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欧州――第13地区。0日目。
老婆は、畑仕事の手を休めて空を仰いだ。
澄んだ青が広がっていた。所々ちぎれるように雲が流れているものの、晴れた空を拝むのは久しぶりだった。仕事にも精が出るというものだ。
不意に、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、まだ幼い孫が裸足のままで家の玄関先から手を振っている。昼食の支度ができたらしい。
老婆は目を細め、すぐに行くと答えた。
その時、だった。
物々しく武装した男たちが、突如として村の入り口に現れたのは。
そのうちの一人が老婆と目が合うや否や、片手を挙げて他の男たちに合図のようなものを与えた。彼らはそれを受け、蜘蛛の子を散らすようにみな散り散りになって村の中へと駆け出す。
一人一人、手には老婆の見たこともないような武器を持ち、どんどんと村の中に流れ込んでくる。その数はおよそ十数名。もちろん、老婆の見知らぬ顔ばかりだった。
驚き立ち尽くしていると、その中の一人が畑の中に踏み込んできた。ああ、と老婆は思わず悲嘆の声をあげる。収穫間近のニンジンの葉を、男は無遠慮に踏み荒らしてゆくのだ。自分の足元で悲鳴を上げる野菜たちには目もくれず、老婆に向かって何事か言いながら近付いてくる。
やはり、村の者ではない。老婆の見たことのない顔だった。
男はいらだたしげにまだ何か言っているが、老婆に彼の言葉を聞き取ることはできなかった。老婆の耳が遠くなったせいではない。何を言っているのか理解できないのだ。男の話す言葉の発音が、老婆のものとは異なっている。それだけのことなのに、言葉が、通じない。
やがて軽く舌打ちすると、男はおもむろに拳銃を取り出した。そして撃鉄を起こすと、老婆の額に銃口をあてがう。
自分の身にいったい何が起こったのか、老婆は理解できなかった。
*
遠目に、老婆の頭が破裂するのが見えた。
周囲に銃声が響き渡り、山の鳥たちがいっせいに木々から飛び立つ。同時に、畑近くにいた幼い子どもが甲高い悲鳴を上げる。
青年は、少し離れた所からその一部始終を見ていた。
持っていた封筒の束がするりと手から滑り落ちたが、青年は気にも留めなかった。目の前で起こった出来事を把握しようと、それだけで精一杯だった。
何が何だかわからない。
突然重装備の男たちが村に入ってきたかと思うと、畑の中の老婆を撃ち殺してしまった。彼らは一体何者なのだ。何故、こんなことを。
男たちは老婆の遺骸を畑の中に残すと、今度は目の前にある民家に向かっていた。
先ほどの銃声と子どもの悲鳴を聞きつけ、母親が戸口のところまで出てきている。しかし男たちの姿を見ると、その母親もまた短く叫んだ。そして髪を振り乱しながら子どもの元へ駆け寄り、かばうようにして抱きしめる。
男たちと親子の距離はどんどんと縮まる。
助けてやらなくては。青年は思った。
だがその意に反し、青年の足は
恐ろしさのあまり、青年は顔をうつむけた。じっと、自分のつま先と、そこから伸びる自身の影を見つめる。脳裏に、恋人の顔が浮かんだ。
唇を固く結ぶと、青年は再び顔を上げる。
躊躇っている間にも男たちの数人はあの親子を囲み、下卑た笑いを浮かべて何事か言っている。子どもは目に涙をためて必死に母親にしがみついていた。
一人が、母親の髪をわし掴みにして地面に叩きつけた。
無意識のうちに青年の足は動いていた。強張った体で、取り囲まれている親子の元へと急ぐ。
近付くにつれ、男たちが隣のセゲド村の人間であるということがわかった。話す言葉の強勢が、青年のものと違っている。
放してやれ、と、青年はセゲド村の発音で言った。その声が震えているのが自分でもわかった。
男たちはそれに反応し、物々しい顔つきでこちらを振り返る。そのうちの一人が何事か吐き捨てると、肩から下げていた自動小銃を青年へと向けた。
瞬間、青年は自分の運命を悟った。
そしてこの親子を助けようなどという、下手な正義感を抱いたことを激しく後悔した。
死の恐怖が体中を支配するとともに、青年は恋人の名を呼んでいた。
*
不意に名前を呼ばれた気がして、女は顔を上げた。
彼が帰ってきたのかと思い、縫い物をしていた手を休めて玄関のほうを見やる。しかし誰もいない。気のせいかと、再び手を動かしかけた、その時。
タタタッ
軽快な小太鼓のような音が遠くから聞こえた。
何だろう、今のは。
