第93話 あんいんあ、あいあ
「あの金曜はホントに、気分的にも体調的にも最悪で。朝から何となく風邪っぽいし、会社でもヤなこと続いてたし、帰りの電車でデブいオッサンに足踏まれるし」
「あー、時々あるね。そういうダメなのがまとめて来るやつ」
ここ最近のゴタゴタが一段落した後、どうしても言っておきたいことがあった私は、
あの人は、友達にもう一人カズキがいるからって、いつも苗字で呼んでた。
でも、わたしの知り合いには和樹しかいないから、下の名前でもって呼ぶ。
急に連絡したのに、嫌な顔もせず来てくれた和樹だけど、疲れた顔にはなっている。
私もたぶん、似たり寄ったりの表情なんだろうけど。
「明日は土曜で休みだし、お酒でも飲んでグダグダになって寝ちゃおう、と思ったんだけど……そんな時に限って妙に目が冴えて」
「それもまぁ、あるあるかも」
「しょうがないから、そのまま動画を見たり読みかけの本読んだりして、四時前になってやっと眠くなってきたから布団に入って、電気を消したのね。それで……」
その後の出来事が
忘れようにも忘れられないのに、言葉にして語るのがどうにも
唐突に黙り込んだ私に、和樹が心配そうな目を向けてきた。
ここで
ミルクティのグラスを手にし、一口飲んでからテーブルに戻して話を続ける。
「目を閉じようとしたんだけど、上手くいかないんだよね」
「ん? 眠いのに眠れない、とか?」
「じゃなくて、物理的に目が
「えぇと……
「そうそう、そんな。『何これ?』と思って軽くテンパって、一度起き上がろうとしたんだけど、それもできないし。もしかしてこれ、金縛りってヤツかもって」
「……マジでか」
疑っているワケじゃなく、つい漏れた感じに和樹が呟く。
怪談じゃベタな
だけどアレは絶対、そういうんじゃない。
あの、どうやっても体が動かない状況には、
「寝返りを打とうとしてもダメ、手足の指先を動かそうとしてもムリ、声を出そうとしても舌が動かない。それで、どうしようどうしようって焦ってたら、何か音が聞こえるの」
「音って、音楽?」
「じゃなくて。わたしの部屋、フローリングなんだけど……その床の上を革靴で歩いてるような、そんな音」
「完全に来ちゃってるパターンだ」
タン、トン、タン、トン――と、スローテンポで繰り返し聞こえる足音。
歩き回っているようでもあり、同じ場所で足踏みしているようでもある。
すぐ近くから聞こえているハズなのに、発生源との距離感がまるで掴めなかった。
左を向けば相手の姿は確認できそうだったけど、体はまるで動いてくれない。
「それで、音だけじゃなくて……誰かそこにいるな、って気配も濃くなって」
「うん」
「いる、何かいる、何かいる、絶対ヤバい! ってビビりながら、近くにいるそれに意識を集中してたら……聞こえてくるの、荒い呼吸が」
「もしかすると、自分の息だった説ないかな」
言われてみれば、その可能性はある。
でも、そうじゃない。
あの時のわたしにとっては、間違いなく「それ」の
「かもしれないけど、こう『じゅーぅ、ぶぅーう、ぶじゅーぅ』みたいに、口の中に唾を溜めながら、長距離走の後の深呼吸をしてる感じの、そんな音で」
「金縛りになって、音がして、気配がして、ってなったら次は……」
「まぁ当然そうなるけど、見えたの。見えたっていうか、視界に入ってきたっていうか」
「あー……だよね……で、それはやっぱり……先輩だった?」
短くはない
わたしは肺の中身を全部出す長さで息を吐き、小さく頷いてから答える。
「そう。仰向けで、電気は消えたままなのに、妙に天井がハッキリ見えてて。そこにこんな風に、スッとね。あの人の……
「あの日の夜に、そういうことが起きるってのは……わからなくもない、っていうか」
「今なら、ね。今ならわたしらも知ってるから、そう思えるけど……あの時はもう『どうしていんの』とか『いつの間に来たの』とか、そんな疑問ばっかりで。とりあえず、自分の状態を伝えようとしても、やっぱ声にならなくて」
こちらに向き直った和樹の顔は、各種感情がゴチャ混ぜの奇妙な色合いになっていた。
同情、興味、
言葉を探すような間を置いて、氷水のグラスに手を伸ばした和樹は、中身を半分ほどに減らしてから言う。
「それで、先輩は……?」
「しばらく、わたしを見下ろしてた。それが三十秒くらいだったのか、五分くらいだったのか、ちょっとわかんないんだけど」
「表情っていうか、雰囲気っていうか、そこらへんは」
