中に、何かが見えた。

 食い入るように見つめると、姉の姿があった。

「姉さん!」

 炎の向こうに見え隠れする姉は、ぐったりとしたまま動かない。呼びかけても何の反応も示さない。

 まさか、もう――。

 ざわり、と肌が粟立つのを感じた。しかしすぐにその可能性を打ち消すと、再び声を張り上げて姉の名を呼んだ。

 助けなければ。方法はひとつしかない。デュカス自身の命をも危険にさらす方法だ。迷っている時間はなかった。家は今にも傾きかけている。

 少し息を詰めると、デュカスは意を決して炎の中に飛び込んだ。玄関の木枠に巻きつく炎が、皮膚や髪を絡めとって焦がす。今まで嗅いだことのない異臭が鼻をかすめた。

 家の中に足を踏み入れ、デュカスは思わずたじろぐ。家の中はすでに火の海だった。床から天井に至るまで、全てが鮮やかな炎に包まれている。飾り棚は足元からの浸食を受け、壁に貼ってあった数少ない両親の写真も、僅かな残骸を残し、後は燃えかすとなって床に呑まれていた。

 そんな中テーブルの上に横たわる姉の姿を認め、デュカスは呆然となった。

 彼女の衣服は大きく引き裂かれ、白い肌が露になっている。スカートがかろうじて下半身に絡まっているものの、細い両足はテーブルの端から床に向かって力なく投げ出された状態だ。その肢体には、誰かに凌辱された跡が生々しい。

 直視できずに、デュカスは思わず、目の焦点を他へとさまよわせる。

 ぎり、ときつく歯噛みした。一体誰が、こんなことを。

 急いで自分の上着を脱ぎ、姉の体にかけてやる。そっと顔をのぞきこむと、ぐったりとはしていたが、姉は規則正しく呼吸していた。どうやら気を失っているだけのようだ。頬を殴られたのか、唇の端が切れて血が出ていた。

「姉さん、目を開けてくれ! 姉さん!」

 軽く肩を叩くと、姉はうっすらと目を開けた。焦点の定まらぬ瞳でデュカスを見つめ、そして目の前にいるのが自分の弟だとわかると、双眸を大きく見開いた。見る見るうちにまなじりから涙がこぼれる。

「デュカス…」

「怪我はないか?」

 いたわるように声をかける弟の首に、彼女はすがりついた。

「……怖かった」

 消え入りそうな声で呟く姉の体は震えていた。

 デュカスは微かに狼狽する。手のやり場に困り、姉の頭をそっとなでてやった。

「もう大丈夫だから」

 幼い子どもを諭すように言うと、姉は少女のように怯えた目でデュカスを見つめ、青い顔で頷いた。しかし突如はっとした表情になると、

「あの子は…イニャキは!?」

 慌てて室内を見渡す。デュカスもそれにつられて首を巡らせ――そして、床の上で倒れている少年の姿を発見した。少年は床に倒れたまま動かず、周りに赤い染みを作っていた。その染みは床下の食料庫から引きずるように続いている。デュカスは慌てて彼に駆け寄った。銃で撃たれたのか、腹部から出血している。恐る恐る覗き込むと、イニャキは顔が半分ほど火傷でただれていた。

「おいイニャキ、しっかりしろ」

 反応はない。しかし少年の胸が、弱々しくはあるが上下しているのを確認すると、デュカスは安堵の息をついた。血だらけになっている少年を背中に担ぎ上げ、再び姉の元へと戻る。

「行くぞ姉さん、ここから逃げるんだ」

 頷いた姉の手をひき、デュカスは出口へと向かい始めた。炎が行く手を阻み、外までの道のりがひどく遠く感じられる。頭上で、ぎし、という音が聞こえた。

 床はほとんどが火に呑まれ、足の踏み場を確保することすら困難な状況だった。息を吸い込むと、乾いた喉が焼けるように熱い。額からは大粒の汗が流れ、こめかみを伝った。

 慎重に足場を選び、背中のイニャキが落ちないよう、そしておぼつかない足取りで歩く姉の手をひく。神経を集中させて一歩一歩踏みしめて進んでいると、背後で轟音が聞こえた。はっとなって振り返ると、先刻までデュカス達のいたテーブルの辺りに、大きな火の塊が落ちてきていた。天井のはりが一本崩れたのだ。

 急がなければと思う間もなく、今度は目の前に火柱が立ち昇った。正確には上から別の梁が落ちてきたのだが、あまりにも突然だったので、デュカスにはそれが火柱のように見えた。

 反射的に避けた拍子にバランスを崩し、床の上に叩きつけられる。とっさにイニャキ少年をかばったが、その代わりに焼けた床の上で、自分の腕が焦げ付くのを感じた。思わず悲鳴をあげる。痛みをこらえて何とか立ち上がると、イニャキ少年を背負い直し――デュカスの背筋は凍りついた。

 恐る恐る、自分の右手を見つめる。さっきまで握っていたはずの姉の手を、離してしまった。

 狼狽して首を巡らすと、案の定、姉は火柱の向こう側にいた。彼女だけが取り残されてしまったのだ。デュカス同様、床に叩きつけられたらしく、その身を起こしかけていた。

 デュカスが何も言えず呆然としていると、姉は顔を上げ、そして自分の置かれた状況を瞬時に察知する。炎を隔てて立ち尽くす弟を見やると、何か言いかけた。美しい姉の顔が、一瞬だけ絶望で歪む。しかしすぐに表情を改めると、彼女は言った。

「行きなさい、デュカス。あなたたちだけでも助かるのよ」

 今しがたの絶望を微塵も感じさせない、屹然とした口調だった。

 デュカスは何か言いかけた。だが、言葉にならなかった。弱々しくかぶりを振って姉に近付こうとしたが、

「だめ! 来ちゃだめ! 早く行きなさい!」

 強い制止の声に、思わず体を強張らせた。平素の姉からは想像も出来ないほどに、その語気は強かった。やはりデュカスが何も言えずにいると、姉は驚くほど穏やかな表情で、笑んだ。

「お願いよ、デュカス。あなただけでも生きて」

 それは死を覚悟した者の顔だった。

 ゆっくりと、デュカスは一歩足を後退させた。真上から天井のきしむ音が聞こえる。

「そうよ、いい子ねデュカス。……大好きよ」

 我が子を諭す母親のように、姉はやわらかく微笑んだ。

「さようなら」

 姉の唇が最後の言葉を紡ぐと同時に、デュカスはきびすを返して走り出した。床を蹴るのとほぼ同時に、今までいた場所に新たな火の塊が落ちてきた。

 家の外に出てしばらくして、背後からそれまでで最大の轟音が聞こえ、家が崩れるのが分かった。しかしデュカスは振り返らなかった。

 血がにじむほどに唇を強く噛み締め、涙をこらえながら、無我夢中で走り続けた。

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