不審に思って窓の外を眺めた。が、女の位置からは、晴れた青空と漂う雲、そして隣家との垣根が見えるだけであった。いたって変化はない。女は軽く首を傾げた。
それにしても彼は、一体どこで油を売っているのだろう。
村中に結婚式の招待状を配ると言って、朝から出かけたまま、まだ帰らない。おそらく各家々で祝辞の言葉をもらい、立ち話でもしているのだろう。その様子が容易に想像できて、女は思わず笑みを漏らす。
もう随分と大きくなった自分の腹をなでながら、女はその中にいる子どもに話し掛けた。
お父さんは、何をしているのかな。もうお昼ご飯の時間なのにね。
もちろん返事はない。しかし女は幸せな気分に包まれていた。好きな男性と一緒になり温かな家庭を築いてゆく、それは女性にとって最大の幸せであると、女は思っていた。幼いころからずっと同じ村で一緒に育ってきた彼。彼がいない生活など、想像もできない。早く彼が帰ってこればいいのに。女はほんのりと頬を染めて微笑んだ。
視線を膝の上に落とし、再び縫い物の手を動かしかけた。その瞬間。
タタタタタッ
あの奇妙な音が、今度はそう遠くないところから聞こえてきた。女は思わずびくりと肩を震わせる。
やはり、何か変だ。女の心の中に、言い知れぬ不安が広がる。震える手で作りかけのウェディングドレスを握り締め、恋人の名を呟いた。
突如、隣の家から何人かの悲鳴が聞こえた。続いて、今度ははっきりそれとわかる銃の音。
女の肌が粟立った。本能的に、逃げなくては、と思った。
しかし、時はすでに遅し。
玄関の扉が勢いよく開けられたかと思うと、戦闘服姿の男たちが家の中に流れ込んできた。みな手に手に、黒光りする大きな武器を持って武装している。
男たちは無遠慮に踏み込んでくると、家具類を手当たり次第に蹴散らしながら、ずかずかと女に近付いてきた。その目は危険な色を帯びて光っている。
これから何が行われるのかを瞬時に察知し、女は甲高い悲鳴を上げた。
*
絹を裂くような悲鳴だった。
耐え切れずに、少年は両手で耳を覆う。しかしいくら耳をふさいでも、その声は隣の家から間断なく聞こえてくるのだ。少年の目からは涙があふれて止まらず、恐怖のあまり歯の根も合わない。
体中を震わせながら、少年は血だまりと化した部屋の隅にうずくまっていた。
少年の傍らには、母親と妹たちの
隣の家からは依然として女の悲鳴が聞こえていた。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
朝、少年が隣村へ労働に出るときは、いたって普通の平穏な一日の始まりだったのに。
労働から帰ると、武装した見知らぬ男たちが自分の家に入っていくのを、少年は見た。尋常ならざる気配を察し、とっさに物陰に身を隠した。しかしその直後に少年が耳にしたのは、家族の悲痛な叫び声と、容赦ない幾つもの銃声だったのだ。
あまりに突然の出来事で、それは少年の理解の範囲を超えていた。
わかるのは、自分の家族は皆殺しにあっているのだ、ということだけだった。
少年は物陰に隠れたまま動くことができなかった。かろうじて歯を食いしばり声を押し殺すことで、男たちに見つからぬよう努めた。
男たちが去った後に、少年は恐る恐る家の中に足を踏み入れ、そして、その場で硬直した。
それは虐殺そのものであった。
ひっくり返った机や鍋の中、少年の家族は人形のように転がっていた。それらは全て、もはや人としての原形をとどめてはいない。ただの肉塊に成り果てていた。
隣の家からは、なおも女の悲鳴が止むことはない。
いつも優しくしてくれたあの女性も、自分の母親たちと同じように殺されてしまうのだろうか。しゃくりあげながら、少年はそんなことを思った。いやだ、みんな死んでしまう。
少年は額を自分の膝頭に押さえつけ、両手できつくきつく耳をふさぎ、涙を流し続けた。
突如、女の声がひときわ高い断末魔の叫びに変わる。
そしてそれきり何も聞こえなくなった。
あの女性も、殺されてしまったのだ。
そっと顔を上げ、母親たちの骸に視線を巡らすと、顔半分がなくなった妹の一人と目が合った。何も映し出してはいないはずのその目は、まっすぐに少年を見ていた。光の宿らぬまなざしで、少年は射すくめられる。
全身に鳥肌が立つのを感じた。
妹たちの泣き声が再び耳によみがえり、その場にいたたまれなくなる。
気がつくと少年は、弾かれたように家を飛び出していた。走りながら少年は心の中で叫んでいた。
助けて。誰か助けて。
とっさに少年の脳裏に浮かんだのは、「兄ちゃん」の存在だった。ここら一帯で一番けんかの強い彼なら、きっと助けてくれるに違いない。あんな変な男たちのことだって、やっつけてくれるに違いない。
無論それは、子どもらしい、甘い発想だった。いくら「兄ちゃん」が強くても、あれだけの人数、しかも武装した人間を相手に勝てるはずがない。
しかし少年は、「兄ちゃん」なら大丈夫だと信じて疑わなかった。彼なら、助けてくれるに違いない。
彼の家を目指し、少年はひたすらに走った。
*
転がるようにして、少年が家の中へ駆け込んできた。
彼女は慌ててそれを抱きとめる。
彼女の腕の中で、少年は体中を震わせ、うわ言のようにただ一つのことを繰り返していた。
助けて兄ちゃん、と。
兄ちゃんというのは、彼女の弟のことだった。日頃よく村の子どもたちの面倒を見ているので、彼らからは「兄ちゃん」と呼び慕われている。
おそらく少年は、このただならぬ事態に身の危険を感じ、彼女の弟に助けを求めに来たのだろう。弟の強さは、村人みなが知るところだ。
しかし弟は昼前に山の麓まで出かけたきり、まだ家に帰ってきていない。いや、たとえ彼がいたとしても、この状況、彼一人の力でどうにかなるようなものではないだろう。
実際のところ彼女にも、今この村で一体何が起こっているのか、理解できなかった。
先程から断続的に聞こえてくる銃声と、耳を覆いたくなるような人々の悲鳴。尋常な事態でないことだけは明らかだった。
否が応でも高まる不安と恐怖。
それでも彼女は、自分の腕の中でしゃくりあげている少年に対しては、努めてそれを見せないようにした。力をこめて少年を抱きしめ、そしてぎこちない笑顔を作る。
私が、守ってあげるから。
しかし少年は目から涙をぼろぼろとこぼしながらかぶりを振り、そして、兄ちゃんはどこかと尋ねた。
彼女は言葉に詰まった。
「兄ちゃん」はいない、とは言えなかった。言えば少年に絶望を与えてしまうだけのような気がした。
答えないかわりに、彼女はもう一度少年を強く抱きしめた。
私が、守るから。
その言葉の、そして自分自身の無力さがたまらなく悔しい。弟のような強さが自分にもあれば。彼女は唇を噛んだ。
銃声や男たちの声が、近くの家から聞こえてくる。
この家が襲撃の対象となるのも、時間の問題だ。
彼女はすばやく姿勢を変えると、絨毯をめくり上げて、床下の食料庫の扉を開けた。そして困惑顔の少年をその中へと押しやる。食料庫は小さすぎて、一人しか入ることができないのだ。迷っている時間はない。
顔を涙でぐしゃぐしゃにして、床下から彼女の名を呼ぶ少年の唇に、彼女は自分の人差し指をあてがって、しっと言った。
ここなら大丈夫だから。
泣きそうになるのをこらえながら、彼女は少年に穏やかな笑顔を向ける。少年が、手を伸ばして彼女にすがりつこうとする。お姉ちゃんも、一緒に。しかし彼女はその手を振り払う。
男たちはもうすぐそこまで来ていた。
思い切って彼女は床下の扉を閉める。彼女の心を察したのか、少年がそれ以上泣き叫ぶ声は聞こえなかった。おそらく、暗い食料庫の中で一人、必死に声を押し殺して泣いているのだろう。
彼女は立ち上がると、今度は自分の隠れ場所を探し、ぐるりと首を巡らせた。次の瞬間、勢いよく家の扉が破られる。
何人かの男たちが、みな武器を持ってなだれ込んできた。彼らの服は返り血で赤く染まっている。
思わず後ずさった。
こういう場合、女性がどういう目に遭わされるかは、分かりきった事だ。
食事用のテーブルをはさみ、彼女は男たちと対峙した。足が震え、身動きが取れなかった。
怯える彼女を見た男たちは、いやらしい笑みを浮かべ、じりじりと近付いてくる。
彼女は心の中で、必死に弟の名を呼んだ。
――早く、帰ってきて。
男たちの手が、彼女に伸びる。
硬直したように体が動かなかった。
抗おうにも力でかなうはずがなかった。
頬を強く殴られ、テーブルの上に押し倒され、衣服を引き裂かれる。
男たちは笑いながら、入れ替わりで彼女を凌辱した。
体が、意識が、自分のものではないようだった。
どこか離れたところから、違う自分を見ているようだった。
虚ろな目からは涙がとめどなくこぼれる。
心の中では、ただただ、弟の名と、そして今は戦場にいる恋人の名を、呼んだ。
何度も、何度も呼んだ。
――たすけて。おねがい。
遠のく意識の中で、彼女は、木が勢いよくはぜる音を聞いた。
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