第1章

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欧州――第13地区。0日目。



 多少の時差はあるものの、亜州第三十八地区の爆撃が起こったのと同日、欧州第十三地区は南に位置する、某山中の村にて。



 彼はテーブルの上に置かれた紙切れを手に取ると、ざっと目を通した。

 そこには、野菜や穀物の簡単な絵と、それぞれの名称が小さく並んでいた。文字の読み書きができない彼の為に、姉が作ってくれたものだ。

「姉さん、買ってくる物はこれだけでいいのか? 他にいる物は?」

 台所にいる姉に声をかけると、姉は食器を洗う手を止めて彼の方を振り返った。

 少女のような小柄な体に、白いカーディガンと茶色の巻きスカートを身に纏った姉。長い黒髪が肩を滑るのと同時に、耳元に輝く青いピアスが軽く揺れる。首を傾げて少し考え込み、

「それだけでいいわ。お願いね」

 やわらかく微笑んだ。彼もつられて、笑みをこぼす。

「じゃあ、行ってくる。昼飯までには戻るから」

 紙切れを無造作にズボンのポケットに入れると、彼は扉を開けて外に出る。背中から姉の見送る声が聞こえたので、彼は振り返らずに軽く手だけを振って、それに答えた。

 ここ数日続いていた曇天も去り、刷毛はけで曳いたように広がる青に囲まれて太陽が顔を出していた。彼の黒い髪が、暖かな陽光を受けて鈍く光る。この陽気だと、今羽織っている上着も午後には必要でなくなるかもしれない。

 あまりの気持ちよさに、彼は目を細めて大きく伸びをした。小柄で華奢なその体躯からは、彼がここ一帯では一番の剣の使い手だということなど、想像もつかない。

 眼前には緑の山が迫る。彼の住む小さな集落をぐるりと取り囲んだ山は、青い空を切り取ってその緑の鮮やかさを主張している。その下に点々と広がるのは、赤屋根の家々と小さな畑。

 ふと畑の向こうに目をやると、十歳くらいの少年がこちらに向けて大きく手を振っていた。

「デュカス兄ちゃ―ん! おはよ―!」

 朝から威勢の良い少年に、彼も手を振り返し、声を張り上げた。

「今から仕事か?」

 うんっ、という、これまた威勢の良い声が返ってきた。

「しっかり働いてこいよ! 頑張ってな」

 彼が言うと、少年は嬉しそうに破顔し、隣村へと向かう道の方向へと駆けていった。その姿に、彼は思わず苦笑する。幼い頃の自分を思い出したからだ。

「いつも元気じゃのう、イニャキは」

 突如足元からしわがれ声が聞こえたので、彼は下を見やる。そこには、これ以上ないくらいに目を細めて、少年の姿を見送る老婆の姿があった。

「婆ちゃん、おはよう」

 彼が挨拶すると、老婆は腰を曲げた姿勢のままでこちらへと首を巡らせた。目の周りのしわが深くなる。

「おはよう、デュカス」

「婆ちゃんは今から畑仕事か?」

 彼の問いかけに対して、老婆はゆっくりと頷いた。

「久しぶりにお天道様が顔を出してるでな、野菜たちも喜んでおろう。一汗かいてくるよ。あんたはどこに行くんだい? 仕事かい?」

「いや、今日は麓まで買い出しなんだ」  

 気を付けて行っておいで、との言葉をもらい、彼は老婆と別れた。

 各家の庭先には色とりどりの花が飾られている。それらの前を通り抜け、村の出入口に向かって歩いていると、今度は後ろから声をかける者があった。

「おはよう、デュカスくん」

 振り返ると、細面の青年が、にこにこしながら近付いてきた。

「今日はいい天気だよねぇ。デュカスくんは今から出かけるの?」

 のんびりとした口調で空を仰ぐと、青年は彼の目の前までやってくる。その手には、封筒の束が握られていた。

「ちょっと麓まで。セイにぃは配達の仕事か?」 

 彼が封筒に目を落としながら尋ねると、青年は少し照れたように頭を掻いた。

「ああ、これはね、僕等の結婚式の招待状だよ。来月に決まったんだ。今から村のみんなに配るところさ」

「来月か! おめでとう、セイ兄。みんなで盛大に祝わなくちゃな」

 彼が祝辞を述べると青年は、ありがとう、とはにかんだ。

「デュカスくんの家にも後で行くからね。カヤさんに渡しておくよ」

「うん、姉さんなら今日は家にいるから」

 麓の町へと続く道が見えたので、彼は青年とも別れる。村の玄関口である石垣の小さな門をくぐり、林道に出た。

 普段どおりの、見慣れた光景。もう幾度となく繰り返してきた、朝の挨拶、そして村人との対話。

 生まれてから十六年間ずっとここで暮らす彼にとって、それはあまりにも当たり前の光景だった。本当の肉親は姉一人であるが、あの少年も、老婆も、そして青年も、皆それぞれ、彼の弟であり祖母であり兄であるのだ。

 だから彼は、信じて疑わなかった。今日村に帰ってきた時にも、いつものように、皆が暖かく出迎えてくれるのだと。

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