「あれは……何だろ。真顔なのか無表情なのか、今までにあんまり……ううん、違うな。全然見たことないタイプだった」
わたしの返事に、和樹の眉根に
目線がこちらから外れ、空中を
記憶の中から、似ているものを拾い上げようとしているのだろうか。
「そんな、変な感じの悠多がずっと黙ってるから、あれ、これ何かおかしくない? って段々不安になってきて。訊きたいことは一杯あるのに、声が出ないし」
「先輩は……それから?」
「それから……のことは、たぶんそうだったんじゃないか、って想像もね……だいぶ入ってると思うんだけど」
「うん」
小さく
わたしはもう一度あの光景を思い出し、きっとそういうことなのだろう、と自分を納得させてから話を続ける。
「声は、聞こえなかったの。でも、喋ってるみたいに、悠多の唇が動いたの」
「……どんな感じに?」
「短いフレーズを繰り返してるみたい、だっただけど……何て言ってんのかわかんなかった。でも、わからないって伝える方法もなくて、どうすればいいんだろなと思ってたら、不意に体が動くようになって」
「そこで、何て言ってるかがわかった?」
「ううん、体を起こすと同時に、悠多はいなくなってた」
腕組みをして首を傾げている、その
この意味不明な体験談がどういう意味なのか、真剣に考えてくれているようだ。
馬鹿にされたり否定されたりしたら、ここで話を終わらせようと考えていた。
だけど、この和樹の様子だったら――わかってもらえるかも。
「部屋の明かりを点けたけど、当然ながら悠多はいなくて。どういうことだったのか考えてる内に、イヤな予感がぶぁーって膨らんで。ライン送っても返事がないし、既読も全然つかないから、電話してみても出てくれないの」
「……ん」
「そっから鬼電したけど、やっぱ出なくて。悠多の友達に連絡しようかとも思ったけど、こんな時間に連絡するのも非常識だし、って考えちゃってどうにもならなくてさ」
電話に出られなかった理由を知っている和樹は、苦々しげに頷く。
「まぁ、唐突にそんな連絡が来ても、困っちゃうかもな」
「だよね……だから、何とかしないとって焦ってるのに、何にもできない時間が続いて。したら変な汗も出てきたから、顔を洗おうと洗面所に行ったのね」
鏡に映った自分は、疲労と眠気と不安で酷い有様だった。
さっきのはただの夢で、きっと寝て起きたら悠多からの返信が来てる。
何度そう言い聞かせても、脈拍の速さは鎮まってくれない。
「顔を洗って、ちょっと落ち着いたら……さっきの悠多は何て言ってたのかな、ってのが気になって。だから、鏡に向かって口の形を真似してみたの。こういう感じに」
声を出さずに形だけを再現してみせるが、和樹のリアクションはない。
なので、今度は
「あんいんあ、あいあ……どうかな?」
「いや、どうと言われても」
「わたしも何だかわからなくて、繰り返し口に出してみたのね。それで色々な言葉を当て
「……どんなのが?」
こちらの緊張が伝わったのか、
わたしは溶けた氷で薄まったミルクティをの残りを飲み干し、答えを述べた。
「
「えっ……あぁ、そうなるか。なるほど」
戸惑いの声から、数秒で納得に転じる和樹。
奈良生まれで大阪育ちだった悠多は、基本関西弁だった。
わたしに謝ってくる時は、「ごめん」でも「すまん」でもなく「堪忍な」。
「何を謝ってたのかな、って不思議だったけど……その後すぐ、警察から電話があって……悠多が、悠多が……」
部屋が火事になって、行方不明だという連絡。
夜が明けてから、遺体が発見されたとの報告。
二本の電話の間に、自分が何をやっていたのかよく覚えてない。
あの日の出来事については、今でも所々が
言葉に詰まって涙目になっているわたしを、和樹は静かに待っていてくれる。
「わざわざ謝りに来るなら、もうちょっとちゃんと……ねぇ? お別れの言葉とかもさ、あるじゃん」
「先輩は、まぁ……口下手でしたから」
「それはそう……だった、かな。あー、何かゴメンね。変な話、長々としちゃって」
「俺でよければ、真理奈さんの話だったら、いつでも……聞き流すから」
「そこはちゃんと聞いてよ!」
湿っぽい空気になりかけたが、和樹はそれを中和するように阿呆なことを言う。
悠多に死なれてからの一月ちょっと、ずっとやりきれなさを抱えて過ごしてきた。
出火の原因が不明なままなのも、鬱々とした気分に拍車をかけている。
だけどそんなつらさも、この
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます